面白戦争エピソードファイル<6>
めーあーりーふー、ゴイスーだったわ!ネカフェ出たら大雨じゃねえか!けど、そんな濡れてなくて良かったぜぇ~。傘なんか荷物になるから持って来て無かったぜぇ~。ワイルドだろぉ~?、、、ただ面倒臭かっただけです。
戦時中の「贅沢は敵だ!」や「欲しがりません!勝つまでは!」等のキャッチフレーズは、元々はドイツが言い始めたんですってよ。そりゃ知らなかったぁ~。
では、第6エピソードの今日は「アングロ・サクソンの敗北」です。
ここで少し、戦争の1番の基本、歩兵について話をしてみよう。
第2次世界大戦での歩兵戦闘の記録を見ていくと、1つ面白い事に気が付く。戦争に勝った国である筈のアングロ・サクソン人種、すなわちイギリス、アメリカが弱いのである。イタリア戦線最大の激戦地、リリ渓谷の国道6号線を巡る戦闘で、アメリカ・イギリス連合軍はモンテ・カッシノに陣取ったドイツ軍、降下猟兵師団と山岳猟兵師団の歩兵を相手に、野砲、重砲を含む機甲師団が、半年以上前進を阻まれるという事態になった。ここは地形的に険しい山に阻まれて、大部隊の展開等とても望める場所ではなく、たった1本の国道を戦車が行列して進めば、たちまちドイツ軍のパンツァーファウストの餌食になるという様な場所であった。こうなると歩兵による突破以外に方法は無い。当然、連合軍も手を拱いていたわけではない。完全に制空権を奪われ、補給すらままならいドイツ軍に対し、重砲支援の下、何度も歩兵攻撃が繰り返されたが、その度にドイツ軍歩兵に撃退され、一向にらちが開かない。そしてとうとう連合軍側は切り札を投入する。イギリス・グルカ兵大隊と、第522日系アメリカ人大隊の投入である。この2部隊は投入されるや否や、アメリカ・イギリス歩兵師団が半年掛けても攻略出来なかったモンテ・カッシノ周辺のドイツ軍をあっという間に落としてしまうのである。実はアフリカ戦線で、無敵ロンメルを初めて押し止め、そのままスエズからアルジェまで押し戻す主役であった。ビルマにおけるインパール作戦時にも、当時白兵戦なら世界最強と謳われた日本軍相手に、10日間以上互角の戦闘を繰り広げ、遂に日本軍を撃退したのはグルカ兵大隊である!
ただし、彼等有色人種部隊はその損害も絶大であった。44年のフランス、ブリュエール周辺での戦闘で、ドイツ軍に包囲されたアメリカ兵歩兵テキサス大隊の救援を命じられた日系歩兵442連隊は、重厚なドイツ軍包囲網を突破し、無事テキサス大隊を救出して戻って来た!だが、140人の中隊が17人に、150人の中隊が僅か6人になっていた。全体として、部隊の8割以上を失いつつも、任務を全うしてのけたのである!
まぁ、これは家族を人質に取られている日系人部隊の特殊な例だとしても、連合軍側は、こと歩兵戦になると極端に弱い事が多い。連合軍側で唯一の例外はソ連だが、この国は大戦での死者が2000万人を超えている。当時のソ連の人口が2億人程なので、ほぼ人口の1割を失った事になる。通常、人口の5%を失うと、国家としての機能はマヒすると言われている。当たり前だが、人口の半分は女性で更に6割以上は老人か子供である。単純計算で働ける男性の2人に1人は死んでしまった事になる。これでは勝ったとは言えない。今のロシアでは第2次世界大戦の事を「大祖国戦争」と呼称するそうだが、これだけメチャクチャにやられながれ、遂に祖国を守り抜いたなら、そう呼びたくなる気持ちも分からなくもない。
ドイツ最後の戦い、スターリングラードと並び、史上最も激しかった市街戦、ベルリン市街戦において、最後まで国会議事堂や総統官邸を守り続けたのは、SSヴィーキングやSSゲルマニア師団の残党、義勇フランス人部隊であった。ヴィーキング師団やゲルマニアと言うのは、主に北欧やポーランド等のドイツ占領地からナチスに共鳴した人々で編成された部隊で、義勇フランス人部隊と言うのは、その名の通り、親ナチスのフランス人で編成された部隊である。彼等には戦うしかなかった。ドイツ人にはまだ、負けてもドイツと言う国が存在する。だが彼等には例え国会議事堂の1階と踊り場でロケット砲を撃ち合う様なハメになっても、ヒトラーが勝たない限りは、世界中どこにも行き場が無かったのである。戦後、自国民のナチス協力者をどういう目にあわせたかはその国が1番知っている。
画像の真ん中は、1938年に青少年相互訪問の一環として、ヒトラー・ユーゲント達が来日した時の貴重な写真です!
