Sonia's Travels -4ページ目

ルーヴル探検

外国旅行の楽しみのひとつに美術鑑賞がある。過去に何度かパリを訪れた時にも必ず美術館に足を運び、本物の名画などにふれて感動したものだ。

そんな私が今回注目したのは美術館そのもの──、つまり美術品を収蔵している建物自体の美しさである。特にルーヴル美術館はかつて王宮だったということもあって、その豪華なことといったら! それなのに、今までは建物の巨大さに圧倒されるばかりで細部には関心が及ばなかったのだ。



ルーヴル美術館(外壁)
ルーヴル美術館の外壁


ルーヴル美術館のシュリー翼の3階で、14世紀からの古いフランス絵画を鑑賞していた。宗教画の連続にちょっと飽きてふと窓から外を眺めたら、このような素晴らしい彫刻が目に飛び込んできたのだ。

人の目に触れやすい1階部分を飾るのはわかるが、見る人も少ない最上階にこれだけの美しい彫刻を施すなんて。昔の人々の美に対する追求心には驚くばかりだ。



ルーヴル美術館(天井)
ルーヴル美術館の天井


今度は天井に目をやれば、このような細工が。ここは階段部分だが、柱の繊細な彫刻と優雅なアーチ天井の組み合わせが実に素晴らしい。

収蔵されている美術工芸品ばかりでなく、建物自体が一級の芸術作品であることがわかる。


ところで、ルーヴル美術館はかつて王宮だったと書いたが、800年前に建てられた中世においては、今と違って小さなお城だったそうだ。



 「パリ物語」宝木範義著


 この本によると、当時の城は中央に本丸の高い塔を置き、その周囲を正方形の回廊と

 小塔や門でかこんだ中世式のものであったとのこと。




それを示す一大発見があった。1980年代から行われたルーヴル大改造の工事によって、中世ルーヴルの遺跡が発掘されたのである。



ルーヴル美術館(中世の遺構)
フィリップ2世からシャルル5世時代の城砦跡


かつての塔の基部が残されていたのだ。シュリー翼の半地階で見ることができる。


そして、ルーヴルといえばこれを忘れてはならない。



ルーヴル美術館(逆さピラミッド)
逆さピラミッド


ルーヴル美術館と地下で直結している「カルーゼル・デュ・ルーヴル」というショッピング街にある。昨年、小説や映画で大変話題になった「ダ・ヴィンチ・コード」を観た人ならすぐわかると思う。ストーリーの最後で重要な意味をもつ場所である。その影響なのか、この逆さピラミッドをバックに記念撮影する人がとても多かった。


これから外国を旅行する方々には、一度建物をゆっくりご覧になることを勧めたい。意外な発見があるかもしれない。

サバイバルな半日観光 後編

外はかなり強い雨が降っていた。にもかかわらず、ガイドは手にした雨傘をさして後ろを振り返ることもなくドンドン歩いていってしまう。私たちは折りたたみ傘を持っていたが、広げる暇もない。半分濡れながら、置いていかれまいと彼女の後を必死に追う。ツアー客の中には傘がない人もいて、スタンド形式の売店で傘かレインコートを買おうとしていた。でも、ガイドは全く意に介することもなくエッフェル塔へまっしぐら!

美しい容姿とは裏腹な非情ぶりではないか。

まじめにこのガイドの言うことをきいて、”次の次の”船に乗った人々はどうなるんだろうか? 船を降りてガイドがいなかったら路頭に迷ってしまう。

私にわかるのは、その人たちがこのツアーから振り落とされたということだけ……。


エッフェル塔にたどり着けたツアー客は、私たち親子も含めて20人。シティラマ社を出発した時は40人いたのだ。この時点で半分の人が脱落したことになる。

あまりの展開に呆然としている私たちに、彼女はこんなことを言い渡した。

「今、4時35分ですね。5時45分までは川岸の駐車場でみなさんをお待ちしています」

つまり、このガイドが言っているのは、

「みなさんだけでエッフェル塔に上がり、あとはご自由に。約束の時間までに間に合わなかったら、あとは知りません」

ということのようだ。

1人約7千円も払ったツアーだ。こうなったら意地でも最後まで食らいついていくしかない!

という闘志が俄然わいてきた。

塔に上がるエレベーターを待つ人の数は、幸いなことにそんなに多くない。「楽勝だね」と、高を括ってエレベーターに乗り込んだ。



パリの街並み
エッフェル塔からの眺め


エッフェル塔には、第1展望台(地上57m)、第2展望台(地上115m)、第3展望台(地上274m)がある。

第2展望台で降りて最初に目に飛び込んできたのは、下りエスカレーターを待つ長~い人の列だった。

この日二度目の、エーッ!? だ。

エレベーターは1往復するのに約10分かかる。すでに並んでいる人々を下ろすだけでも、何往復もしなければならないだろう。今すぐ並んでバスの時間にギリギリ間に合うかどうか──。

眺めを楽しむどころではない。トイレをすませ、写真を1枚撮っただけで、直ちに列の最後尾についた。

イライラしながら待つこと40分、やっとエレベーターに乗り込んだ。約束の時間まで残り10分しかない。エレベーターを降りて、駐車場まで猛ダッシュ!

