「嫌われる勇気」第二夜:縦の関係 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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アドラー・岸見・古賀

嫌われる勇気」第二夜

     

     人生のタスクは人間関係 

   (生きる意味は  人間関係)

     比較と競争の   縦の関係

   (人間関係を壊す 縦の関係)



  人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、

  自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます

  われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、

  自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています

【すべてはわたしである】


  だから 問題世界がどうであるかではなく、  あなたがどうであるかなのです

わたししかいない】 

 あなたは 世界を、そして 自分自身を  直視することができるか。

  あなたにその「勇気があるか


  これは「勇気」の問題です。

  まず自分のライフスタイルが縦の関係であることを認めることが勇気の第一歩です

  人生から 逃避してはいけません。              

  人生とは  人間関係のことです。

 

 

第二夜:

すべての悩みは対人関係

(すべての幸福も対人関係)

 


哲人 なぜ あなたは 自分が嫌いなのか?  

  なぜ ありのままの自分を受け入れられない【自己受容できない】のか?  

  それは あなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているからです。

  あなたの 「目的」 、 「他者との関係の中で傷つかないこと」  「不快な経験をしないこと」  「自己防衛」  「嫌われたくないこと」です。

【防衛を止める(逃げない)ことが 自己受容に繋がる】


  では どうやってその目的をかなえるのか?  

  自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、

  対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。

  そうやって自分の殻に閉じこもれば誰とも関わらずにすむし、

  かりに他者から拒絶されたときの理由づけにもなるでしょう。正当化ってやつですね。

【劣等コンプレックス:劣等であることに(して、そこに)逃げ込むこと】


青年 ・・・ははっ、見事に喝破されましたね!

哲人 はぐらかしてはいけません。

  短所だらけの「こんな自分」でいることは、  あなたにとってかけがえのない「善」 

  すなわち「ためになること」  「正当な理由・原因・手段」です。

  対人関係のなかで傷つかないなど基本的にあり得ません

  対人関係に踏み出せば 大なり小なり傷つくものだし、 あなたも他の誰かを傷つけている

  当たり前のことです。

  孤独というより孤立】を感じるのは、あなたが一人だからではありません。

  あなたを取り巻く他者社会共同体 があり、

  そこから疎外されていると実するからこそ、孤独【孤立】なのです。


  関わりたいのに、 関わることを避けている。  逃げている。    アドラーは、

人間の悩みは すべて対人関係の悩みである」と断言します。

 


劣等感 と

劣等コンプレックス優越コンプレックス


哲人 劣等感とは、自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだといった感覚。

  自らへの価値判断に関わる言葉であり、    他者との比較で生まれる 主観的な意味づけです。

  われわれを苦しめる劣等感は客観的な事実ではなく、「主観的な解釈」です。

主観であれば自分の手で選択可能だ  ということになります。

  たとえば 自分の155cmしかない身長について、

(他人に威圧感を与えない)長所と見るのか それとも短所と見るのか、

  わたしは どちらを選ぶことできます

青年 ライフスタイルを選びなおす、という あの議論ですね?

哲人 そうです。われわれは、客観的な事実を動かすことはできませんが、

  主観的解釈はいくらでも動かすことができます

  短所のように思えることをキッカケに、   努力することもできます。

青年 劣等感をバネにするのですね?

哲人 そうです、それが正しい態度です。


  ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ

状況は現実的な努力によって変えられるという事実受け入れられない人たちいます。

  何もしないうちから(or すぐに

「どうせ自分なんて」  「どうせ頑張ったところで」と、  あきらめてしまう人たちです。

  これは歪められた劣等感であり、

  劣等コンプレックスと呼ばれます。

  たとえば 学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから

「わたしは学歴が低い。だからこそ 他人の何倍も努力しよう」

  と決心するのだとしたら、望ましい話です。


  一方の劣等コンプレックスとは

  自らの劣等性をある種の言い訳(正当化:逃避)に使いはじめた状態のことさします。

  具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」というような

「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざす態度です。

  正当化のために、無理やり勝手な因果関係を引き出してきます

  これが「原因論がおちいる罠です。

青年 それでも現実問題として、

  高い学歴を持っていたほうが社会的な成功を手に入れやすいですよね?

哲人 問題は、そうした現実にどう立ち向かうかです。

  何が 与えられているか ではなくそれを どう使うかなのです

  都合のいい因果関係を持ち出す人は、単純に一歩前に踏み出すことが怖い

  また、現実的な努力をしたくない

不満はあるものの一度確立してしまった生き方(ライフスタイル)

  のままの方が 安心」 で なのです

  ライフスタイルを変える勇気がないのです。

「わたしは学歴が低いから成功できない」という考えは、逆にいうと、

「学歴さえ高ければ、わたしは成功できるのだ」という理屈になります。


  この心理状態は 容易に優越コンプレックスに転換します。

青年 それはなんですか?

