10月は柳原陽一郎のライブに一本行っただけなので、マイナー系のアルバムについて一枚記す。
http://www.lastfm.jp/music/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E6%99%B4%E5%AD%90


「大正浪漫」という一つの記号がある。
実際に大正時代を経験しているわけではないので、実体は想像するしかない大正時代。
だが、想像力によって構成されなおさせることによって、多くの人々のイメージとして共有されている。
「竹久夢二」「はいからさんが通る」「鹿鳴館」などが、その代表だろうか。
ジャケット、歌詞、曲調、そういったものを「大正浪漫」としたものが、このアルバム「当世ロマン歌集 」/赤池晴子である。


まず、似非「大正浪漫」として代表的な作品は、 戸川純、上野耕路、太田螢一のユニットであるゲルニカの第一作「改造への躍動」であろう。
ゲルニカ全集では3枚のCDの1枚目だが、全集化前のアルバムは数曲少なく、LPレコードの時代はさらに2曲少ない。
当然といえば当然だが、LPレコード時代の曲目が、一番統一感があった。
歌詞カードも似非文語体(よく見ると表記は出鱈目もよいところであるが)で、ジャケットもレトロ調の絵画。
アレンジも、昭和歌謡時代の楽器編成や雰囲気を出している。
「復興の歌」なども、内容は戦後の焼け野原からの復興で、「大正」を意識したわけではないのかもしれない。
戸川純といえば「玉姫様」の突き抜けた個性のイメージが強いが、このアルバムはあくまでも全体の雰囲気を壊さない調和がある。
その調和の中で時々顔を見せる戸川純の地声が、平面的な絵画的大正浪漫からの脱却につながっていると言えよう。
ゲルニカ2枚目のアルバムなどと比べても、安心して聴ける平和な異世界が垣間見られる。
「玉姫様」の中の「森の人々」なども好きだが、このアルバムが一番バランスがよい。


さて、赤池晴子に話を戻すと、こちらも取材に基づいた緻密な大正浪漫の世界を構築しようとしたわけではない。
あくまでも自分で構築した世界にレトロなアレンジ、節回しをつけた感じである。
総括は後で行うとして、曲ごとに雑感を述べたい。


1.銀河系純情詩集
この曲は、第一印象はよい。
曲が軽快で聴き取りやすく、特に「昔織姫様が~」からのさびの部分は言葉の語呂もメロディの収束のさせ方も自然である。
全体的に元気が出る曲調なのであるが、何度も聴きたい曲かというと疑問が残る。
作品のテーマが「やってきた異星人に一目ぼれ」といった内容のため、世界に奥行きがない。
もちろん、「異星人」自体が何か未知なる対象へのメタファーである可能性もあるが、どうやらそこまでではない。
とは言え、1曲目にこの曲を持ってきたのはある意味正解で、声質も明るい曲調の方が合っている。


2.東京ハムレット
このアルバム一番の名曲である。
8曲目とどちらがよいかは評価が分かれるかもしれないが、このアルバムのコンセプト的にはこの曲が一番成功している。
駅のプラットホームという舞台で、一人舞台役者が孤独に演じる世界が映像的である。
「ハロゲンランプ」など用語の使い方も丁寧で、一番考え込まれて世界を築き上げている。
音楽的にもアコーディオンと3拍子がレトロな世界によく合い、COBAと後に改名される前のアコーディオン弾きの演奏も見事である。
「一度聴いてよい」か「何度も聴きたい」かの違いは、「共感をどれだけ呼び込むか」に起因すると考えている。
宇宙人やいんちき博士の発明の世界に共感を持つ人間はいないが、ひたむきな舞台役者のストイックさは共感を与える。
実際、多くの役者たちが、毎日ぎりぎりの生活の中で技術を磨いているので、リアリティを持ってこの曲を聴ける人も少なくないだろう。


3.メガネ有り□
最後の□は/が中に入り、「あります」と呼ばせるタイトル。
昔の夜店は怪しい出店も多く、見えないはずのものが見えるメガネというコンセプトは実際あるのかもしれない。
一つの世界で完結し、内面的な部分に入り込まない歌詞は、「何度も聴きたい」という欲求に結びつかない。
iPodに入れても、何度か聴くと外してしまう曲ではある。


4.Dr.Unknown
「いんちき博士の発明」がテーマ。
3曲目はゆったり系だが、この曲は1曲目のような軽やかさはある。
この曲は音楽的にはよくできており、「博士の秘密を知ってるかい」の歌い出し、「誰も帰ってこない」の収束も印象に残る。
他にないタイプの歌詞ではあるが、何度も聴くとなるとどうか。

昔、天沢退二郎という詩人が朝日新聞の夕刊で「詞から詩へ」という、大衆音楽の歌詞の評論を連載していた。
その中で、詩の本質は多義的であることを述べていたのは興味深かった。
自分の知人にさだまさしの詞が好きではない、という意見があった。
個人的には昔よく聴き、よく弾き(「前夜」ぐらいまでは全部弾けた)、好きな曲もないではない身ではある。
だが、一つの意見として考えるとき、その知人の考えは分からないでもない。
さだまさしの歌詞の世界は、物語性がある。
一つの世界で完結していて、決して「多義」ではなく、歌という媒体で表現しなくても、といった考え方であろう。
実際、さだまさしは小説で大変な活躍を後にすることになる。
若い頃に書いた短編を相当昔に読んだが(「なぜ跳んだのだ?」といった終わり方をする作品)、既に才能の萌芽は見られた。
ただ、「道化師のソネット」あたりは多義的な広がりを持つ名曲だし、「つゆのあとさき」の「卒業式」というメタファーも見事であると思う。


話を戻すと、一つの世界を完結させることに意識を向けると、多義の広がりを持たない閉じた世界になるということである。
この曲に限らず、フィクションを構築させるに当たっても、説明文の羅列で片付いてしまう世界は、メッセージも持たない。
説明文ではない魅力ある表現や作り手の世界観や価値観、デリケートな内面の描写などを含ませてほしかった、という思いが強い。


5.輕業愉快
この曲は、他の曲とは逆に第一印象がよいわけではなく、聴き直した後に再評価が行われる曲であった。
曲の始まりは、テクノチンドン的な効果を狙っている。
曲が始まった後も、あまりに典型的なチンドンの曲調が続く。
だが、よくよく歌詞を聴くと、紳士の渡る綱渡りのロープを時間軸に喩えていたりして、作り手の人生観が込められているかもと思わせた。
残念なのは、あまりにチンドンの曲調と不釣合いで、歌詞の内面に入り込もうという意欲を湧かせない事である。
チンドンのBGMに使えそうな曲調の中に、深いかもしれない作り手の意図をどれだけの聴き手が汲み取ることになるのであろうか。


6.流星夜曲
古い演歌か中国古謡のような曲調。
少なくとも、こういうゆったりしただけの曲はゲルニカ作品にはなく、テクノ調の似非大正浪漫としての統一感があった。
一曲一曲は「当世ロマン歌集」も悪くないが、オムニバス的な寄せ集め感も漂う。
流れ星に3回願い事を唱える、よくある情景の再構成。


