おはこんばんわ~♪
6月に入り、そろそろ暑い季節がやってきますねぇ~。
最近は「御朱印集めをやると不幸になる」と訴えかけている人もいる
様で、実は注意をしなければならない事はいろんな所では言われています。
神社と寺院は別にする・神社で不謹慎な行為は慎むと言った事は
YouTube他でもいろんな方が紹介していますが、そうではなく
神さま側から見てご利益を与えるどころか、本気で祟られるんじゃ?
って収集をされている方もいる様で…。
前回のブログで紹介しました菅原道真公の様な日本三大怨霊を祀る
神社は、個人的に気を遣い御朱印帳も分けてはいますが、そんな
事を紹介しているところは無いので、今回は人神を祀る神社の中でも
知らないと本当に不幸になるかも?って事で、第1弾は
三大怨霊の1柱で平安時代に「新皇」を名乗り、朝敵となった
平将門公を祀る神社を紹介して行きたいと思います。
中央区日本橋兜町に鎮座する兜神社↑(主祭神 宇迦之御魂命)は藤原秀郷公が将門公の兜を
地中に埋めて供養したと伝わる神社(参拝済み、御朱印は日本橋の日枝神社で受けられます)。
下総國(千葉県)や常陸国(茨城県)を本拠地としていた将門公は
桓武天皇の系譜を組む人物であり、桓武天皇から数えて5世の
孫に相当します。将門公は只の荒くれ武者と言う訳ではなく、若き日には
当時の都における最大権力者の関白 藤原忠平のもとで奉公していた事もある。
当然、貴族としての立ち振る舞いの知識は得ていたであろうし
将来的には叙位される立場にいたでしょう。
貴族として辺境を治める確固たる地位を将門公は望んでいたと言う説もあり、
これが叶わなかったために朝廷に怨みを抱いていたとしているが…。
多少の小競り合いはあったにせよ、将門公は己が領地と捉えた場所の
確固たる安寧を願っていただけなのかも知れません。
朝廷に仇をなした極悪人として、長きに渡り伝えられて来た将門公では
あるけど、最初から朝廷や他の貴族と敵対していた訳ではない。
それどころか、相続すべき将門公の領地に手を出した伯父や従兄弟など
同族の攻勢を退けた勇猛さを称賛されています。
坂東武者の戦い方は苛烈で、親兄弟と言えども敵対した者は倒すのが
習いであり、その中でも将門公は群を抜いており当時としても
珍しい殲滅戦を用いた程である。
そのため敵側の一族には恨まれ、見聞に及んだ者からは恐れら
れてはいたが、坂東一の武者となった将門公が天皇そのものに
敵意を抱いていたかは定かではない。しかしながら中央から派遣される
国司に対して、腹を据えかねていたのは確かで、国司とは本来は
派遣地に善政を布くために赴任するもの。
しかし、各地に派遣された国司は賄賂を受け取ったり
民を私的に用いたりと、やりたい放題であり、
これは将門公の地においても同様であった。
将門公が反逆者となるターニングポイントは、
常陸国府を襲撃し国司を追い出した事で、将門記に民の害毒と
記された程の無法者、藤原玄明を匿い国府への引き渡しを否定した
事に端を発する一件であるが、この時すでに将門公の腹は決まって
いたのだろう、国府を襲うという事は朝廷に反逆の意を示すので
あるのだから、引き返せない事は承知していたはずである。
関東を切り取り新皇を名乗った将門公ではあったが、藤原秀郷・
平貞盛・藤原為憲らが挙兵した連合軍に討ち取られてしまいました。
我が地での無法は許さないと言う強い思は叶えられることはなく
無念として残り、将門公は怨霊と化したのであります…。
鎧神社(新宿区北新宿)
最初の紹介は新宿区北新宿に鎮座します鎧神社です。
醍醐天皇の時代(898~929年)理源大師の徒弟である筑波の貞祟僧都、
行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、縁照寺が創建。
当時は神仏習合と言って、神社と寺院が密接に繋がっていた時代、
寺院の鬼門鎮護の為に創建されたと伝わっています。
天慶3年(940年)、関東に威を唱えていた平将門公が藤原秀郷公に
よって討たれると、この地の民衆はその死を悼み、天暦元年
(947年)に将門公の鎧を当地に埋めたと言われています。
また、一説によれば将門公を討った後に重病となった秀郷公が、
神霊の祟りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し
将門公の鎧を埋め祠を建てて、その御霊を弔ったとも言われています。
以後、村の鎮守社として民衆から尊祟を受けて来たと伝わり、
これらの事から「鎧」の社名が起こったと云われています。
主祭神は将門公の他に日本武尊・大己貴命・少彦名命を祀り、日本武尊が
東征の時に甲冑六具の内をこの地に蔵めたとも伝わっています。
摂社には天神社(主祭神 菅原道真公)、末社には稲荷神社(主祭神
宇迦之御魂命)なども鎮座しています。
火防守護・武運長久・事業繁栄・勝負運にご利益のあると言う
鎧神社。将門公の鎧が眠る伝説の社として、また日本武尊の
ゆかりの神社として、参拝してみては如何でしょうか?