哲人 強い劣等感に苦しみながらも、努力によって克服する勇気がない

  かといって劣等コンプレックスのままも我慢できない

「できない自分」を 受け入れられない。    すると 人は、 もっと安直な手段を使います

  それが優越コンプレックスで、

  あたかも自分が優れているかのように振る舞い偽りの優越感浸るのです。

【ブランド好きは 優越コンプレックス】

  たとえば 自分が権力者と懇意であることを、  ことさらアピールする。

「わたし」 が優れている訳ではありませんが、  権威と結びつくことによって、

  あたかもわたしが優れているかのように見せかける

  権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、他人が自分をどう見るのかにだけ関心があり、

  結局 他者の価値観に生き他者の人生を生きているのです承認欲求

 


優越性の追求は 他者との競争ではない


青年 でも人は誰でも、自分の中の不十分なところを改善しようとしますよね。

  それは「優越性の追求」ですよね?  それはいいんですか?

哲人 あなたは「優越性の追求」という言葉を、他者より優れていようとする欲求、

  他者を蹴落としてまで 上に昇ろうとする欲求と思っているようですが、そうではありません。

「優越」とは 自分を超えるという意味であって、

  他者よりも上をめざそうとする競争の意志ではありません。

  誰とも競争することなくただ前を向いて歩いていけばいいのです。

  他者と自分を 比較する必要はありません


【過去の自分と比べて 「成長」 するという意味で、 「優越」 より 「向上」 と言う方が 適切であろう。

  自分の向上のため、そして 自分の喜びのためにする努力が適切な努力であって、

  他者と比べて勝とうとする努力は 苦しみを生みだす


【サティによって、 自分と他者の本質が それぞれに 「存在そのもの全体」 であること

  同時に 他者もわたしも生老病死の苦しみをともにする仲間であることを知れば、

  つまり、わたしたちの構造が 皆すべて等しく本質自我からなることを知れば、 

  比較・競争は 完全に消滅してしまう】


青年 いや それは無理でしょう。他人と比べてしまうでしょう【なぜ 無理なのか?】

  劣等感はそこから生まれるのではないですか?

哲人 健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、

「理想の自分との比較から生まれるものです。

  われわれは 誰もが違っています。

  性別・ 年齢・ 外見・ 知識・ 経験・ 能力、  まったく同じ人間などどこにもいません。

  他者との間に 違いはあります。 しかし われわれは、 「同じではないけれど対等なのです

  その 「機能の違い」 、 善悪や優劣などという  価値と絡めてはいけないのです

  どんな違いがあろうともわれわれは 対等なのです


部分としては 違うが全体としては みな同じ

「違い」 は、 状況によって たまたま良い」 ことも、たまたま悪い」 こともあるだろう。

  その(状況に条件づけされた)「部分の違い、  (価値判断する思考によって)

全体の(価値の)違い」 に変換してはいけない


  自分が 自分で【自分らしく】あろうとするとき、  競争はかならず邪魔をしてきます。


/というの限定されたある一つの価値軸においてのみ成立する

  全体としての人間が、全体として 優れているとか劣っているということは あり得ないので、

人としての優越感/等感 まったくの幻想である】                 

 


比較・競争が 不幸を引き起こす


青年 ところで、そもそもの「すべての悩みは対人関係の悩みであるということと

  劣等感の話は どうつながるのですか?

哲人 それは、「比較・競争」を介してつながります。

  対人関係の軸に「競争があると

  人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができないのです。

青年 なぜ?

哲人 競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

  競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが他者はという意識が隠された

(他者との比較における)劣等感/優越感です。

  常に 自分と他者とを引き比べ、あの人には勝ったこの人には負けた、と考えているのですから。

  さて、 このとき あなたにとっての他者とは、  どんな存在になると思いますか


青年 さあ、ライバルですか?

哲人 いえ、単なるライバルではありません。  いつの間にか、

  他者全般のことを、ひいては世界のことをだと見なすようになるのです。

  人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、

  陥れようとしてくる油断のならない敵なのだ、世界は怖ろしい場所なのだと。

  だから自分を守ろうとします自己防衛

  競争の怖ろしさは ここです。

  たとえ敗者にならずともたとえ勝ち続けていようとも

  競争のなかに身を置いている人は 心の休まる暇がない

  敗者になりたくない。そして敗者にならないためには常に 勝ち続けなければならない

  他者を信じること(他者信頼)ができない。

  社会的成功をおさめながら 幸せを実感できない人が多いのは

  彼らが 競争に生きているからです

  彼らにとっての世界が敵で満ちあふれた危険な場所だからです

  しかし 実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?  

  あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、

  その機会を虎視眈々と窺っているものでしょうか?  

  そんなことはないですよね。


  では、あなたが対人関係を競争の軸で考えなかった場合

  人々はどんな存在になると思いますか?  

  そのとき人々は、「ではなく仲間になっていくはずです。

「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」のは、

  対人関係を競争で考え、 他者の幸福を 「私の負け」 であるかのように捉えているからです。


  しかし、(サティ【】によって)一度競争の図式から解放されれば、

  誰かに勝つ必要などなくなります。「負けるかもしれない」 という恐怖から解放されます。

  他者の幸せを 心から祝福【】できるようになるし、

  他者の幸せのために積極的な貢献【】ができるようになるでしょう。

  その人が困難に陥ったとき、いつでも援助【】しようと思える。それは 

  あなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。

  大切なのはここからです。

人々は わたしの仲間なのだ」 と実感できていれば

  世界の見え方は  まったく違ったものになります

  世界を 危険な場所だ と思うこともなく、 不要な猜疑心に駆られることもなく、

  世界は 安全で快適な場所に 映ります。    対人関係の悩みだって激減するでしょう。


【比較・競争がなくなると、

に支えられた)、 すなわち

本当の」 が  ごく自然に湧き上がってくる】

 


競争を軸に 対人関係をとらえていると、    

権力争いと 怒りが発生する


哲人 誰かが言いがかりをつけてきたとき ①  その人の隠し持つ 「目的」 を考えてみましょう。

  相手の言動によって腹が立ったときには

  相手が権力争いを挑んできているのだと考えてください。

【いつも そうとは限らないが…】

  その目的は 「闘うこと」 そのものでしょう。

青年 闘って、何がしたいのですか?

哲人 勝ちたいのです。勝つことによって自らの力を証明し、優越感を感じたいのです。

  対人関係において自分が上であることを確認したいのです。それは「権力争い」です。

  権力争いを挑まれたときには絶対に 乗ってはいけません

  相手が闘いを挑んできたらそしてそれが(サティによって)権力争いだと察知したら、  

  いち早く争いから降りる

  相手のアクションに対してリアクションを返さない

  われわれにできるのは、それだけです。


青年 どうやって 怒りをコントロールするのですか?

哲人 怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね?  

  そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。

【それが気づきの瞑想:サティ】

  怒りとは コミュニケーションの一形態であり

  なおかつ 怒りを使わないコミュニケーションも可能です。

  われわれは 怒りを用いずとも意思の疎通はできるし

  自分を受け入れてもらうことも可能です。

  それが(サティによって)経験的に分かってくれば、  自然と怒りの感情も出なくなります

  怒りという道具に頼る必要が なくなります。


なぜ あなたは 比較競争に囚われてしまうのか?  


  社会を生き延びるために 「有利」 な立場になるためには

  他者との比較競争が避けられないからである。

  このために家庭でも学校でも社会でも、 比較競争の価値観が持ち出されることが多い。

  そこでの 「比較・競争」 は  社会で必要とされる 「機能」 に限定されるハズなのに

  それが  「人間としての優劣」 であるかのように  誤解され易いからである


  それは 人間の全体ありのままに見ることなしに、   

  特定の 「良い」思われる 「部分 価値だけにしか注目していないからである。

「全体」 を「良いもの」 と 「悪いもの」 に勝手に分割分離し、 「良いものだけを追い求め

悪いものを追い払おうとしているからである。

  あなたが勝手に 「悪いもの」 としたものは、  本当の本当に悪いものなのか



  権力争いについて もうひとつ ②

  いくら自分正しい思えた場合あっても、

  それを理由に相手を非難しないようにしましょう。

  ここは多くの人が陥る、 対人関係の罠です。

  人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間

  権力争いにまで踏み込んでしまいがちです。

  わたしは正しい。すなわち相手は間違っている

  そう思った瞬間に、「正しさ勝ち負け」 「競争おける優劣変換されてしまいます

主張の正しさ」 が  「対人関係のあり方」に移ってしまいます

正義は 暴力とともに、 人類が攻撃と防衛のためにしばしば利用する 最強の武器である



どんなときに 怒りが発生するのか

1. 自分が優位に立とうとして、それができなかったとき:これは 上記①と反対の例。

2. 自分が尊重されず、劣位に立たされそうになったとき:これが 上記①の例。

3. そして 自分の価値観に従わない、 つまり 間違っていると思う人や状況に対したとき

:これが 上記②の例 広い意味1になる】

 


人生のタスク


哲人 どうして あなたが他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか?  