7.鳴呼 宝くじ
この曲も、宝くじを買って夢を見るありがちな心情表現の再構成。
こういった世界は、共感は容易に呼び起こすが、あまりに世間の最大公約数的でありすぎる。
皆が思うことを、そのまま歌詞にしただけの印象さえ与える。
もっとも、曲もドンチャンしていて詩の世界とのミスマッチはない。
だが、「バラで10枚連番で10枚」などは現実的な映像が顔を出し、大正浪漫的ではない。


8.ふたばと三日月
このアルバムの中で、一番人気のある曲かもしれない。
「ふたば」という使い古されていない名詞を、主役に持ってきて擬人化しているところが見事である。
ふたば(双葉)の二つの葉を広げた両手に喩え、根を生やした存から「飛べない」という枕詞を創造している。
三日月に恋をし、「空高く飛んでいきたい」という世界は、童話的世界にしても、小さき人間への比喩にしてもどちらでも一級品である。
この作品には、レトロという化粧を施さない真っ直ぐさが感じられる。
奇を衒った音楽効果を用いなかった分、素材のよさがかえって生きる結果となっているのは、コンセプトアルバムとしては逆説的ではある。
ともあれ、2曲目とこの曲はiPodからも削除しない曲として、生き残るクオリティを持っている。


9.日の丸軒
正直に述べると、この曲は真っ先にiPodから削除した。
曲として威勢がよいところはあるのだが、「日の丸」というキーワードが平和な大正浪漫的な像をぶち壊す。
アルバムのタイトルには一言も大正浪漫とは書かれていないが、似非レトロな虚像を提示しようとしたことは明らかである。
ステレオタイプで覆い尽くされることは許容できても、現実世界の楽屋が見えてしまうことは避けなければならなかったはずである。
曲調には何の罪がないが、一種の固有名詞に近いこの言葉を用いた理由については分からぬままである。


10.野球小僧はいつまでも
この曲もありふれた世界の表現で、野球少年の夢と思いを描いている。
共感こそすれ、陳腐な印象を与えてしまいがちになりそうだが、そうはなっていない。
秀逸なのは、目標として目指す対象を「海の見える球場」としていることである。
これを「甲子園」としてしまうと目も当てられないほどの焼き直しになり、どこかの漫画で読んだような世界が続くことになる。
このテーマを挙げたこと自体は評価しないが、この素材でこの言葉を用いて曲に奥行きと新鮮さを与えたことは評価できるといえよう。
作り手の才能こそが、この曲を陳腐にさせなかったと言っても過言ではない。


赤池晴子は、本来は音楽のライターらしく、その人脈からかバックは松武秀樹、白井良明、武川雅寛、小林靖宏、篠田昌巳など、やたら豪華である。
だが、評論家としての理性が、自己を投影させない世界作りに方向性を持たせたとも考えられる。
このアルバムの前半は「共感化されにくい特殊な場面設定」が多く、後半は「既に一般化されつくされている場面」が多い。
その中で共通していることは、自身が場面の中に存在せず、高台や安全な観客席から眺めた世界を鳥瞰していることである。
そのため、それぞれの曲はまとまった形を取っていたとしても、リアリティをもって体感できる温度を持っていない。
対象浪漫的仮面を音楽に被せたのも、素を隠しておこうという防衛が働いたためとも考えられる。
だが、2,5,8曲目あたりの歌詞には、仮面以上の伝達内容としての表現が含まれている。
実は「誰も振り返らないのに駅という舞台で演技をする役者」や「地面に根を張って空高く飛ぶことができないふたば」は作り手自身の投影なのかもしれない。
自身を投影化した対象物を、客観化できるまでに再構築した世界の中で躍動させることが真の表現意図だとしたら、少なくとも成功した曲があったとは言えるであろう。


話題は飛ぶが(というより飛びっぱなしだが)、編曲などの白井良明は他にも多くの作品を手がけている(スピッツとか)。
最近久しぶりに聴いた松尾清憲のアルバムも、たまたま白井良明のプロデュースであった。
松尾清憲は、メゾン一刻の主題歌「サニーシャイニンモーニング」などで知られている。
当時、林哲司と並ぶプロフェッショナルな作曲家としての才能を強く感じていた。
だが、今聴くと80年代という時代性が強く染み込んでいると実感し、別冊宝島的な楽しみ方しかできなかったのは残念であった。
これはカタカナ英語が多用されていた当時の歌詞(「サニーシャイニンモーニング」は湯川れい子作詞)のせいばかりではないだろう。
自分の中でもまだ結論が出ていないのだが、曲の中の間の持たせ方が印象の違いに結びついている気がする。
赤池作品は、テーマがさらにレトロであるにも拘らず、現代で聴いても(曲にも依るが)古さを感じない。
自由に作ったものは逆にその時代の制約を受け、縛りをかけて組み立てた世界に他の要素(時代性も含む)が入ってきにくい、ということはあるのかもしれない。


総括としては、B級作品と位置づけられているであろうアルバムではあるが、音楽的貧弱さはまったくなく聴ける作品である。
どんな音楽家も、量産できるかは別として、1曲か2曲は名曲を作り出す可能性があると、個人的には考えている。
その曲が「東京ハムレット」や「ふたばと三日月」であり、おそらく何年もかけて温めていたテーマを結晶化させた自分の分身であったのであろう。
レトロ芝居のBGMとして使えそうな曲は結構あるが、レトロはこのアルバムに関しては一つの仮面に過ぎない。


今回の検索で、たまたま見つけたリンクを再掲する。
http://www.lastfm.jp/music/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E6%99%B4%E5%AD%90
驚くべきことは、全曲フルコーラスで無料鑑賞できることである。
こんな誰のことを書いたのか分からない雑文に目を通してもらう必要はないが、リンク先のトラックをクリックすれば一通り鑑賞できるのでお勧めのサイトではある。
興味があれば、覗いてみてもらいたい。
ゲルニカについては、そのうち(なんでも「そのうち」だが)掘り下げてみたい。











夢が膨らむ画材がいっぱい。画材通販サイト、ゆめ画材



音楽配信サイト「ミュージコ」

少し時間ができたので、EeePC4G(100円PC)について、さらに続編を書こうと思う。
とは言え、似たような使い方をしていないユーザーにはあまり役立たないかもしれない。
また、今回は、Emobileについてはほとんど書くことがない。


Windowsアップデートが作動したのは、今週のことだった。
XPのSP2がもともとインストールされていたが、SP3へのアップデートが行われた。
電源アダプターに刺さっていないと更新されないため、少々遅れての更新となった。


最初に重要な結論のみ記すと、Cドライブの空きがほとんどなくなった。
更新前は1ギガぐらいの空きがあり、デフラグもソフトのインストールも問題なく行えていた。
更新後は、様々な削除や整理を行っても、200メガぐらいしか空きがなくなってしまった。
おかげでデフラグも満足に行えない状況になり、ディスククレーンアップがちょこちょこ発動されるようになった。
ちなみに、SP3になって何が変わったのかは、未だによく分からない。
1ギガぐらいの空きしかない場合、SP3への更新が表示されたら、少し検討してからの方がよいだろう。


発見もあった。
EeePC4Gで、将棋倶楽部24という将棋サイトで将棋をしようとしても問題が多かった。
JAVAをインストールすれば、とりあえず駒は動く。
だが、投了ボタンが枠の外にあり、画面を最小にしても押せなかった。
チャットも枠外でできず、そのため、反則負けしか終了する方法がなかった。
そこで、JAVAは一度削除したのだが、たまたまこれはという設定画面を見つけたので再度チャレンジした。
2度目のインストールはDドライブにJAVAを入れたが、普通に使えた。