下の画像は、ヒトラーがヒトラー・ユーゲント達に労いの言葉をかけている場面です。この後、間もなくしてヒトラーは自殺した。
運命とは皮肉なもので、当初は戦争とは余り関係の無い行動を執っていましたが、戦況が悪化してくるにつれ、彼等は満足な訓練もしないまま戦場に送られ、その多くが命を落としたと言います。女性のヒトラー・ユーゲントもあり、ベルリン防衛の時にはやはり送り出されていました。
ヒトラー・ユーゲントは、当時の法律で男女10歳ぐらい~20前後と決められ、入隊も法律で決められている為、絶対入隊しなければならなかった。だが、前にも書いた様に準戦闘訓練ぐらいで、主に体力作りや祖国愛精神を高める内容の訓練が行われていました。終戦と共に、この組織は消滅しました。
一方、ソ連では一部の成人女性は普通に戦場に参加してました。
日本でも学徒出陣があり、桜の花びらの如く、戦後の優秀な人材になったであろう若者達が、はかなく散って行きました。
今ある平和を築く為に、犠牲になった全ての人々に感謝です!
さて、次回は「鉄の棺桶」を予定してます。
棺桶っつっても重い話じゃないよ。
panzerlied
面白戦争エピソードファイル<5>
今年も半分が終わりましたね。う~、早い。
さぁ、いよいよロンドン・オリンピックが今月開幕します!
どんなアーティストが出るのか楽しみです!
それでは、今日は第5エピソード「怖いモノには強くなる」です。
独ソ戦開始直後、ソ連軍は電撃的に侵攻するドイツ軍に、全く歯が立たなかった。これはドイツ軍が非常に優秀だった為なのだが、それだけではない。ソ連軍が稚拙の極みと言っても良かったからだ。理由は2つ。1つは、ロシアがソヴィエトになったせいである。この時、帝制ロシアを支えて第1次世界大戦を戦った、実戦経験のある数多くの白軍士官、下士官が処刑されたり、亡命している。もう1つは、ソ連軍内部の事情によるもので、猜疑心の強いスターリンは赤軍内部に自分を脅かす勢力が現れるのを恐れ、優秀な軍人であればあるほど粛正してしまった。この2つの理由により、この時期のソ連は熟練士官の殆どを欠いていたのだ。しかし、大戦後半になると状況は一変する!度重なる戦闘で熟練士官の多くを失い、ヒトラーの逆鱗に触れて何人かの優秀な指揮官を失ったドイツ軍に対し、4年にも及ぶドイツ軍との戦闘でドイツ流電撃戦を体で覚えたソ連軍は、攻守逆転させる。今度はソ連がドイツ軍の電撃作戦の10倍以上の戦力でベルリンへ電撃戦を行ったのだ!この時、ドイツにはそれを支え切れる体力は無かった。
面白い事に、兵器にしても大戦初期と後期では同様な事が起きている。独ソ戦開始当初、ドイツ軍主力戦車は、3号及び4号短砲身であり、42口径76mm砲を装備し、傾斜装甲を備えたTー34(真ん中の画像)の出現は、ドイツ軍指令部に衝撃を与えた。これは当時のどのドイツ軍戦車よりも優秀だった。更にソ連軍にはTー34を上回る重戦車KVシリーズ(下の画像)がある。この時のドイツ軍指令部の驚愕は相当なものだった!慌てて重戦車の開発に取り掛かるが、そこで出された計画案の殆どがTー34のコピーだった事からも、Tー34ショックが如何に強烈であったかがうかがわれる。そしてドイツ版Tー34とも言うべきパンテル(パンター)が誕生するのである。この時、試作の段階で見学したヒトラーが、余りにTー34に似ているので不快感を示し、急遽デザインに手を加えられたとも言われている。この段階で、生産に入っていたティーゲル(ティーガー)(1番上の画像)が3・4号戦車の流れを組む純粋なドイツデザイン最後の戦車となった。
