柳原陽一郎・おおいにヒキガタル in JIROKICHI 2008/10/15
ゲストギタリスト:加藤一誠(From ヒカリノート)

第一部
1.みんなおぼえてる
2.妄想ヘルスメーター
3.人生はロデオ(~ゲームの規則)
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
4.まわれ糸車
5.サボテンちゃん
6.愛のSOLEA
7.徘徊ロックNo.5


第二部
8.寒い星
9.レイ
10.毛毛毛(け、け、け)
11.決めないの知らないの
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
12.ブルースを捧ぐ
13.おろかな日々
14.マリンバ
15.脱力マスターズ


アンコールその一
16.ありのまま君のまま
17.ひのもと音頭
以上、ピアノソロ。以下、ギターとセッション。
18.ホーベン
アンコールその二
19.涙があふれてる


とりあえず、セットリストのみ先に更新。

レポについては多忙のため、後で。



と書いて3日経った。

ライブは生ものなので、早いところ挙げてしまうことにする。


高円寺JIROKICHIでのソロライブ。
今回のセッションはベースとではなく、若いギタリストとであった。
終わってみれば全てピアノの演奏で、自身でギターを弾くことはなかった。
ギターを持ってこなかったのが楽だったとのことで、「ピアノマン」と呼んでほしいとのことであった。
ピアノは調律したての、高級感漂う澄んだ音色。
この音で笑えるコミカルな曲を演奏するのには、不調和な面白さが感じられた。


最初にJIROKICHIでライブを観たときの思い出を語り、「他ではできないことを試す場、やりたいことをする場」としてJIROKICHIではライブを行っていきたい、とのこと。
あまりやらない曲や今やりたい曲が、結果として並ぶことになった。


1曲目は「みんなおぼえてる」。
やはり、ピアノの調律のよさが普段とは違うJIROKICHIの雰囲気を醸し出していた。
続いて、「妄想ヘルスメーター」。
高級な調律とはやはりアンバランスだが、前回の柴草玲との掛け合いを思い出させる。
「当たり前じゃないの」「どれだけって、そんな次元じゃないのよ」といったような台詞だっただろうか。
柳原の歌に脳の中で補完されて、世界が立体的に感じられる気がした。
3曲目の「人生はロデオ」は、本人が以前気に入っていて、ランキングに入っていないのにレイトショーでも何度か顔を出した曲である。
その曲調のまま、「ゲームの規則」の歌詞を当てはめ、最後はまたロデオに戻った。

加藤一誠がそこで登場。
「一誠」と言えば、ニューミュージック時代の音楽評論のパイオニア富澤一誠を思い出させる。
フォークギターやエレキギターに囲まれた家庭で育ったとのことで、おそらく父親の意向が働いた名前であるのあろう。
二人で「まわれ糸車」を演奏。
フレーズの終わりがメジャーセブンの和音になるような、上品で繊細な曲調で、個人的には最近の曲では一番気に入っている。
フォークギターで精一杯のチョーキングを行い、ピアノの音とよい調和を生んでいた。
本来、ギターとピアノは相性のよい楽器ではなく、クラシックギターとピアノの音を並べると音量の違いでギターがかき消されてしまう。
音質も「弦を引っ掛けて音を出す」同じ音の出し方のせいか、ガットの柔らかい弦では音質的なコントラストもつけにくい。
だが、柳原は意図的かは分からないが、ピアノを低~中音域のみセッションでは使い、スティール弦の高音チョーキングが引き立つようにコントラストをつけていた。
この曲と言うわけではないが、比較的多いのが1,2,4に低音を入れ、3で中音域の和音を右手で、そこに高音域のギターが被さるといったバランスである。


「サボテンちゃん」は、唯一のエレキギターとのセッション。
この曲はフルートを3本入れた水谷編のアレンジが、水谷ワールド炸裂で素晴らしいが、この2人の演奏も可愛らしい世界を壊さずに音楽を作り出していた。
どちらかというと、エレキギターは変わった音質を出すために用いた感があり、以前2回ほど登場した名越の演奏を思い出させる。
話は飛ぶが、名越はエレキギターを弓弾きしたりし、バイオリンのような音を作り出していた。
水谷と高良と3人の組み合わせで行った440でのライブが、この人数では音楽的には一番作りこんだ完成形の演奏であったと思われる。