以下、EeePC4Gで将棋倶楽部24をする方法。
1)画面の何もないところを右クリック。「プロパティ」を選ぶ。
2)画面のプロパティの中の一番右、「設定」を選ぶ。
3)右下の「詳細設定」をクリック。
4)「モニタ」を選び、「モニタの設定」の中の「このモニタでは表示できないモードを隠す」のチェックを外す。
5)OKまたは適用を選択。次もOKで設定は完了。
6)将棋倶楽部24にログイン。
7)対戦画面が立ち上がったら、まず最小盤面にする。
8)ウインドウズの最下段のバー(左に「スタート」があるバー)を下に下げ、端しか見えないようにする。右に来る設定でも多分大丈夫。
9)最小盤面より一つか二つ大きい盤面にする。
10)再度、最小盤面にし、上のふちがほぼ隠れるぐらいまでてっぺんまで上にずらす。
11)すると、一番下に投了ボタンが表示される。隠れても、同じ作業をすればまた復活する。


これで出先、特にマクドナルドで一日中将棋がさせるのは大きい。
盤面が小さいのは東風荘(麻雀)と比べあまり気にならず、盤面全体が見渡しやすいメリットがある。
逆に、東風荘は最小より一つ大きな画面で打っている。


JAVAのDドライブで問題がなかったので、Adobe ReaderもDに移動しようと試みた。
一見うまくいくかと思われたが、規約の承認ボタンがまたしても枠外で、インストールできなかった。
システムの復元でCの元の状態に戻したが、Cドライブはもう限界である。
CCleanerをちょこちょこ作動させ、WinLiveを全削除したがまだまだ足りない。
Dに移せるものや、削除可能なものを探すつもりである。


今回は将棋倶楽部24をEeePC4Gでやる予定のない人には何の役にも立たない情報だったかもしれない。


まったく関係ない話になるが、KDDIのひかりoneホームのギガ得プランを開通させた人が、速度比較サイトに現われ始めた。
RBBTODAYのスピードテストを見ると、200~300メガ出ているデータもある。
TEPCOひかり時代は100Mbpsのベストエフォートだったので、よい時代になったものである。
今後、利用者が増えた後の数値を見守りたい。








バッテリーも充電できなくなったし、ノートブックPCをそろそろ買い換えようかな・・・ちょっと待ってください! その前に、バッテリー、ACアダプター、キーボード、内蔵ドライブ等、ノートPCに必要なものなら何でも揃うノートパーツを覗いてください。 少しの費用をかけるだけであなたのPCをまだ使えるマシンにできるかもしれません。



柳原陽一郎・おおいにヒキガタル in JIROKICHI 2008/10/15
ゲストギタリスト:加藤一誠(From ヒカリノート)

第一部
1.みんなおぼえてる
2.妄想ヘルスメーター
3.人生はロデオ(~ゲームの規則)
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
4.まわれ糸車
5.サボテンちゃん
6.愛のSOLEA
7.徘徊ロックNo.5


第二部
8.寒い星
9.レイ
10.毛毛毛(け、け、け)
11.決めないの知らないの
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
12.ブルースを捧ぐ
13.おろかな日々
14.マリンバ
15.脱力マスターズ


アンコールその一
16.ありのまま君のまま
17.ひのもと音頭
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
18.ホーベン
アンコールその二
19.涙があふれてる


とりあえず、セットリストのみ先に更新。

レポについては多忙のため、後で。



と書いて3日経った。

ライブは生ものなので、早いところ挙げてしまうことにする。


高円寺JIROKICHIでのソロライブ。
今回のセッションはベースとではなく、若いギタリストとであった。
終わってみれば全てピアノの演奏で、自身でギターを弾くことはなかった。
ギターを持ってこなかったのが楽だったとのことで、「ピアノマン」と呼んでほしいとのことであった。
ピアノは調律したての、高級感漂う澄んだ音色。
この音で笑えるコミカルな曲を演奏するのには、不調和な面白さが感じられた。


最初にJIROKICHIでライブを観たときの思い出を語り、「他ではできないことを試す場、やりたいことをする場」としてJIROKICHIではライブを行っていきたい、とのこと。
あまりやらない曲や今やりたい曲が、結果として並ぶことになった。


1曲目は「みんなおぼえてる」。
やはり、ピアノの調律のよさが普段とは違うJIROKICHIの雰囲気を醸し出していた。
続いて、「妄想ヘルスメーター」。
高級な調律とはやはりアンバランスだが、前回の柴草玲との掛け合いを思い出させる。
「当たり前じゃないの」「どれだけって、そんな次元じゃないのよ」といったような台詞だっただろうか。
柳原の歌に脳の中で補完されて、世界が立体的に感じられる気がした。
3曲目の「人生はロデオ」は、本人が以前気に入っていて、ランキングに入っていないのにレイトショーでも何度か顔を出した曲である。
その曲調のまま、「ゲームの規則」の歌詞を当てはめ、最後はまたロデオに戻った。

加藤一誠がそこで登場。
「一誠」と言えば、ニューミュージック時代の音楽評論のパイオニア富澤一誠を思い出させる。
フォークギターやエレキギターに囲まれた家庭で育ったとのことで、おそらく父親の意向が働いた名前であるのあろう。
二人で「まわれ糸車」を演奏。
フレーズの終わりがメジャーセブンの和音になるような、上品で繊細な曲調で、個人的には最近の曲では一番気に入っている。
フォークギターで精一杯のチョーキングを行い、ピアノの音とよい調和を生んでいた。
本来、ギターとピアノは相性のよい楽器ではなく、クラシックギターとピアノの音を並べると音量の違いでギターがかき消されてしまう。
音質も「弦を引っ掛けて音を出す」同じ音の出し方のせいか、ガットの柔らかい弦では音質的なコントラストもつけにくい。
だが、柳原は意図的かは分からないが、ピアノを低~中音域のみセッションでは使い、スティール弦の高音チョーキングが引き立つようにコントラストをつけていた。
この曲と言うわけではないが、比較的多いのが1,2,4に低音を入れ、3で中音域の和音を右手で、そこに高音域のギターが被さるといったバランスである。


「サボテンちゃん」は、唯一のエレキギターとのセッション。
この曲はフルートを3本入れた水谷編のアレンジが、水谷ワールド炸裂で素晴らしいが、この2人の演奏も可愛らしい世界を壊さずに音楽を作り出していた。
どちらかというと、エレキギターは変わった音質を出すために用いた感があり、以前2回ほど登場した名越の演奏を思い出させる。
話は飛ぶが、名越はエレキギターを弓弾きしたりし、バイオリンのような音を作り出していた。
水谷と高良と3人の組み合わせで行った440でのライブが、この人数では音楽的には一番作りこんだ完成形の演奏であったと思われる。


