おはこんばんわ~♪

今日も1日、暑い中でお仕事お疲れ様でした!

今年の夏は年のせいか?暑さが堪えて、体調不良になりかける事が

しばしばある628の店長です…。

さて~朝○カルト集団の統一教会とズブズブな売国政党の自民一派が

我が国日本をメチャクチャにして、国民を苦しめている真っ最中な

ご時世ですが、皆さまは如何お過ごしでしょうか?

先週は、遠路遥々三菱コルトのオーナーさんが顔を出して下さいました

ので、相変わらずのオーディオ談議(実は御朱印談議だったり?)でしたよ~。

最近、神社・パワースポットを少なからず巡っている方も

ウチのメンバーには増えて来たのかなぁ~とは感じています♡。

そんな今回は、先週の8日(土)に神奈川県横浜市内の神社・パワースポット

巡って来ましたので、その中の3社をご紹介して行こうと思いますねぇ~。

 

 

平戸 白旗神社(戸塚区平戸町)

今回のまず最初の紹介は、乾元元年(1302年)に鎌倉鶴ヶ岡の

相承院前住元智が、源頼朝公をこの地に勧請して創建。

明和6年(1769年)には相承院から頼朝公

遺髪三筋を送られご神体としたと言う平戸 白旗神社です。

隣接する東福寺と永谷村の鎮守として、頼朝公が逝去されてより

100年後の鎌倉時代末期に創建されたと言われています。

 

小・中学校の日本史でもご存知、鎌倉幕府を開いた源頼朝公

主祭神としています。源義朝の三男として出生し、幼名は鬼武丸と

呼ばれ、父の義朝が平治元年(1159年)の平治の乱で敗れ、伊豆へ

配流されると、伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政・北条義時など

坂東武士たちと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠地として関東を制圧。

弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟の源義経

追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州の合戦で

奥州 藤原氏を滅ぼすと、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられます。

これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる

武家政権が開かれる鎌倉幕府が誕生します。

(我が国日本の歴史に詳しい方なら、こんな解説はいりませんけどねぇ!)

 

武運長久・出世開運にご利益があると言われている平戸 白旗神社

鎌倉市の西御門 白旗神社(正月三が日のみ御朱印も受けられます)と同様に

頼朝公を祀る神社を巡って、日本の歴史に触れて見ては如何でしょうか?

 

後に壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の亡霊を稲村ヶ崎で見た頼朝公は、

急にめまいがして落馬。すぐに供をしていた者が助け起こしたが、

鎌倉御所に帰った後に亡くなったとも言われています。ですので

平家を祀る神社や全国の水天宮や赤間神宮(主祭神 安徳天皇)などと

一緒の御朱印帳はNGでしょう…。

更に前回のブログで紹介しました崇徳上皇とも保元の乱

父の義朝や平清盛と共に後白河天皇側に付き崇徳上皇側に

戦勝しましたので、絶対にダメですねぇ!。

 

 

 

品濃 白旗神社(戸塚区品濃町)

実は、平戸 白旗神社とはブログで一緒に紹介するのも躊躇いましたが…

康元元年(1256年)に創建、ご存知の白旗とは源平争乱の際に敵・味方を

区別するための旗の色で平家の赤旗に対して源氏は白旗であると定めた

事からであります。此方の品濃 白旗神社は、全国には同名の神社は

80余りあり、主祭神を源義経公としている神社は8社あると言われて

います。何故この地に祀られたのか、詳細は不明な様です。

 

義経公は源義朝の九男として生まれ、「京の五条の橋の上~♪」で

ご存知、幼名を牛若丸と言われました。

平治の乱で父の義朝が惨敗した事のよって、京都の鞍馬寺に預けられるが

後に平泉(現在の岩手県南西部)へ下り、奥州 藤原氏の当主・藤原秀衡の

庇護を受け、兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げると

それに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし

最大の功績者となった。後に頼朝の許可を得ず官位を受けたことや、

平氏討伐での独断専行によっての怒りを買い、自立の動きを見せたため

頼朝と対立し義経公は朝敵とされる事になりました。

全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼ったが

秀衡の死後に頼朝の追及を受けた当主 藤原泰衡に攻められ、

現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃したと言われています。

 