「愛のSOLEA」はシンプルな曲の分、速弾きでない高音スティール弦のギターの音が生きる。
「徘徊ロックNo.5」は新しめの曲だが、今の柳原のモードに合致している曲なのでしばらく演奏されると思われる。
ちなみに、今の柳原陽一郎のモードの典型的な曲は第2部の「ブルースを捧ぐ」と「おろかな日々」である。
おそらく、柳原ライブに数回出かけて毎回この曲を聴くことはあっても、一度も耳にしないことはありえない曲である。
水谷浩章と競演しだす前、その前のモードは「涙があふれてる」などに代表される曲であった。
「ホーベン」も「航海日誌」も、当時の方がよく演奏されていた。
批判を恐れずに自分の考えを書くと、当時のモードは「進行形で前に向かって、喜怒哀楽を感じながらも歩いている」モード。
現在のモードは「自分なりのトンネルを抜け、肩の力を抜き目の前の世界を見ていこうではないか」というモードと思われる。
40歳前後の柳原陽一郎は、「あまり昔は振り返らないけれど」と言いながら、たま時代の曲を演奏することもあった。
詩の世界も内省的な特徴があり、自分自身の次の姿を苦闘の中見つけ出そうとする、心の葛藤を感じさせる曲もあった。
水谷と競演して最初に作った「泣いているのは君だけじゃないよ」あたりが、ターニングポイントであるように思われる。
中島みゆきで喩えるなら、「ファイト」に相当する曲であると感じられる。
中島みゆきも「寒水魚」というアルバムは一つの完成形としての結晶であったと思われるが、次のアルバムでは編曲も数曲自分でやり次の形を模索していたように思える。
心の弱さを抱えながらも世の中(世界ではなく世の中)を流されていく「寒水魚」の形が、「地上の星」のような世界(世の中でなく世界)を力強く踏みしめる「軍歌」に移行していったのも、「ファイト」が切口であったのではないか。
現在の柳原は、目の前の世界を見つつスタイルには囚われないスタンスを取る。
自分の立ち位置を定めた印象があり、二足遅れの「不惑」をようやく迎えたと言えるのではないか。


ライブに話を戻し、第二部。
グランドピアノの音が歪むほどビブラートを効かして「寒い星」「レイ」。
リクエスト大会で「歌わされた」ときと同じく、「パパが死んだ」ではなく「消えた」と歌った。
「死んだ」という言葉も比喩的に解釈することができるが、「消えた」の方が多くの含みを持ち、意図的なものだと考えられる。
この曲も管楽器の音を被せてほしいと思うが、いずれ再演も期待できるであろう。
この曲のコメントも曲目紹介もなく、「レイ」。
柳原の夜明け前的な状況の世界であるが、おそらく夜明け後であろう現在は、多少別の視点からこの曲を見られるようになっているであろう。
発表当初と比べ、和音の移動を意識的に変えている部分がいくらかある。


「毛毛毛」は、「金返せ」と同じタイプの曲。
髪の毛が薄くなっていく悲哀についての曲である。
当然聴衆受けはよいのであるが、客受けのよい曲も初期と現在では異なっている。
一言で言えば、「フィクション」と「ノンフィクション」。
現在の「笑いを取れる」曲は、現実と密接に結びついていて、「金返せ」などは笑えないほどのリアリティが映像的に与えられる。
「フィクション」時代の曲(たま時代)は、世界はあるが、「見たこともないリアリティのない特殊空間」に包まれる非日常的感覚を楽しむ感があった。
今の立ち位置としては、「ノンフィクション」が綴られていくことになるであろうが、いずれ今の柳原が生み出す「フィクション(作り手の中ではフィクションといえる曲もあるのだろうが、フィクション性を意図した曲という意味でのフィクション)」もいずれ聴いてみたい。


以下は、先ほど述べた今のモードの曲が並ぶ。
「マリンバ」は久々に聴いたが(ウェアハウスにはなかなかいけない)、力が入った熱演であった。
逆に、「脱力マスターズ」は文字通り、力の抜きどころを押さえた曲で、「まわれ糸車」と同様に力を抜いた余韻を楽しむことができる。
旧譜は力を入れっぱなしのものが多いが、体力的にそれを減らしたのではなく、力を抜いた余韻を楽しむ余裕ができたのであろう。


アンコールの「ひのもと音頭」も、仰々しいグランドピアノの音とのミスマッチが素晴らしい。
「3曲歌わせてまだ要求するか」とも思うが、「ホーベン」の後に「涙があふれてる」で終了。
少し前のモードでよく歌われていた曲である。
加藤一誠のギターは全体的に予想以上に好演であった。
顔をしかめての思い切りのよいチョーキングが、この日のための準備の周到さを証明していた。
彼の未来もまた、意義あるものであることを祈りたい。


JIROKICHIの柳原陽一郎は、今のところ外れがない。
聴かないと後悔するステージばかりであったので、また次回も足を運びたい。


まったく関係ないが、最近のYananetのライブページはほとんどレポがなく、もったいないと感じる。
以前は、ミュージシャンや評論家などの詳細なレポがあった。
今は、本人からの一言が書き加えられているだけなので、ライブのよさを再認識できるライブのレポの復活を待ちたい。

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