完成したパンテルはカタログデータ上ではT34/85と大差無いが、パンテルを捕獲したソ連兵もTー34よりパンテルに乗る方を好んだという事から等から、居住性や操作性、装弾速度等のデータに表れ難い点でパンテルの方がかなり勝っていたようだ。
その後、ドイツとソ連は、共に巨大な砲を持つ重戦車開発にしのぎを削り、ドイツ側はケーニヒスティーゲルからヤクトシリーズ、Eシリーズ、ソ連側はズヴェルボイやスターリンシリーズへと進化を遂げていく。どんな兵器にヒドい目にあわされたかによって、その後の兵器開発が決まってくる、というのはのはどこの国も同じで、そういう目で見ると、各国の戦後開発兵器で面白い事が分かる。
イギリスはドイツ重戦車が余程恐ろしかったのか、戦後開発されたコンカラーが重過ぎて不評だったにも関わらず、更に重いチーフテンを開発、現在は世界で1番重いチャレンジャーを配備。また、アメリカ軍は太平洋戦線で日本軍の狙撃兵と摘弾筒にヒドい目にあった事が忘れられず、グレネードランチャーとスナイパーズライフルに関しては他の追随を許さない国になった。ここでも異彩を放つのがソ連軍で、彼等は戦略爆撃の効果については全く無視し、戦車の大量運用こそがドイツを崩壊に追い込んだと信じ、戦前はソ連空軍の十八番であった長距離爆撃機を全てお払い箱にしてしまった。確かに彼等はドイツに対し戦略爆撃を行わなかった。しかし、アメリカやイギリスの昼夜に渡る戦略爆撃があったからこそ、ソ連の大戦車軍団が活躍出来たのも、また事実である。
独ソ戦初期のTー34登場後、ドイツの能力不足が表面化していました。新兵器好きのヒトラーは、よく兵器発表会に出向いて、意見していたそうです。
ドイツのティーゲル戦車は、ドイツ兵士達の間では伝説となっている戦車なんです。デビューした時には、既にドイツ軍の戦車の中でも最強と謳われていました。攻守も最強、重戦車なのに移動力も抜群で、敵国にしてみればかなり厄介な戦車だったようです。
ティーゲルやパンテルという呼び方は、当時のドイツ読みの言い方で、現在ではティーガーやパンターという呼び方が一般的。因みに、英語ではタイガーやパンサーと呼んでいます。また、映画「プライベート・ライアン」に出て来るドイツの戦車はティーゲル戦車です。
ソ連のKV戦車は、当時ティーゲル戦車の無かったドイツには、Tー34戦車よりも1番厄介な戦車だったんです。KV戦車は、ドイツにするとティーゲル戦車並の力を持っていました。
戦車を世界で初めて開発したのはイギリスなんです!
ベースにしたのは、何と農作業用のトラクターで砲身はありませんでした。映画「戦火の馬」で出て来るのがそいつですよ。
膠着状態が長引く塹壕戦打破の為に開発されました。
当初、「水運搬車(WATER CARRIER)」という秘匿名称で呼ばれていましたが、頭文字を取ると「トイレ」になるので、「水槽供給(TANK SUPPLY)」と改名されて以降、戦車の事を「タンク」と呼ぶ様になりました。しかし、タンクと呼ばれる様になった経緯には諸説あるそうです。
さて、次回は「戦争の基本」を予定しています。
う~、ウィンブルドン観てるから眠い。
vorrucken
面白戦争エピソードファイル<4>
さぁ、エピソードも中盤になりましたが、世間は大飯原発のデモが拡大してますね。ここは一丁、彼等がどこまでやれるか見守りたいと思います。
さて、昨日に引き続き、第4エピソードの今日は「バカ友!?イタ(痛)リア」です!
「あの国の戦車はアルジェの原住民を追い回してりゃ良いんだ。」と言った人がいる。あの国とは勿論イタリアの事であり、言ったのはエルヴィン・ロンメルその人である!