  それは、勇気をくじかれたあなたが「人生のタスクから逃げているせいです。

  子ども時代、われわれは親から守られ、とくに働かずとも生きていくことができます。

  しかし、やがて「自立するときがやってくる。

  いつまでも親に依存し続けるのではなく、

  精神的に自立するのはもちろん、社会的な意味でも自立し

  なにかしらの仕事に従事しなければなりません。

  さらに、成長していく過程でさまざまな交友関係を持ちます。

  もちろん誰かと恋愛関係を結び、それが結婚にまでつながることもあるでしょう。

  そうなれば 夫婦関係が始まりますし、子どもを持てば 親子関係が始まるわけです。

  アドラーは  これらの過程で生まれる対人関係を、

仕事のタスク」  「交友のタスク」  「のタスク」の3つに分け、

  まとめて「人生のタスク」と呼びました。これらは もっぱら関係を軸とした言葉です。

  関係の距離と深さが違います。「3つの絆」  と言われることもあります。

  ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき

  直面せざるをえない対人関係、それが人生のタスクです。


  仕事のタスク。すべての仕事。これは 広い意味で 他者との協力で成り立っています。

  また、成果という共通の目標があります。

利益」 を媒介に結ばれている 弱い絆関係であり、 そのなくなれば 関係なくなってしまいます。

  経済的な自立を確立するための、もっとも浅い、ハードルの低い対人関係です。

  そして、この初歩的な対人関係さえつくれなかったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。


  交友のタスク。仕事を離れた友人関係。

  仕事のような強制力が働かず、学校や職場のような「場」を超えた関係。

  その人のあり方自体に惹かれるような関係。

「利益」 ではなく「(共通の)関心interest」  を介して結ばれる対人関係です。


  愛のタスク。夫婦関係と親子関係。

  人は、「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感できます。

  それは たがいに相手を尊重尊敬信頼し、  感謝しているという

横の関係」が  成立しているからです。

  対等の人格として接しているからです。

全体と全体の対等関係:横の関係が成立している。

  このとき たがいに防衛機構を解除しており、  それが 「自由」 や 「愛」 を感じさせている】


  相手を束縛するのは、 愛ではありません。

  束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づいています。

  それは「縦の関係」です。


  アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスク(人間関係)を回避しようとする態度を、

人生の嘘【人生からの逃避】と呼びました。

  厳しい言葉でしょう。いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。

  他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている

  それは「嘘つき」だ、と。

  あなたのライフスタイルを決めたのは、他の誰でもないあなた自身である、 のですから。


ライフスタイルを決めたのは自由意思であった、とは言えないかも知れない。

  緊急避難的な、やむを得ないものであったのであろう。

  しかし、  それを再選択しようとするのは

  まぎれもない  あなたの自由意思であり、   あなたの勇気である

  あなたの自由意志で、ライフスタイルを再選択せよ

 

青年 結局 最後は、「勇気」の話ですか。

哲人 われわれは(幸福になるために)目的論の立場に立って、     

  自らの人生を自らのライフスタイルを、  つまり 自らの価値観を、 自分の手で選ぶ  のです。

青年 でも、 結局のところ 先生のお話は精神論ではありませんか?  

  お前は勇気がくじかれている。勇気を出せ、  と言っているにすぎない。

【その精神論を超えるためにはサティが必要】


哲人 では次に 精神論で済まさないために、

  勇気ではなく、勇気を語る上で欠かせない  自由について議論しましょう

第三夜:課題の分離】

 

 

第二夜のまとめ:

横の関係で他者を仲間とみなすべし


  他者をと見なすライフスタイルでは、  つねに  他者と競争している

  本来は見かけは違うが、存在としては)対等である他者を

  上下優劣の 縦の比較の関係 で見ている

」 だらけの世界では心休まるときがなく

  つねに  勝ち続けるための努力が課され、    劣等感や優越感に苛まれる。  

  完全な勝利はあり得ずいつまでも賞賛を要求し続け(承認欲求)権力争いの日々が続く


  これこそがわたしが自分を好きになれない幸せを感じられない理由である

  他者世界との横の対等な関係が 築かれていてこそわたしは幸せを感じることができる

  人間の悩みはすべて対人関係の悩み だからである

  わたしは 対人関係のなかで傷つくことを怖れていた

  しかし 傷つくことのない対人関係などあり得ない

  傷つく(嫌われる)ことを怖れていては

  他者を仲間と感じられる対人関係を   つくり出すことはできない


【 「不快」 を避け続けていると、「快」 を得ることもできない】


  与えられたものだけを使ってあるがままのわたしその一歩を踏み出すしかない

  そして、 人生のタスクに立ち向かうのだ




(最終改訂:2023年1月9日)