「おかあさんといっしょ」のうたのおにいさんとおねえさんが代わって半年経つ。
思うところを少し書くことにする。
今井ゆうぞうとはいだしょうこは、自分にとって理想の組み合わせであった。
見られる機会がある日は必ず見て、この組み合わせが永遠に続くことを祈っていた。
それだけに、代替わりは大変寂しい思いをした。
はいだしょうこで特筆すべきことは、歌の振り付けのアクセントのつけ方であろうか。
「動物園へ行こう」「ふしぎはすてき」などでのはいだしょうこの動きは、見入ってしまうものがあった。
振り付けや踊りは自分には専門外なので、理論的なことはまったく分からない。
だが、印象に残るポーズの形が普通よりも少しだけ長い状態で保たれ、ポーズとポーズの間の移動がその分俊敏であったように感じた。
それが、コマ送り再生のように1コマ1コマに目を離せなくさせる理由なのではないかと、今にして思う。
歌も、難しい音程の動きや表情のつけ方など、歴代でもおそらく頭抜けて実力のある力があった。
「ゆきくるるん」「あのね、あきはね」など、音楽も声も完成されていて、鳥肌が立つ緻密さがあった。
「ウホウホヒョー」あたりは衝撃的で、意見が分かれるところかもしれない。
だが、他のおねえさんではこの歌自体を作ろうという発想も生まれず、無難な今月の歌が続いていたはずである。
はいだしょうこがいた5年間、おかあさんといっしょの音楽スタッフは、様々な音楽的可能性を実践できていたはずである。
この期間に残された音源は、子どものみならず大人が聴いても鑑賞に堪えうるものである。
今井ゆうぞうを最初によいと感じたのは、「ぼくときみ」の曲であった。
歴代のうたのおにいさんと比べて、伸ばした声の質が非常に美しい。
坂田修や速水けんたろうなども、声を伸ばすよりも短く切る部分が多かった印象があった(あくまでも記憶の話であるが)。
伝統として、子どもの歌は言葉を優先するあまり、音符レベルの世界を犠牲にするところがあった。
犠牲になるといったレベルではなく、地声で言葉を強調させ、音程のない掛け声的な部分が常用されていた。
もちろん、「サラダでラップ」のような、それを想定して作られた作品でなしに。
今井ゆうぞうの場合、音楽の流れも声によって生じた柔らかな世界も壊さずに、完成体として残す稀有な実力があった。
技術そのものははいだしょうこの方が実力的に上ではある。
だが、声を重ね合わせたときに温かみと柔らか味のある世界を作り出していたのは、むしろ今井ゆうぞうの声であったと言える。
他のうたのおにいさんでは、はいだしょうこの歌のうまさとのコントラストだけが強調されていたはずである。
その意味で、純粋に音楽としての魅力をこの分野で伝えることに、今井ゆうぞうが投じた一石は十分すぎる意義を持っていると言えよう。
もっとも、この分野の音楽ライターとしての坂田修の力量は、別に評価されてしかるべきだとも思うが。
この二人のハーモニー、シンクロされる体の動きを見るたびに、調和の取れた理想の状態であることを感じていた。
だが、周囲の人間の印象は必ずしも、この二人が理想とは思っていなかったのが意外であった。
「子どもが好きでなさそう」という意見は、特に自分を驚かせた。
純粋に歌と踊りというファクターの他に、別の座標軸があるものなのだと思い知らされた。
「歌い方があまり好きではない」という声もあった。
おにいさんは坂田修、おねえさんは茂森あゆみが好きだったという。
確かに、茂森あゆみの声と歌は、ある一定の線を逸脱しない安心感がある。
発せられる言葉自体も、はいだしょうこより直接届く印象もある。
一時期よく見ていたクインテットで、自分はそのように感じていた。
だが、自分にとってはこの二人の「おかあさんといっしょ」は、永遠の理想形であり続ける。
できることならこの二人で永遠に活動し続けてほしい、と感じている人間は、自分以外にもいると思う。
まだまだ書きたいことは尽きない。
いずれ、この続きは書きたい。
今のおにいさんとおねえさんは、伝統的な流れに戻った感がある。
おねえさんのファルセットの使い方は上手いと感じたが、他の要素はこれから見極めていきたい。