10月は柳原陽一郎のライブに一本行っただけなので、マイナー系のアルバムについて一枚記す。
http://www.lastfm.jp/music/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E6%99%B4%E5%AD%90
「大正浪漫」という一つの記号がある。
実際に大正時代を経験しているわけではないので、実体は想像するしかない大正時代。
だが、想像力によって構成されなおさせることによって、多くの人々のイメージとして共有されている。
「竹久夢二」「はいからさんが通る」「鹿鳴館」などが、その代表だろうか。
ジャケット、歌詞、曲調、そういったものを「大正浪漫」としたものが、このアルバム「当世ロマン歌集
」/赤池晴子である。
まず、似非「大正浪漫」として代表的な作品は、 戸川純、上野耕路、太田螢一のユニットであるゲルニカの第一作「改造への躍動」であろう。
ゲルニカ全集では3枚のCDの1枚目だが、全集化前のアルバムは数曲少なく、LPレコードの時代はさらに2曲少ない。
当然といえば当然だが、LPレコード時代の曲目が、一番統一感があった。
歌詞カードも似非文語体(よく見ると表記は出鱈目もよいところであるが)で、ジャケットもレトロ調の絵画。
アレンジも、昭和歌謡時代の楽器編成や雰囲気を出している。
「復興の歌」なども、内容は戦後の焼け野原からの復興で、「大正」を意識したわけではないのかもしれない。
戸川純といえば「玉姫様」の突き抜けた個性のイメージが強いが、このアルバムはあくまでも全体の雰囲気を壊さない調和がある。
その調和の中で時々顔を見せる戸川純の地声が、平面的な絵画的大正浪漫からの脱却につながっていると言えよう。
ゲルニカ2枚目のアルバムなどと比べても、安心して聴ける平和な異世界が垣間見られる。
「玉姫様」の中の「森の人々」なども好きだが、このアルバムが一番バランスがよい。
さて、赤池晴子に話を戻すと、こちらも取材に基づいた緻密な大正浪漫の世界を構築しようとしたわけではない。
あくまでも自分で構築した世界にレトロなアレンジ、節回しをつけた感じである。
総括は後で行うとして、曲ごとに雑感を述べたい。
1.銀河系純情詩集
この曲は、第一印象はよい。
曲が軽快で聴き取りやすく、特に「昔織姫様が~」からのさびの部分は言葉の語呂もメロディの収束のさせ方も自然である。
全体的に元気が出る曲調なのであるが、何度も聴きたい曲かというと疑問が残る。
作品のテーマが「やってきた異星人に一目ぼれ」といった内容のため、世界に奥行きがない。
もちろん、「異星人」自体が何か未知なる対象へのメタファーである可能性もあるが、どうやらそこまでではない。
とは言え、1曲目にこの曲を持ってきたのはある意味正解で、声質も明るい曲調の方が合っている。
2.東京ハムレット
このアルバム一番の名曲である。
8曲目とどちらがよいかは評価が分かれるかもしれないが、このアルバムのコンセプト的にはこの曲が一番成功している。
駅のプラットホームという舞台で、一人舞台役者が孤独に演じる世界が映像的である。
「ハロゲンランプ」など用語の使い方も丁寧で、一番考え込まれて世界を築き上げている。
音楽的にもアコーディオンと3拍子がレトロな世界によく合い、COBAと後に改名される前のアコーディオン弾きの演奏も見事である。
「一度聴いてよい」か「何度も聴きたい」かの違いは、「共感をどれだけ呼び込むか」に起因すると考えている。
宇宙人やいんちき博士の発明の世界に共感を持つ人間はいないが、ひたむきな舞台役者のストイックさは共感を与える。
実際、多くの役者たちが、毎日ぎりぎりの生活の中で技術を磨いているので、リアリティを持ってこの曲を聴ける人も少なくないだろう。
3.メガネ有り□
最後の□は/が中に入り、「あります」と呼ばせるタイトル。
昔の夜店は怪しい出店も多く、見えないはずのものが見えるメガネというコンセプトは実際あるのかもしれない。
一つの世界で完結し、内面的な部分に入り込まない歌詞は、「何度も聴きたい」という欲求に結びつかない。
iPodに入れても、何度か聴くと外してしまう曲ではある。
4.Dr.Unknown
「いんちき博士の発明」がテーマ。
3曲目はゆったり系だが、この曲は1曲目のような軽やかさはある。