「愛のSOLEA」はシンプルな曲の分、速弾きでない高音スティール弦のギターの音が生きる。
「徘徊ロックNo.5」は新しめの曲だが、今の柳原のモードに合致している曲なのでしばらく演奏されると思われる。
ちなみに、今の柳原陽一郎のモードの典型的な曲は第2部の「ブルースを捧ぐ」と「おろかな日々」である。
おそらく、柳原ライブに数回出かけて毎回この曲を聴くことはあっても、一度も耳にしないことはありえない曲である。
水谷浩章と競演しだす前、その前のモードは「涙があふれてる」などに代表される曲であった。
「ホーベン」も「航海日誌」も、当時の方がよく演奏されていた。
批判を恐れずに自分の考えを書くと、当時のモードは「進行形で前に向かって、喜怒哀楽を感じながらも歩いている」モード。
現在のモードは「自分なりのトンネルを抜け、肩の力を抜き目の前の世界を見ていこうではないか」というモードと思われる。
40歳前後の柳原陽一郎は、「あまり昔は振り返らないけれど」と言いながら、たま時代の曲を演奏することもあった。
詩の世界も内省的な特徴があり、自分自身の次の姿を苦闘の中見つけ出そうとする、心の葛藤を感じさせる曲もあった。
水谷と競演して最初に作った「泣いているのは君だけじゃないよ」あたりが、ターニングポイントであるように思われる。
中島みゆきで喩えるなら、「ファイト」に相当する曲であると感じられる。
中島みゆきも「寒水魚」というアルバムは一つの完成形としての結晶であったと思われるが、次のアルバムでは編曲も数曲自分でやり次の形を模索していたように思える。
心の弱さを抱えながらも世の中(世界ではなく世の中)を流されていく「寒水魚」の形が、「地上の星」のような世界(世の中でなく世界)を力強く踏みしめる「軍歌」に移行していったのも、「ファイト」が切口であったのではないか。
現在の柳原は、目の前の世界を見つつスタイルには囚われないスタンスを取る。
自分の立ち位置を定めた印象があり、二足遅れの「不惑」をようやく迎えたと言えるのではないか。


ライブに話を戻し、第二部。
グランドピアノの音が歪むほどビブラートを効かして「寒い星」「レイ」。
リクエスト大会で「歌わされた」ときと同じく、「パパが死んだ」ではなく「消えた」と歌った。
「死んだ」という言葉も比喩的に解釈することができるが、「消えた」の方が多くの含みを持ち、意図的なものだと考えられる。
この曲も管楽器の音を被せてほしいと思うが、いずれ再演も期待できるであろう。
この曲のコメントも曲目紹介もなく、「レイ」。
柳原の夜明け前的な状況の世界であるが、おそらく夜明け後であろう現在は、多少別の視点からこの曲を見られるようになっているであろう。
発表当初と比べ、和音の移動を意識的に変えている部分がいくらかある。


「毛毛毛」は、「金返せ」と同じタイプの曲。
髪の毛が薄くなっていく悲哀についての曲である。
当然聴衆受けはよいのであるが、客受けのよい曲も初期と現在では異なっている。
一言で言えば、「フィクション」と「ノンフィクション」。
現在の「笑いを取れる」曲は、現実と密接に結びついていて、「金返せ」などは笑えないほどのリアリティが映像的に与えられる。
「フィクション」時代の曲(たま時代)は、世界はあるが、「見たこともないリアリティのない特殊空間」に包まれる非日常的感覚を楽しむ感があった。
今の立ち位置としては、「ノンフィクション」が綴られていくことになるであろうが、いずれ今の柳原が生み出す「フィクション(作り手の中ではフィクションといえる曲もあるのだろうが、フィクション性を意図した曲という意味でのフィクション)」もいずれ聴いてみたい。


以下は、先ほど述べた今のモードの曲が並ぶ。
「マリンバ」は久々に聴いたが(ウェアハウスにはなかなかいけない)、力が入った熱演であった。
逆に、「脱力マスターズ」は文字通り、力の抜きどころを押さえた曲で、「まわれ糸車」と同様に力を抜いた余韻を楽しむことができる。
旧譜は力を入れっぱなしのものが多いが、体力的にそれを減らしたのではなく、力を抜いた余韻を楽しむ余裕ができたのであろう。


アンコールの「ひのもと音頭」も、仰々しいグランドピアノの音とのミスマッチが素晴らしい。
「3曲歌わせてまだ要求するか」とも思うが、「ホーベン」の後に「涙があふれてる」で終了。
少し前のモードでよく歌われていた曲である。
加藤一誠のギターは全体的に予想以上に好演であった。
顔をしかめての思い切りのよいチョーキングが、この日のための準備の周到さを証明していた。
彼の未来もまた、意義あるものであることを祈りたい。


JIROKICHIの柳原陽一郎は、今のところ外れがない。
聴かないと後悔するステージばかりであったので、また次回も足を運びたい。


まったく関係ないが、最近のYananetのライブページはほとんどレポがなく、もったいないと感じる。
以前は、ミュージシャンや評論家などの詳細なレポがあった。
今は、本人からの一言が書き加えられているだけなので、ライブのよさを再認識できるライブのレポの復活を待ちたい。

ウシはなんでも知っている/柳原陽一郎
¥2,638
Amazon.co.jp





電話番号調査.jp

ヨドバシカメラで買った100円パソコンをまた少し使ったので、追加レポを少し。


ネットをすると、電源が早く消耗するのは相変わらずである。
この点は後継機の方が格段に優れている。
100円という値段にこだわりがないのであれば、追加料金を払って後継機を購入した方がよい。
CPUがモバイル用の少電力タイプなので、8時間以上持つらしい。

4GBという容量の少なさは、逆にその制約を楽しんでいるところもあるが、電力供給は相変わらず大きな問題である。
フル充電でなければ、1時間を超える長時間連続使用は厳しいときも少なくない。


地下の電波受信具合は、相変わらずよくない。
Willcomの京ポンで普通に3本アンテナが立っている店でも、普通に圏外になってしまう。
このあたりが、マイクロセルのPHSの強みかもしれない。
次世代PHSが実用化される頃、Emobileの2年縛りも終わる。
移動通信と地下通信の両面から両者を比較し、モバイルWiMAXも含め再検討したいと思う。


地上でもまるでダメな区間もある。
新京成電鉄は、くぬぎ山駅の両側の区間は、車両基地側も自衛隊基地側もどちらも切断区間である。
東風荘は、この区間をまたぐ場合してはいけない。
JR高崎線を北上していくと、アンテナが出ていても極端に速度が下がっていく。
水上駅あたりは、もうどうにもならない。
越後湯沢のあたりまで出ると、一応Emobileの区間ではある。
だが、やはり速度はほとんど出ないと考えておいた方がよい。


無線LANが内蔵されているのは、非常に助かる。
ヨドバシカメラで安くつけたワイヤレスゲートは、マクドナルドなら大体対応して、電波を拾ってくれる。
USBにつけるEmobileD02HWが意外と邪魔で、これまた後継機の方がブラブラせずに使いやすいのではないかと感じる。
だが、マクドナルドでネットをするときにはこれがいらない。
省スペースの点からも、効果的である。


Windows liveは不要なので、ほとんど削除してしまった。
レジストリをいじったり、デフラグをしまくったら、だいぶ動作がスムーズになった。
メインのマシンでないのだから、不要なものは削除した方がよい。
4GBなのだから、なおさらである。
今のところ、何の不自由もない。


Emobileの、今の使用状況を確認できるページがある。
先月の終わりぐらいに確認したら、調整前の料金で13万円だった。
2900~6900円の幅があるといっても、料金はMAXでの請求にほぼ毎月なると考えていた方がよいだろう。
一応、2年縛りが終わると1000円上限が安くなり、さらに1年縛りを続けるともう1000円上限が安くなるっぽい。


