風情のあるクルマが一番だ。
ところで、風情のあるクルマとは何だろう。それは、このうえなく風流で詩情に富み侘び寂びの精神をもったクルマである。つまり、俳句が似合うクルマなのだ。
クルマと俳句。こいつはお互い不可分の関係にある。俳句が詠めないクルマなんて、それはもはや家電なのである。
名月をとってくれろと泣く子かな
小林一茶の句。けなげな幼子がまるでそこに居るかのように、中秋の一場面を切り取った一茶らしい句である。ここはオートザム・キャロルといきたいところだが、キャロルには生活への土着感が薄く、なによりあざとい。市井の生活を感じさせるのは、いまいちデザインがパッとせず、デザイナーが設計要件に悶え苦しんだようなクルマがいい。おめでとう、デミオ(2代目)である。こいつはとにかく、キャンバス・トップがいい。背伸びしたイタリアンがなんとも無念で健気なのだ。
咳をしても一人
尾崎放哉。小豆島でのひとり暮らしは気ままであれど寂しくもある。放哉は結核だった。結核の人の咳はひときわ身体にこだまするというが、そのこだまが放哉に孤独という現実を直視させたのだろう。孤独というとゴミ箱行となった「クサビ(楔)」を思い出すが、アレは虚しいだけだから、ここは「RX-500」としたい。ロータリーの歴史は男の自慰行為のようなもので、ひたすら孤独で意味がない。いくら改良を施そうと構造上の問題はいかんともし難く、燃費は悪いのだが、それでも続けるMAZDAっていったい。本能に忠実としかいいようがない。後年になって評価される点でも放哉とRX-500は似ている。
糞汲が蝶にまぶれて仕廻けり
ウンコに蝶が集うという一茶ならではの美しさを宿す句である。ロータリー×バス「パークウェイ・ロータリー26」も捨てがたいが、ロータリー×俗という相反性をない交ぜにしたコスモ(3代目)に軍配が上がるだろう。
それでは、私から。
今のMAZDAに対する不満がまっすぐ伝わる秀句をひとつ。