天正19年(1591年)以来は當神社の知行となった新見氏が、明治初頭まで

興隆に尽力しましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の

際に社殿が倒壊。しかし氏子の誰一人損害が無かった事から「宮柱うち

くだかれても倒れても氏子の怪我なきぞ尊き」と献詠して、民衆たちは

「鎮守さまが身代わりになって下さった」と感動して翌年には

再建に着工、9月28日に竣工しました。

主祭神は源義経公の他に天照皇大神・豊受姫神の三柱を祀り、

国土安泰・開運・五穀豊穣などなどのご利益が頂けそうです。

 

兄の頼朝に朝敵にされ、最期は無念を残して自刃しただろう義経公…。

同じ白旗神社ではあるし、車で10分程と近い場所に双方鎮座していますが、

やっぱりこの2社は御朱印帳へ御朱印をお受けされる場合、

別にした方が良いでしょうねぇ…。

勿論、平家を祀る神社とも相性は最悪と思えます。

(神奈川県藤沢市藤沢の白旗神社義経公を主祭神とし、御朱印も頂けます。)

 

 

 

永谷天満宮(港南区上永谷)

最後の紹介は、藤原時平らの策略によって太宰府に左遷された菅原道真公

自身を鏡に映して自ら彫ったと伝わる高さ1寸8分の道真像3体のうちの

1体を御神体として安置している永谷天満宮です。

この像は道真公左遷に伴い、播磨國へ流刑になった道真公

五男 淳茂に与えられたもので、彼は後に関東へ下向し

相模國鎌倉郡永谷郷に居館を構えて道真像を奉祀したと言われています。

 

日本三大怨霊の1柱とされる道真公のお話は、いづれ北野天満宮

太宰府天満宮などの御朱印と共にするとしまして、此方では

道真公を祀る神社には何故?牛がいるのかの説明~♪

道真公は白い牛を大切に飼っていたましたが、彼が太宰府に

左遷される事になるとともに牛が行方不明になります。

彼はその牛の安否を心配していましたが、太宰府に送られる

途中に道明寺の門前で刺客たちに暗殺されそうになる。

その時に何処からか現れ、刺客たちを蹴散らして道真公

救ったのが、他ならぬ白い牛だったそうです。

更に道真公の遺言に「自分の墓の事は牛が知っているから

その牛の赴く所に葬る様に」とあったところ、葬儀の牛車は

安楽寺で止まり、道真公はそこへ埋葬されたそうです。

 

日本三大怨霊と言うよりも学問成就の神さまとして、多くの

参拝者に親しまれています永谷天満宮

ご神体の道真像は、菅原文時・藤原道長・上杉金吾らに伝わり、明応2年

(1493年)2月のある夜、相模八ヶ郷領主 上杉刑部太夫・藤原乗国が

悪夢を見たことをきっかけに、天満宮の社殿を造営し、天正10年

(1582年)に宅間規富が社殿を再建している。

創建から500余年、合格祈願や厄除・健康や疫病を鎮めるなどに

ご神徳のある永谷天満宮に足を運んでみては如何でしょうか。

 

御朱印を受けたい場合は、PM4:00までに参拝しないと

社務所が閉まりますので、ご注意下さいませ~。

 

この日は横浜市内の神社を10社ほど参拝しまして、某カー

オーディオのオフ会に、先月と同様にゲストとしてお呼ばれ

されましたので現地へ向かう事に~♪

 

 

 

そして、早めに着き過ぎたお陰で現地での調整もバッチリ(かなぁ?)

当日は視聴させて下さいました皆さま、有難う御座いました♡。

何だかんだと解散したのが深夜3時過ぎ、自宅に5時過ぎに到着して

そこから風呂に入ったりで時計を見れば朝の6時でした…。

 

さて~今回のブログはここまで~♪

まだまだ多くの神社・パワースポットを巡って、カーオーディオ

専門店のブログらしからぬ話題も紹介して行きたいと思いますので

日本の歴史や文化をこよなく愛する国民の皆さまが

幸せになれます様に、切に願う628の店長でした~☆☆☆