この曲は音楽的にはよくできており、「博士の秘密を知ってるかい」の歌い出し、「誰も帰ってこない」の収束も印象に残る。
他にないタイプの歌詞ではあるが、何度も聴くとなるとどうか。
昔、天沢退二郎という詩人が朝日新聞の夕刊で「詞から詩へ」という、大衆音楽の歌詞の評論を連載していた。
その中で、詩の本質は多義的であることを述べていたのは興味深かった。
自分の知人にさだまさしの詞が好きではない、という意見があった。
個人的には昔よく聴き、よく弾き(「前夜」ぐらいまでは全部弾けた)、好きな曲もないではない身ではある。
だが、一つの意見として考えるとき、その知人の考えは分からないでもない。
さだまさしの歌詞の世界は、物語性がある。
一つの世界で完結していて、決して「多義」ではなく、歌という媒体で表現しなくても、といった考え方であろう。
実際、さだまさしは小説で大変な活躍を後にすることになる。
若い頃に書いた短編を相当昔に読んだが(「なぜ跳んだのだ?」といった終わり方をする作品)、既に才能の萌芽は見られた。
ただ、「道化師のソネット」あたりは多義的な広がりを持つ名曲だし、「つゆのあとさき」の「卒業式」というメタファーも見事であると思う。
話を戻すと、一つの世界を完結させることに意識を向けると、多義の広がりを持たない閉じた世界になるということである。
この曲に限らず、フィクションを構築させるに当たっても、説明文の羅列で片付いてしまう世界は、メッセージも持たない。
説明文ではない魅力ある表現や作り手の世界観や価値観、デリケートな内面の描写などを含ませてほしかった、という思いが強い。
5.輕業愉快
この曲は、他の曲とは逆に第一印象がよいわけではなく、聴き直した後に再評価が行われる曲であった。
曲の始まりは、テクノチンドン的な効果を狙っている。
曲が始まった後も、あまりに典型的なチンドンの曲調が続く。
だが、よくよく歌詞を聴くと、紳士の渡る綱渡りのロープを時間軸に喩えていたりして、作り手の人生観が込められているかもと思わせた。
残念なのは、あまりにチンドンの曲調と不釣合いで、歌詞の内面に入り込もうという意欲を湧かせない事である。
チンドンのBGMに使えそうな曲調の中に、深いかもしれない作り手の意図をどれだけの聴き手が汲み取ることになるのであろうか。
6.流星夜曲
古い演歌か中国古謡のような曲調。
少なくとも、こういうゆったりしただけの曲はゲルニカ作品にはなく、テクノ調の似非大正浪漫としての統一感があった。
一曲一曲は「当世ロマン歌集」も悪くないが、オムニバス的な寄せ集め感も漂う。
流れ星に3回願い事を唱える、よくある情景の再構成。
7.鳴呼 宝くじ
この曲も、宝くじを買って夢を見るありがちな心情表現の再構成。
こういった世界は、共感は容易に呼び起こすが、あまりに世間の最大公約数的でありすぎる。
皆が思うことを、そのまま歌詞にしただけの印象さえ与える。
もっとも、曲もドンチャンしていて詩の世界とのミスマッチはない。
だが、「バラで10枚連番で10枚」などは現実的な映像が顔を出し、大正浪漫的ではない。
8.ふたばと三日月
このアルバムの中で、一番人気のある曲かもしれない。
「ふたば」という使い古されていない名詞を、主役に持ってきて擬人化しているところが見事である。
ふたば(双葉)の二つの葉を広げた両手に喩え、根を生やした存から「飛べない」という枕詞を創造している。
三日月に恋をし、「空高く飛んでいきたい」という世界は、童話的世界にしても、小さき人間への比喩にしてもどちらでも一級品である。
この作品には、レトロという化粧を施さない真っ直ぐさが感じられる。
奇を衒った音楽効果を用いなかった分、素材のよさがかえって生きる結果となっているのは、コンセプトアルバムとしては逆説的ではある。
ともあれ、2曲目とこの曲はiPodからも削除しない曲として、生き残るクオリティを持っている。
9.日の丸軒
正直に述べると、この曲は真っ先にiPodから削除した。
曲として威勢がよいところはあるのだが、「日の丸」というキーワードが平和な大正浪漫的な像をぶち壊す。
アルバムのタイトルには一言も大正浪漫とは書かれていないが、似非レトロな虚像を提示しようとしたことは明らかである。
ステレオタイプで覆い尽くされることは許容できても、現実世界の楽屋が見えてしまうことは避けなければならなかったはずである。