これから100円を購入しようと考えている方々へ。
1)支払いはカード払いのみ。
当然、銀行からの引き落としはできない。
だが、VISAデビットカードは大丈夫であった。
これは入金しただけしか引き落としができないカードで、クレジットを持たない主義の(または持てない)人でも使えるカードである。
スルガ銀行の他にイーバンクも行っているが、東京スター銀行は今年いっぱいでこのサービスを終了してしまう。
クレジットカードがない場合、事前にデビットVISAカードを作っておくのがよいだろう。
自分の場合、スルガ銀行のVISAカードであったが、審査のタイミングで引き落とし可能であれば問題はなかった。
ちなみに、Emobileのカード引き落としのタイミングは15日より少し遅めである。
Willcomやiij4uの引き落としは15日より少し前なので、若干入金に余裕がある。
2)どこでの通信が多いかを想定しておく。
地下での通信が多い場合、Willcomを契約して、定価でeeePcを買った方が安くつくし、よくつながる。
7.2MBの速度が生きる環境がなければ、またはKDDIのW05Kの方がよいかもしれない。
3)料金はまず間違いなく上限での請求。
「あまり使わない月は」と計算してはいけない。
普通のページを数日見るだけで、上限額は軽く突破する。
Willcomの京ポンを使っていた頃は、画像を表示させずパケット代をケチっていた。
だが、eeePcでは最初からパケットの量が違いすぎる。
お金があるなら、普通に買って、高くないプランにするのも一方法である。


前回とあまり変わらないレポートで申し訳ないが、また何かあれば書き記す。


ぜんぜん関係ない話題でさらに申し訳ないが、このページの検索で一番多い語句は「今井ゆうぞう」である。
最近、そちらとは離れたテーマが多いが、近々「おかあさんといっしょ」か教育テレビ系のテーマも充実させたいのでご容赦願いたい。




クチコミblogランキング【TREview】


無線LANサービス「ホットスポット」


“My”アフィリエイト ブログで報酬



NTTグループのオンラインストア

「僕」という一人称の歌詞を、女性歌手が歌うことがある。
特に、歌詞を専門の作詞家が書いた場合、本人の意向や方向性とは別にそのようになることも少なくない。


女性の歌で一番有名な「僕」は太田裕美の「木綿のハンカチーフ」であろう。
だが、これは男性と女性が代わりばんこで、なおかつ相手に宛てた手紙の文面という特殊性がある。
同じ太田裕美の曲であれば、「しあわせ未満」の方が純粋な「僕」であると思われる。
昔のアイドル歌手で言えば榊原郁恵の「夏のお嬢さん」も、典型的な「僕」が表現されている。


女性歌手に「僕」と歌わせることの最大の効能は、聴き手が曲に投影させやすくなるという点である。
特に、太田裕美のような柔らかな声での「僕」に投影させることは、自分自身も柔らかで安らかになれる利点がある。
来生たかおと薬師丸ひろ子の「夢の途中(セーラー服と機関銃)」を聴き比べても、投影したいと思わせるのは後者であろう。


「少年」論はまたいずれ書きたいと思うが、実体としての「少年」は存在せず、記号としてのみ「少年」は存在するというのが自論である。
だが、女性が歌う「僕」の中には、ピュアで繊細な「少年」が具現化されている。
実際の「少年」と呼ばれる個体は、現実の薄汚れた社会と強固に結び付けられ、相対的に「少年」的な要素を多く持っているに過ぎない。
ところが、歌の中の「僕」は「少年」的な要素だけを抽出して、結晶化させることができる。
「僕」の年齢を上げたとしても、その「僕」の中では大変居心地のよい世界に身を任せることができる。
音楽の場合文学とは異なり、「少年」の世界を完結させる文脈は、聴き手の方が勝手に想像力で補ってくれる。


ただ、需要としてはそのようにある形式であるが、当の歌い手がそれを望んでいないことは十分ありうることである。
唯一、それを自身で表明している例として、小室みつ子の「エンジェルウォーク」が挙げられる。
この曲は、好きな女性に振られた少年の心情を表現した歌詞であり、「僕」の一人称が用いられている。
小室みつ子のデビュー曲として、ラジオのスポットCMでもよく耳にしたものである。
小室みつ子といえば、歌手としてより文筆家や作詞家として著名であるが、この曲は他人の作詞である。
自身のホームページの中で、本人の意向ではなくそのような売り出され方をしたことに対する抵抗があったことの記載があった。
正直、この曲は個人的には好きであり、「ピュアで繊細な世界」が聴く者に与える効能もしっかり持っている。
だが、作品の完成度とは別の座標軸で、歌い手に拒否をされてしまうといった好例である。


歌い手に「僕」が受け入れられない理由は、非常にはっきりしている。
まず、ファンタジー的な「別の一つの世界」を作る女性シンガーソングライターは例外として除かなければならない。
それ以外の一般的な女性シンガーソングライターは、女性自身のデリケートな心情や思いを「僕」では表現することができない。
完全に与えられた歌詞を歌う歌い手以外は、表現と現われてくる世界が不一致したまま、止揚することがないからである。


イルカが歌う「なごり雪」や「雨の物語」(作詞は伊勢正三であるが)、谷山浩子が歌う「窓」や「おやすみ」などは名曲ではある。
だが、自身で童話を書くなど、一つの世界をそのまま歌にする歌い手だからこそ違和感なく歌いこなせるとも言える。
アイドルでも童話作家型シンガーソングライターでもない多くの女性歌手は、そうはならない。
石川優子の「沈丁花」などは、一人称が「僕」というだけで、記号的少年的な繊細さははない。
「僕」の代わりに2文字の一人称があったなら、それで代用できていた世界だろう。


記号的少年的世界は、繊細であると同時に、弱みを大っぴらに示すことができる世界でもある。
社会の中で弱みを見せられない立場であっても、「僕」という一人称の歌の世界に浸るとき、弱い自分でいることができる。
ほとんど知らないので具体例はあまり出せないが、声優の歌う曲にも「僕」の一人称は多く存在すると思われる。
岩男潤子「君は僕のお日さま」などを聴くと、詩の世界だけでなく音的にもそのあたりの狙いが見える。
顧客の需要を考えると、他の声優にも似たような曲が多くあっても不思議ではない。


面白いのは、似たような顧客需要があると思われる初期ZABADAKの上野洋子の曲に、「僕」という一人称が見つからなかったことである。
もちろん、しっかり調べたわけでもなければ、そこまで詳しいわけでもない。
だが、代表的な曲の中に「僕」という一人称のものがなかったのは、そのような狙いがないのであろう。
上野洋子やイーヨ・イデオット(この人はそもそも日本語の歌を歌わないが)などは、倍音が多くクリアでない声質である。
「僕」という世界がリアリティを持つためには、言葉がストレートに反応できる声質であることも必要なのかもしれない。
もっとも、表現者にその意図がないだけなのかもしれないが。


もう一曲だけ新しい曲を取り上げる。
チャットモンチーの「シャングリラ」、これは少し毛色が変わってきている。
携帯電話から開放されてスッキリしたというだけの歌詞だが、なぜか聴く者に前向きな元気さを与える。
シンプルな曲調と最後の拍に最初の拍が被さる特徴が他にはあるが、未だに解明しきれていないところがこの曲にはある。
「僕」という言葉の歌にも、新しい多様な世界がもしかすると用意されているのかもしれない。