築土神社(千代田区九段北)
続きまして千代田区九段に鎮座し、将門公の神徳として
北の丸公園にある日本武道館の氏神となっています築土神社です。
天慶3年(940年)6月に江戸の津久戸村(現在、千代田区大手町
1丁目の将門塚付近)に将門公の首を祀り、塚を築いた事から
「津久戸明神」として創建されたと言われています。
室町時代に太田道灌によって田安郷(現 千代田区九段坂上)に遷され
「田安明神」とも呼ばれ、「神田明神」「日枝神社」と共に
江戸三神の一つと数えられる事もありました。
元和2年(1616年)に江戸城の拡張工事により築土八幡神社の
隣接地へ遷座し「築土明神」と呼ばれ、明治7年(1816年)に
天津彦火邇々許尊を祭神として築土神社へ改称されます。
昭和20年(1945年)戦災で社殿が焼失するまで、将門公の首を
納めたという首棺や将門公の肖像画、木造の束帯坐像などが社宝として
伝わっており、現在では一部の写真が残るのみとなっています。
昭和29年(1954年)に現在の九段中坂の途中にある世継稲荷の境内地に
移転し、平成6年(1994年)境内地にオフィスビルを建設すると
共に、鉄筋コンクリート造の社殿となっています。
江戸時代の文献によれば、将門公の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが
安置されていたといわれ、数ある将門公ゆかりの中で将門信仰の
象徴的な神社となっていた築土神社。
拝殿の装飾や絵馬などには、巴文のほか将門公に因んだ繋ぎ馬の文が
使用され、コレは神社の境内にある天水桶(元政元年)の彫刻を模した
もので、築土神社の登録商標になっています。
神田神社(千代田区外神田)
最後はやっぱり千代田区外神田に鎮座し、神田・日本橋・秋葉原・
大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108ヶ町会の
総氏神であります江戸総鎮守 神田神社です。
天平2年(730年)、武蔵國豊島郡芝崎村に入植した出雲系の民族が
大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。
神田はもとより伊勢の神宮の御田(おみた⁼神田)があった土地で
神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称していました。
承平5年(935年)の天慶の乱にて敗死し、京都でさらし首となった将門公の
首が当社の近くに葬られ、首塚は東国(関東)の平氏武将の祟敬を受けた。
嘉元年間に疫病が流行し、これが将門公の祟りであるとし供養が行われ、
延慶2年(1309年)に相殿神とされ、将門公に祈願すると
勝負に勝つと言われるようになります。江戸の総鎮守として
尊祟され、神田祭は江戸三大祭りの一つであります。
明治7年(1874年)明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する
にあたり逆臣とされた将門公が祀られているのは、あるまじきこととされ
将門公が祭神から外され、代わりに大洗磯前神社から少彦名命を勧請、
その後の大正12年(1923年)関東大震災で社殿が焼失する。
昭和9年(1934年)に当時では珍しい鉄筋コンクリート構造で再建
されたことから昭和20年(1945年)の東京大空襲では
境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿など消失を免れた。
昭和59年(1984年)に将門公が本社の祭神に復帰、現在は神社本庁
の別表神社となり、また旧准勅祭社の東京十社の一社であります。
「神田明神を祟敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない」と
いうタブーが伝わっていまして、これは朝廷に対して叛反起こした
将門公を討伐するため、僧 寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる
不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため
動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち新勝寺参拝は
将門公を祀る神社とはよろしくは無いのですねぇ。
前回紹介しました所沢市の武蔵國坐令和神社と同様に日本のアニメ
聖地88に認定される神田神社。「ラブライブシリーズ」「シュタインズ・
ゲート」「東京レイヴァンス」といったアニメやライトノベル作品の
舞台となり、聖地巡礼を受ける様になりました。
一ノ宮に大己貴命・二ノ宮に少彦名命・三ノ宮に将門公を祀り、
縁結び・健康祈願・勝負運の向上などなどにご利益を得る事が出来、
祟拝者には強力な加護が持たされると言います。
さて~今回のブログはここまで~。
実はウチの常連でRX-8のBeyerさん、自分と同様に神社・パワースポット
巡りが好きな方ではあるのですが、神田神社の近くに来ただけで
体調不良になるそうで、それもそのはず彼の家は代々
藤原秀郷公が参籠し将門公追討の祈願をして、その平定の後奉恩の
ために社殿を造営した台東区の下谷神社を氏神としていましたので、
そんな氏子の彼自身、絶対に相性が悪いに決まっていますねぇ…。
栃木県の唐沢山神社の様に秀郷公を祀る神社もあり、歴史や由緒も
知らずに御朱印を収集されている方、多くの神社を参拝しているのに良い
事が無いって方は、自身の御朱印帳を調べて一緒にされていないか?
一度見返して下さいませ~。
特に人神を祀っている神社は相性があると言う事を理解し、
きちんと下調べをしたうえで、多くの神社の参拝をオススメします。
千代田区大手町の将門塚↑将門公の首を祀る塚です。
次回は将門公を祀る他県の神社を5選と、ご存知の方も多いと思い
ますが将門公が死しても戦わんとする彼が日本三大怨霊と
呼ばれる様になるまでの凄まじい伝承をご紹介して行きます。
まだまだ多くの神社・パワースポットを巡って、我が国日本の文化や
歴史をこよなく愛する国民のみなさまに紹介して行きたいと
思いますので、これからも応援よろしくお願いします~☆☆☆