ボンゴはあくせく働いた。
小さなもみじ饅頭会社の社員だったボンゴは、一日平均四時間もの残業を苦としないどころか、まだ飽き足らない様子だった。おりしも百年に一度の不況に直面して、会社の売り上げは激減し、社員は続々と辞めていったころである。
かくいう私もその中の一人で、頃合いを見計らっていた。
「ここは天国じゃあ。わしは死ぬまで働くんじゃけえ」
そんな馬鹿な。いくら仕事が好きといっても、仕事に死にたい奴なんかいない。
「労働には対価が必要だろう。現金なお前が今の給料に満足しているとは思えない」
「そっ、そっ、それはべつに何にも…」
一体なんの秘密があるというのか。やけにボンゴは人目を気にするので、場所を移してとっちめる。
「…風俗」
いきなりで驚いた。どうやらボンゴ、パネルで見た『みゆき』なるソープ嬢に岡惚れして、結婚するつもりでいるらしい。
「資金集めじゃ。十二月のボーナスが出たら、その金持って店へ行くんじゃ」
「まさか。『みゆき』なんていったら極上じゃないか。お前なんか相手してもらえるわけがない」
「なんの。たとえ火の中水の中じゃ。ぜったい逃すもんかあ」
ボンゴはこの上なく馬鹿で、そして純粋なやつであった。こいつに借金を踏み倒された人は数多いだろうが、ひとりとして文句は言っていない。すなわち、それだけ人徳があるということだ。やがてこいつはやってのける。私には確信があった。
そして言葉の通り、たった半年でボンゴは百万を貯めたのである。
「やったやった、貯まった貯まった」
その日、ボンゴはとてもウキウキしておった。
「馬鹿者、そう騒ぐな。せっかく私が連れてきてやったのにこれでは台無しだ」
「旦那、ありがとう。旦那と一緒っていうんで、わしゃ嬉しくて嬉しくて」
「いいか、ボンゴよ。百姓上がりのお前は知らぬだろうが、夜の街は昼以上に階級社会である。みゆき嬢なんてのは日本でも指折りだから、なかなか取り合ってももらえんだろう」
やがて店の前に来ると、冷やかしなんかお断り、という風情で呼び込みのおばさんに睨まれる。
「どちらさん?」
「もみじ饅頭会社の社長とその秘書の者です」
「知らないねえ、そんな会社。冷やかしなら帰ってお呉れ」
「うう、そんなぁ…。もう駄目じゃあ」
「馬鹿者。諦めるのはまだ早い」
私は帽子のつばをほんの少し上げた。
「…この顔を見忘れたかな」
しばらくすると、はっという面持ちでおばさん。
「これはこれはご無礼をいたしました。毎度ありがとうございます。サァさ、どうぞこちらへ」
重々しく扉が開かれ、赤いじゅうたんに迎えられる。
「こら驚いた。旦那って何者…」
「ふ、只のしがない配送業者だよ。私はいいから、はやくみゆき嬢に会っておいで」
「うう、でも、今になって足が震えて…」
「馬鹿野郎。今やらねばいつやるのだ。迷わず行くんだ!」
「…う、うう~」
(行けば、わかるさ)
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(あんたみたいな人はじめて…)
みゆき嬢は密かに感心していた。
「…笑っちゃうわよ。それじゃ何もかも私のために」
「そうじゃ、半年で百万じゃ!はっはっはっ…はは」
当然ながらボンゴは夜の女王が一夜に手に入れる額を知らない。さらに、いままでボンゴは一度も女を知らなかった。
「す、すまん。わしゃとてもじゃないが、あんたとどうこうなんて出来ん」
極度の緊張のため、はっきり自分でも何を言っているのか分からなくなってしまった。
「これはわしからの気持ちだから、受け取ってくれ」
「そんな、それは無理よ」
「頼むから…」
百万円の包を残して、たまらずボンゴは部屋を出てしまった。
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「濡髪のみゆきはそれは美人だったろう」
私は尋ねたが返事は帰ってこなかった。ボンゴは口を真一文字にして、今にも滴りそうな涙を精一杯こらえていた。
「ま、そういうときもある。さよならだけの人生だもの」
恥ずかしながら、私にも似た経験があるのだ。苦い思い出だ。今夜ばかりは、一緒に泣いてやろうじゃないか。
「今日は見返り柳も泣いているか…」
振り返った柳越しに、かすかにひとりの女性が手を振っているのが見えた。
いったいこれはどうしたことか。あれはみゆき嬢だ。なんと、みゆき嬢が立っている。大きな大きなカバンを提げて。
「あたし、あんたについていく」
「男はからっきしダメ。どんな男も口ばかりで、ことが終われば紐の切れたタコ。まるっきりまともに見てくれない。」
「だけど、あんたは違う。こんなに心から好きになれたのは、はじめて…」
どうやらボンゴの真心が、みゆき嬢のハートを射止めたようである。
この後、ふたりは夫婦となり、小さな団子屋を開くとたちまち繁盛した。「みゆき団子」という看板商品は街の名物になり、今では知らぬ者はいないほどだ。
今頃ボンゴは幸せにやっているだろう。ラーメンをすすりながら、そんなことを思い出した次第である。