今回の文章は、推敲はおろか読み直しすらしていない。
加筆や修正が今後あるかもしれないことは、了承願いたい。





“My”アフィリエイト ブログで報酬




ビックカメラ

※09年06月30日現在のレポは、以下、

http://ameblo.jp/sprawlworld/entry-10290814253.html



個人的には、「インド料理屋」より「カレー屋」の方が好きである。
「インド料理」には決まったゴールがあり、「カレー屋」にはスタートラインだけが決まっている感があるからである。
10件のインド料理屋に行っても違いを論じられる自信はないが、カレー屋は20件でも論じられると思う。
似たスパイスを使えば同じような味になってしまうのではないか、そう思い入らなかったインド料理店は数多くある。
御茶ノ水や高円寺で、カレー屋とインド料理屋が隣り合っていても、まずカレー屋に入っていた。
だが、美味しいインド料理屋は本当に美味しい何も食べられ、通いたくなるところはある。


インド料理屋で有名なところは、新宿の「ボンベイ」あたりであろうか。
ちなみに、今は亡き柏の「ボンベイ」はカレー屋である。
こちらも、そのうち書きたい。
インド料理では他に、銀座のインド大使館がからんだ店で食したことがある。
「美味しいは美味しいが高級」というのが、そのときの感想であった。
そう思うと、安値でランチバイキングをやるインド料理屋もある。
決して不味いわけでなく、焼きたてのナンは美味しいのだが、味が画一化されている印象を受ける。
何度か足を運んだ後、気が進まなくなることも多かった。


ネットの情報で、近所に美味しいインド料理屋ができたことを知った。
評判があまりにもよく、自転車で簡単に行ける場所であったこともあり、「行ってみよう」ということになった。


最初に行ったのは、夜のことである。
大きくはない店であるのに、メニューが3つもあり、どれにしようか悩んだ。
結局、味の予想が付く「コルマ」を辛くし、オリジナルの「豆のスープカレー」と2品にした。
せっかくなので、ナンもシンプルなものではなく、2品ともナッツやジャガイモなどが入った調理ナンにした。
ネットで一番評判のよかったタンドリーチキンを含む、肉の盛り合わせも注文した。


結果は、想像以上であった。
インド料理屋のタンドリーチキンは、「これがインド料理か」と関心を引かれることはあるが、感心することは少ない。
西原理恵子の『恨ミシュラン』で「石のように硬い」と評されたのが、端的に本質を表している。
だが、この店のタンドリーチキンは「美味しい」という感想だった。
インド料理という本分を守りながら、日本人の味覚に美味しいと感じる調理が施されていた。
スパイシーで味がしっかりと中まで染み込んでいたにも拘らず、柔らかくて肉のジューシーさが失われていなかった。
シシカバブーも美味しい(「美味しい」という陳腐な表現の連続で申し訳ないが、本当に「美味しい」だったのである)。
だが、一番美味しかったのはチキンティッカで、骨なしの味付け肉料理であった。
これは「インド風の美味しい唐揚」といった感じで、毎日でも食べたい食感と後味があった。


評判のよかった肉料理以外も素晴らしく、美味しいだろうと予想の付いたコルマよりも、スープカレーの味に驚かされた。
この味は、他のどこの店でも味わったことがない。
獅子唐など、いろいろな野菜が入り、普通のスープカレーとはまったく違うジャンルの味に仕上がっていた。
調理ナンも美味しかったが、正直この豆のスープカレーとチキンティッカの印象が強すぎた。

その日は、大量に料理を頼んだので金額も高くなったが満足であった。


だが、ランチ時には料金の安さにも驚かされることとなる。

Aセット650円、Bセット750円。
CやDは肉料理が付くが、AやBで十分な充実度である。
Aのマトンカレーは肉が大変柔らかく、他の店のマトン系をためらってしまう人もお勧めである。
Bのキーマはマトン肉でこれも美味しい。同じBはチキンをよく食べるが、両方食べるとこの店はマトン系の方が上である。
メニューが変わったのか、2種類のメニューを平日と休日で分けているのかは知らないが、ドリンクやC・Dの内容が異なった。
直近で行ったときのドリンクは、チャイやラッシーが選べて、この値段でこの内容かと驚かされる。
昼間は、値段の面でもお勧めしやすい。


だが、夜の「豆のスープカレー」は絶品なので、これは夜に行ったら一度注文するべきである。
あと、関係ないが、夜に行ったとき既にメニューからは消えていた肉料理の盛り合わせをお願いしたら出してくれた。
この店の店主(マスター)もよい人である。


決して有利とはいえない立地条件であるが、この店があれば他のインド料理屋にそれほど行こうと思わない素晴らしい店である。
潰れてしまわないように、毎月何度かはここを利用することに決めている。
新京成線沿線の人は、ぜひ一度足を運んでほしい。


場所を案内しておくと、二和向台駅を出て改札の反対側へ線路を越える。
そのまま商店街をまっすぐ歩き(右側を歩いた方がよい)、信号を渡ったCEOサイクルと新聞販売所の間の道を入ってすぐである。
第1と第2の月曜日が休みだったように記憶しているが、営業時間は覚えていない。
看板に電話番号が書いてあったので、記しておく。
「インド料理 ニューデリー 047-449-4211」


カレーとはまったく関係ないが、近場のお店も紹介しておく。
先ほどの信号を渡る前の角地に、「アントレ」というケーキ屋がある。
京成海神にも本店があるが、ここも安くて美味しい。
3つ買うと1500円ぐらいしそうなレベルのケーキが、1000円程度で買える。


その道をマルエツ側に曲がり、シダックスの角をそのまま入り直進して5分ぐらい歩くと「スーパてらお(てらおストア)」がある。
アドマチック天国で「千葉県一安いスーパー」と呼称された店の本店である(テレビは西船橋店を取り上げた)。
ここは暴力的に野菜も何も安く、開店前からパチンコ屋のような行列ができる。
閉店前に行くと、野菜も魚も何も残っていない、売りつくしてしまうタイプの店である。
珍しい掘り出し物も、次に行くとまず買えないのが難点である。


さらに少し行ったところに、「ハイジ」というパン屋がある。
ここのフランスパンも美味しいが、最近窯を変えて美味しくなりすぎ、すぐ売切れてしまうのは残念である。
フランスパン以外も手ごろな値段で、やはり美味しい。


今回は、度を越えたローカルな話題で申し訳ない。



インド料理「ニューデリー」の続編はこちら

http://ameblo.jp/sprawlworld/entry-10212573533.html




ひかりTVというNTTのサービスがある。
フレッツテレビというのも別にあり、非常に紛らわしい。


NTTの映像サービスを簡単にまとめると、次の感じだろうか。
誤りがあれば訂正したい。


1)ひかりTV
・NGNを利用。
・多チャンネル+ビデオ+カラオケ。
・現在、東京と大阪の一部だけ地上波再配信。
・別にフレッツネクストの契約が必要。
・フレッツネクスト自体もエリアが別にあり。