DAK(ドイツアフリカ軍団)と言えば、神出鬼没「砂漠の狐」と呼ばれたロンメル将軍と、かの有名な88mm砲の大活躍で、ドイツでも特に名の知られた師団ではある。(画像参照)実際には兵力こそ約12万とそこそこの数を揃えていたものの、半分はヤル気の全く無いイタリア兵であり、戦車300輌、航空機150機程度のドイツ全軍から見ればごく小さな部隊であった。それもその筈、元々、ドイツはアフリカなんかに出兵する気は全く無かったのである。イギリス本土上陸戦「アシカ作戦」を事実上放棄し、イギリスの早期占領を諦め、ソ連との戦争準備を急いでいたドイツにとって、わざわざそんな場所へ送る程の余分な戦力も、戦略的意義も無かったのである。
それが何故、貴重な戦力を裂いてまでそんな事をしなければならないハメになったか?
ひとえにドイツのバカ友、イタリアのお陰である。彼等はドイツとは違い、戦争をする気は全く無かった。だが、同盟国たるドイツが快進撃を続けるのを目の当たりにして「もしかしたら俺達でも出来んじゃね?」と考え、何の準備も無いままいきなりバルカン半島及び地中海の対岸に攻め込んだのである。当然の事ながら、装備も貧弱で命令系統すら整理されておらず、オマケに士気も最悪なイタリア軍はその全ての戦線で、殆ど何の勝利も上げないままひたすら負け続けた。それどころか、このままではイタリア及び地中海側から逆にイギリス軍の上陸すら招き兼ねない。そう決断したドイツ軍は慌ててイタリア支援の為、アフリカ及びバルカン半島へ軍の派遣を決定したのである。
ここでもし、イタリアが勝つ、とまでは言わない、地中海及び自国の防衛にだけ徹していたら?と仮定するとドイツは結構良い所まで行けたのではないだろうか?
枢軸側として参戦予定だったユーゴスラヴィアのクーデターはイタリアのせいではないとしても、1ヶ月はバルバロッサの開始は早まったであろうし、当然そちらに回していた戦力も対ソ連に投入出来る。そうなるとモスクワが陥落していた可能性は大、である。仮にバルカン半島だけでもイタリア軍に任せる事が出来ていれば、更に1ヶ月は早く対ソ連が開始、ほぼ確実にジューコフと冬という、2人?の偉大なソ連の将軍が来る前にモスクワの攻略が可能だった筈である。勿論、モスクワが落ちたからと言ってソ連が降伏するとは考え難いが、取り敢えずアメリカ参戦前にウラル以西の支配権さえ確たるものにしてしまえば、その後の戦局もかなり変わって来た筈である。何と言ってもウラル以西のソ連は資源の宝庫だ!
結局、2年間に渡って殆ど満足な補給も受けずに戦い続けたDAKは、華々しい名声だけは残したものの、増援に送り込まれたティーゲル戦車は研究捕獲され、エル・アラメインの勝利によってイギリス軍の士気は上がり、挙げ句に地中海を失ってイタリアからの連合軍の上陸を許してしまう、ドイツにとって良い事は何も無い戦場であった。
1943年、ドイツアフリカ軍団最後の戦闘が行われた時、ドイツ軍の稼働車両は3号突撃砲が僅かに7輌、対するアメリカ・イギリス連合軍側はM4を中心に600輌以上。
「地雷原など戦車で踏み潰してしまえ!そんな物はアメリカが幾らでも持って来る。」
これはその時のイギリス軍指令官モントゴメリー将軍の言葉である。
イタリアのバカさ加減にはホトホト呆れますね。
ロンメルさんは、戦場で捕獲した敵の武器や車両は何でも使っていました。アフリカ戦線を離れた後は、何と将軍達によるヒトラー暗殺計画に参加したがバレてしまい、1944年に服毒自殺してしまった。なお、第1次世界大戦でも戦果を上げている。
機械化された歩兵部隊は貴重であり、8輪重装甲車はDAKの目であり、情報が勝敗の決め手でした。
88mm砲は、元々、高射(対空)砲だったんだが、改造を施し車高を低くして対戦車用に生まれ変わったのだ。これ以降、戦車殺しの異名を取る様になる!ベルリン防衛戦でも使用され、海外戦争ドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」では、現存する貴重な当時の本物の88mm砲を使って撮影が行われました。(第7話の雪原の死闘で登場)
さて、次回は「恐怖と強さ」について書こうかなと思ってます。
まだまだ続くぞ!
der narr