曲調には何の罪がないが、一種の固有名詞に近いこの言葉を用いた理由については分からぬままである。
10.野球小僧はいつまでも
この曲もありふれた世界の表現で、野球少年の夢と思いを描いている。
共感こそすれ、陳腐な印象を与えてしまいがちになりそうだが、そうはなっていない。
秀逸なのは、目標として目指す対象を「海の見える球場」としていることである。
これを「甲子園」としてしまうと目も当てられないほどの焼き直しになり、どこかの漫画で読んだような世界が続くことになる。
このテーマを挙げたこと自体は評価しないが、この素材でこの言葉を用いて曲に奥行きと新鮮さを与えたことは評価できるといえよう。
作り手の才能こそが、この曲を陳腐にさせなかったと言っても過言ではない。
赤池晴子は、本来は音楽のライターらしく、その人脈からかバックは松武秀樹、白井良明、武川雅寛、小林靖宏、篠田昌巳など、やたら豪華である。
だが、評論家としての理性が、自己を投影させない世界作りに方向性を持たせたとも考えられる。
このアルバムの前半は「共感化されにくい特殊な場面設定」が多く、後半は「既に一般化されつくされている場面」が多い。
その中で共通していることは、自身が場面の中に存在せず、高台や安全な観客席から眺めた世界を鳥瞰していることである。
そのため、それぞれの曲はまとまった形を取っていたとしても、リアリティをもって体感できる温度を持っていない。
対象浪漫的仮面を音楽に被せたのも、素を隠しておこうという防衛が働いたためとも考えられる。
だが、2,5,8曲目あたりの歌詞には、仮面以上の伝達内容としての表現が含まれている。
実は「誰も振り返らないのに駅という舞台で演技をする役者」や「地面に根を張って空高く飛ぶことができないふたば」は作り手自身の投影なのかもしれない。
自身を投影化した対象物を、客観化できるまでに再構築した世界の中で躍動させることが真の表現意図だとしたら、少なくとも成功した曲があったとは言えるであろう。
話題は飛ぶが(というより飛びっぱなしだが)、編曲などの白井良明は他にも多くの作品を手がけている(スピッツとか)。
最近久しぶりに聴いた松尾清憲のアルバムも、たまたま白井良明のプロデュースであった。
松尾清憲は、メゾン一刻の主題歌「サニーシャイニンモーニング」などで知られている。
当時、林哲司と並ぶプロフェッショナルな作曲家としての才能を強く感じていた。
だが、今聴くと80年代という時代性が強く染み込んでいると実感し、別冊宝島的な楽しみ方しかできなかったのは残念であった。
これはカタカナ英語が多用されていた当時の歌詞(「サニーシャイニンモーニング」は湯川れい子作詞)のせいばかりではないだろう。
自分の中でもまだ結論が出ていないのだが、曲の中の間の持たせ方が印象の違いに結びついている気がする。
赤池作品は、テーマがさらにレトロであるにも拘らず、現代で聴いても(曲にも依るが)古さを感じない。
自由に作ったものは逆にその時代の制約を受け、縛りをかけて組み立てた世界に他の要素(時代性も含む)が入ってきにくい、ということはあるのかもしれない。
総括としては、B級作品と位置づけられているであろうアルバムではあるが、音楽的貧弱さはまったくなく聴ける作品である。
どんな音楽家も、量産できるかは別として、1曲か2曲は名曲を作り出す可能性があると、個人的には考えている。
その曲が「東京ハムレット」や「ふたばと三日月」であり、おそらく何年もかけて温めていたテーマを結晶化させた自分の分身であったのであろう。
レトロ芝居のBGMとして使えそうな曲は結構あるが、レトロはこのアルバムに関しては一つの仮面に過ぎない。
今回の検索で、たまたま見つけたリンクを再掲する。
http://www.lastfm.jp/music/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E6%99%B4%E5%AD%90
驚くべきことは、全曲フルコーラスで無料鑑賞できることである。
こんな誰のことを書いたのか分からない雑文に目を通してもらう必要はないが、リンク先のトラックをクリックすれば一通り鑑賞できるのでお勧めのサイトではある。
興味があれば、覗いてみてもらいたい。
ゲルニカについては、そのうち(なんでも「そのうち」だが)掘り下げてみたい。