2)フレッツテレビ
・ハイパーファミリータイプのみ提供。
・「地デジ」のみで、多チャンネルなし。
・料金は格安。
・Bフレッツとは別にエリアあり。


3)スカパー光
・ハイパーファミリー及び対応マンションのみ提供。
・多チャンネル+地上波でビデオやカラオケはなし。
・スカパーに相応の料金支払いが必要。
・Bフレッツとは別にエリアあり。


「ひかりTV」は、NGNのキラーコンテンツとなるはずだった。
NGNとは、帯域保証を行うサービスである。
そのことにより、faxの利用を安定したものにしたり、地上波を再配信したりすることを可能にするものだった。
だが、消費者の実感として、それらがまだ魅力的に映っていないのも事実であろう。
帯域保証(QoS)で30Mbps出るのと、ベストエフォートで70Mbps出るのとであれば、多くは後者を選ぶだろう。
「ひかりTV」も、「OCNシアター」「4th media」「on demand TV」を合併して地上波デジタルを付けただけとも言える。
KDDIが関東でギガサービスを始め、eoネットが関西でギガサービスを定着させていることを考えると、帯域保証にはパワーがないと思える。
もちろん、今後全ての家電製品にIPアドレスが付き、NGNで制御可能になれば話は別である。
だが、地上波だけならフレッツテレビ、多チャンネル+ビデオだけならひかりone(KDDI)の方が料金は安い。
たまたま、サービス内容と需要が合致しないと、申し込みにはつながりにくいと思われる。


逆に、KDDIのギガ得プランも、何か有力な新サービスを打ち出していく必要があるだろう。
1ギガの帯域も目的がないと、結局持て余してしまうであろうからである。


とは言え、地デジ配信地域になり、他の手段がない場合には検討材料にはなる。
2625円のベーシックチャンネルの中に見たいものがいくつかあれば、NGNの興味に関係なく試す価値はあるだろう。









http://www.kddi.com/corporate/news_release/2008/0924/index.html


KDDIのひかりoneという光ファイバサービスが、10月1日から1ギガ(1Gbps)のホームタイプのサービスを始める。
100メガのホームタイプのサービスはなくなるので、「始める」というより「切り替わる」といった方が正しい。
今まで、KDDIの光サービスはNTTの後追いのサービスが多かったが、関東と北海道ではKDDIがNTTに先駆けてのサービスとなる。
それに対し、NTTはNGNのサービスを徐々に浸透させようとしているので、どちらに軍配が上がるかは見物である。


面白いのは、上り下り1ギガのサービスになったのに、月額料金は逆に下がることである。
eoネットよりもギガサービスは安い。
実際どこまで数値が出るかは分からないところもあるが。
工事費を24回払いで支払うことになるようだが、ネットと電話を24ヶ月以上使うのであれば、その分は引いてくれるようだ。
一生その家で使い続けるなら5000円台で1ギガの光が使えるわけで、よい時代になったものだとつくづく感じる。
無料のキャンペーンで乗り継がれるよりは、長く使う家庭にメリットを与えること自体は正しいと思える。
もっとも、マンションに住んでいる自分には(しかもBフレッツのみ対応物件)指を咥えるしかないが。


問題は、2年使わないと工事の残り料金を払わなくてはならないこと、ちょうど2年のタイミングでないと料金がかかってしまうことである。
関西のeoネットも縛りをつけて安くすることができるが、長期の縛りをつけるのは意思で変更できたと思う。
KDDIのこの方式は、貧乏な下宿人にはなかなか辛いものがある。
優良顧客だけを囲い込もうという戦略かもしれない。


来年の5~7月には無料でギガに変えられるそうなので、無料で先に引くのはありかもしれない。
だが、ギガを使う人間が増える前に使いたいというのが、一般的な心理だろう。
Bフレッツでさえ、加入者がこれだけ増える前はそこそこの数値が出ていた。
特に、今までNTTの回線しかなかったはずの北海道は、万々歳だろう。
広大な大地で速度が出ないADSLから、いきなりギガになるのだから。


おそらく、NTTは速度ではKDDIには対抗しないであろう。
ひかりTVなどのNGNで勝負すると思われる。
ただ、NGNは地上波放送以外あまり狙いがはっきりしない。
下手をすると、「セカンドライフ」や「Web2.0」などのように、多くの顧客の意識をつかむことなく忘れられてしまうであろう。


また新しい動きがあったら取り上げてみたい。
個人的には、KDDIにもNTTにも両方頑張ってもらいたい。
NGNについては今度詳しく書きたいが、もし興味のある方がいれば下のリンク先を覗いてもらいたい。

まだ、なかなか厳しいものがあると思うが。



アンデルセン童話集 3 改版―完訳 (3) (岩波文庫 赤 740-3)/ハンス・クリスチャン・アンデルセン
¥735
Amazon.co.jp

本来、児童書では最初に、一番影響を受けた大海赫(おおうみあかし)作品を取り上げるべきところである。
だが、この作品に関してはあまりに書きたいことがありすぎる。
自分なりに書きたいことをまとめられるようになったら、そのときに上げたいと思う。


アンデルセン童話をほぼ全話読み耽ったのは、中学生のときであっただろうか。
アンデルセン童話は小さな子ども向けの作品と思われているようだが、初期の作品集を除いてはそれほど多くはない。
実際、「子ども向け」でなく「童話」というカテゴリーに存在しているために、宙ぶらりんになっている状態の作品が幾らもある。
それらの作品の多くは、一部のアンデルセンマニアにしか知られていないのではないかと思う。
童話が好きな大人の多くも、子どものための典型的な童話を好む。
また、「大人のための童話」というのは、狙った別のジャンルのものである。
アンデルセン童話は、童話という枠組みで、出てくる世界の年齢が上がった印象なのだ。
現在の日本であれば、上質な漫画という媒体で処理されている内容かもしれない。


アンデルセン童話で一番好きなのは、「柳の木の下で」という作品である。
この作品は、決してハッピーエンドの夢を与える作品ではない。
ディズニー映画がハッピーエンドの精神を貫いているのは、よく知られた話である。
ディズニー映画では、あの「人魚姫」ですら王子様と結ばれて終わる。
この考え方も一理あり、特に映像という強力な武器がある媒体であることを考えると、映画の場合はそれが正解なのかもしれない。
だが、本当に目の前の現実に絶望しているとき、それを救うのはハッピーエンドのフィクションではない。
どこまで行ってもたどり着くことのできない、虚像としか実感できないからである(もともとそのようなものではあるが)。
不幸な童話、報われない童話、それらは何故か辛い心境の読み手に落ち着きを与える。
それは、「かわいそうだ」といって涙することのカタルシスとはまた違う。
自分と同じ辛い心境の登場人物に目を向け続けることにより、自分自身の辛さにも冷静に客観化できるためではないだろうか。
予定調和のハッピーエンドでは、この装置は作動しないのである。


この作品で秀逸なのは、その書き出しである。
一般的に、童話の書き出しは世界の設定の説明や登場人物の紹介、ある一場面の描写などから始まる。
ところが、「柳の木の下で」は、まったく異なっている。
どのような土地でも長く暮らすうちに忘れられなくなる場所や風景が生まれることなど、一見筋とは離れたように見える記述から始まる。
それが、物語の流れや登場人物の心情の変化に関連して、物語に深みを与えている。
少なくとも、これに似た書き出しの作品を自分は知らない。
あえて言えば大海赫作の名作『ビビを見た!』の書き出しも、主人公に一つの人生観を語らせてはいる。
だが、先ほど述べたように、大海作品は別の機会に語ることとする。


この作品は、子どもの世界に迎合させようとする意図はなく、これから歩む人生の道標となる材料を提示しようという意図が見える。
結ばれぬ恋は、決して能力の欠陥や責められるべき過失によって発生するものではない。
だが、物語の中の予定調和的な成功は、現実の中の様々なベクトルを隠し、一つの方向性のみを自然なあるべき姿と認識させる。
その道から外れた現実に直面したとき、必要以上の絶望を抱えることにつながっているのではないだろうか。


最初の告白の失敗の後も心が振り切れることなく、生活の場を変えながらも女性への想いは変わることがなく続く。
そして、女性の名声や成功とは対称的に、地味なままの暮らしが続く男の生活。
今から思えば女々しい考えや行動に支配されているとも思えるが、不思議と当時は自然と受け入れられた。
心に痛手を負っている読み手には、生産的・建設的ではない行動自体も、自分自身への投影につながっていたからかもしれない。


女性と自分が結ばれないことが決定的になった夜の故郷への帰り道、男は柳の下で女性と親しげにする幸せな夢を見る。
そして、一度目を覚ました後、二度と覚めない夢を永遠に見続けることで物語は終わる。
人は、この物語をアンハッピーエンドと捉えるであろう。
だが、自分にはこの物語がアンハッピーエンドには感じられなかった。
醜くて厳しい現実に直面したまま打ちひしがれて死を迎えるのではなく、一種の救いが主人公の下に訪れていると思われるからである。
物語を通して描かれている「柳の木」が主人公を見つめ続け、天使のごとく報われなかった男に救いの手を差し伸べているようにすら思える。


アンデルセン全集などがある図書館では、おそらく読むことができるはずである。
岩波文庫の全7集の3巻に収録されていたと記憶している。
ちなみに、この3巻は最後に「イブと小さいクリスティーヌ」という作品で結ばれている。
女性と結ばれないのは共通しているが、最後に消えていくのが男性側ではなく女性側だという違いがある。
この話はセットで読んでおきたい。
同じ巻には、「あるお母さんの話」「影法師」が収録されている。
「あるお母さんの話」は奪われてしまった自分の幼い息子を黄泉の国まで追いかけた母親の話である。
幼稚園の頃紙芝居で見たときには、暗いだけの話に思えた。
だが、グリム童話などにも現われるキリスト教的な死生観が原話には見え隠れしていた。
これも、辛いときに読みたい話である。
「影法師」は、影法師に自分を乗っ取られかかり、抵抗したものの悲劇的な最後を迎える話である。
最近、「墓場の鬼太郎」のシリーズがテレビ化されていたが、その最終話に通ずるものがある。
あの話は、入れ替わってしまって、実話そちらの方が幸せだったという、深い作者の人生観があった。
アンデルセンの話も、影法師と入れ替わっていたらどうなっていたのだろうかという興味がある。


「柳の木の下で」を含むこの3巻は、童話に馴染みがない読み手にもお勧めしたい一冊である。






「おかあさんといっしょ」のうたのおにいさんとおねえさんが代わって半年経つ。
思うところを少し書くことにする。


今井ゆうぞうとはいだしょうこは、自分にとって理想の組み合わせであった。
見られる機会がある日は必ず見て、この組み合わせが永遠に続くことを祈っていた。
それだけに、代替わりは大変寂しい思いをした。


はいだしょうこで特筆すべきことは、歌の振り付けのアクセントのつけ方であろうか。
「動物園へ行こう」「ふしぎはすてき」などでのはいだしょうこの動きは、見入ってしまうものがあった。
振り付けや踊りは自分には専門外なので、理論的なことはまったく分からない。
だが、印象に残るポーズの形が普通よりも少しだけ長い状態で保たれ、ポーズとポーズの間の移動がその分俊敏であったように感じた。
それが、コマ送り再生のように1コマ1コマに目を離せなくさせる理由なのではないかと、今にして思う。
歌も、難しい音程の動きや表情のつけ方など、歴代でもおそらく頭抜けて実力のある力があった。
「ゆきくるるん」「あのね、あきはね」など、音楽も声も完成されていて、鳥肌が立つ緻密さがあった。
「ウホウホヒョー」あたりは衝撃的で、意見が分かれるところかもしれない。
だが、他のおねえさんではこの歌自体を作ろうという発想も生まれず、無難な今月の歌が続いていたはずである。
はいだしょうこがいた5年間、おかあさんといっしょの音楽スタッフは、様々な音楽的可能性を実践できていたはずである。
この期間に残された音源は、子どものみならず大人が聴いても鑑賞に堪えうるものである。


今井ゆうぞうを最初によいと感じたのは、「ぼくときみ」の曲であった。
歴代のうたのおにいさんと比べて、伸ばした声の質が非常に美しい。
坂田修や速水けんたろうなども、声を伸ばすよりも短く切る部分が多かった印象があった(あくまでも記憶の話であるが)。
伝統として、子どもの歌は言葉を優先するあまり、音符レベルの世界を犠牲にするところがあった。
犠牲になるといったレベルではなく、地声で言葉を強調させ、音程のない掛け声的な部分が常用されていた。
もちろん、「サラダでラップ」のような、それを想定して作られた作品でなしに。
今井ゆうぞうの場合、音楽の流れも声によって生じた柔らかな世界も壊さずに、完成体として残す稀有な実力があった。
技術そのものははいだしょうこの方が実力的に上ではある。
だが、声を重ね合わせたときに温かみと柔らか味のある世界を作り出していたのは、むしろ今井ゆうぞうの声であったと言える。
他のうたのおにいさんでは、はいだしょうこの歌のうまさとのコントラストだけが強調されていたはずである。
その意味で、純粋に音楽としての魅力をこの分野で伝えることに、今井ゆうぞうが投じた一石は十分すぎる意義を持っていると言えよう。
もっとも、この分野の音楽ライターとしての坂田修の力量は、別に評価されてしかるべきだとも思うが。


この二人のハーモニー、シンクロされる体の動きを見るたびに、調和の取れた理想の状態であることを感じていた。
だが、周囲の人間の印象は必ずしも、この二人が理想とは思っていなかったのが意外であった。
「子どもが好きでなさそう」という意見は、特に自分を驚かせた。
純粋に歌と踊りというファクターの他に、別の座標軸があるものなのだと思い知らされた。
「歌い方があまり好きではない」という声もあった。
おにいさんは坂田修、おねえさんは茂森あゆみが好きだったという。
確かに、茂森あゆみの声と歌は、ある一定の線を逸脱しない安心感がある。
発せられる言葉自体も、はいだしょうこより直接届く印象もある。
一時期よく見ていたクインテットで、自分はそのように感じていた。


だが、自分にとってはこの二人の「おかあさんといっしょ」は、永遠の理想形であり続ける。
できることならこの二人で永遠に活動し続けてほしい、と感じている人間は、自分以外にもいると思う。


まだまだ書きたいことは尽きない。
いずれ、この続きは書きたい。


今のおにいさんとおねえさんは、伝統的な流れに戻った感がある。
おねえさんのファルセットの使い方は上手いと感じたが、他の要素はこれから見極めていきたい。