シティラマ社の黄色いバスに飛び込んだのは、発車予定の3分前のことだった。

例のガイドはハンサムな運転手と楽しそうに会話中だった。ハァーハァー肩で息をする私たちに微笑み、

「おかえりなさい。ところで、他の人たちはどうしましたか?」

との質問。

そんなこと知るわけないでしょう!? 自分たちのことだけで精一杯だったんだから。

ぐったりしてバスの2階席に上ると、ご覧のとおり。



シティラマ社のバス


誰もいない……。出発時間に間に合ったのは、私たちだけだったのだ。

それはそうだろう。世界で一番時間に対してシビアな日本人の私たちでさえギリギリだったんだから。失礼だが、他の国の方々には到底無理な話だと思う。

さすがに私たち3人だけを乗せてシティラマ社に帰るわけにはいかなかったのだろう。

「発車の時間を少し遅らせるので、待ってほしい」

と、言われた。

待つこと20分。ようやく2組の年配のカップルが戻ってきた。これで義務を果たしたといわんばかりに、すぐさまバスは発車。

こうして、スリリングなパリ半日観光は終わった。


すごいサバイバルなツアーではないか? 最後まで生き残った(!)のは、わずか7名。

取り残された人々がどうなったのかは、神のみぞ知る?



バス Cityrama (シティラマ社)

4, pl. des Pyramides 1er

(メトロのTuileries駅から徒歩2分)


日本での予約先 (シティラマ代理店)

http://www.h2.dion.ne.jp/~paris-fr/Excursion-dion.html

サバイバルな半日観光 前編

パリに到着したのは朝6時。空は今にも雨が降り出しそうな灰色の雲で覆われていた。

空港からタクシーに乗ってホテルへ。チェックインの時間にはまだ早かったので、トランクだけをフロントに預けて近くのカフェで朝食をとった。

午前中は、ルーヴル美術館で絵画鑑賞。午後は、予め申し込んでおいた市内半日観光ツアーへ。

夫も私もパリは過去に何回か来ているので、今さら観光バスに乗る必要もなかったが、息子のJerryにとっては初めてだ。パリの全体像を把握させる意味もあって、バスツアーに参加した。

いくつかあるツアー会社の中から選んだのは、シティラマ社の「パリ・セノラマ半日観光」


ツアーの内容は、

14時15分にシティラマ社をバスで出発し、車上からパリ市内の南西部分を観光。

その後、バスを降りてセーヌ河クルーズ。

最後に、エッフェル塔に上り、18時頃シティラマ社で解散。


ところが、このツアー。予定表からはうかがい知れない、とんでもないサバイバルなものだったのだ!


鮮やかな黄色い車体の2階建てバスに乗り、さあ出発♪

総勢40人ほどの観光客の中で、日本人は私たち親子だけだった。ガイドは20代前半とおぼしき美しいフランス人女性。フランス語・英語・イタリア語・スペイン語を話す才媛だ。夫に向かって、「英語は話せますか?」と質問してきたので、彼は胸を張って「オフコース!」と答えていた。海外で仕事をしているのでこういう時は頼りになる。

折悪しくも、空からは大粒の雨が落ち始めた。せっかくの市内観光だというのに、濡れたバスの窓からでは景色がよく見えない。



エッフェル塔
エッフェル塔


40分間ほどバスに乗り、エッフェル塔近くの遊覧船乗り場で下車。

さあ、ここからがサバイバルの始まりだ!

こんな天候にもかかわらず、船着場は様々な旅行会社からの観光客でごった返していた。私たち「セノラマツアー」客は胸のあたりに黄色い蛍光色のシールを貼らされた。ツアーの目印である。

乗船口にはすでに長蛇の列ができていて、着いたばかりのバトー・パリジャンは乗客の入れ替え中だった。でも、列の最後尾に並んでいた私たちツアーメンバーは、定員いっぱいになったその船に乗れなかった。

恨めしい気持ちで動き出した船を見送っていると、私たちのツアーガイドが現れた。

次の次の船に乗ってください」

と、4ヶ国語を駆使してツアーメンバー一人一人に告げて回っている。

なぜ、”次の次”なんだろうか? 今の立ち位置からすれば、”次”の船には楽勝で乗れるのに。質問したくても、ガイドの姿は人ごみにまぎれて見えない。

屋根はあるものの、冷たい風が吹きすさぶ屋外の乗船所に立ち続けること約40分。我慢も限界である。次の船が到着して列が動き出した時、

「寒くてもうこれ以上は立っていられない」

と、私たち親子は指示に従わずに乗り込んでしまった。



バトー・パリジャン
バトー・パリジャンの座席


船内の座席には全部赤いカバーがかかっている。よく見ると、救命胴衣であることがわかる。

そして、椅子の肘掛部分のシルバーの物体は、電話の受話器のような形をしたイヤホーンだ。手で引っ張り出して使う。イヤホーンには数字が書かれたボタンがいくつかあって、いろいろな言語に対応している(例えば、1番は英語、2番はロシア語など)。これを通して観光案内のナレーションを聞く仕組みになっている。



オルセー美術館
オルセー美術館


歴史的建造物を船から眺めるのは初めてのことだ。私たちは右側に座ってしまったが、美しいシテ島を眺めるには左側の座席がいいようだ。

1時間かけてセーヌ河を遊覧し、もとの船着場にもどってきた。

下船して、さてどうしようかと思っていると、あらっ? あの美人ガイドがニコニコ顔で立っているではないか。指示に従わなかった私たちのことを咎めるどころか、

「船はどうでしたか?」

なんて気さくに話しかけてくる。やはり同じ船に乗り込んでいたツアー客が何人かいて、私たちと合流した。

すると、ガイドは人数をろくに確認することもなく、

「それではエッフェル塔に向かいます」

と宣言したのだ!


エーッ!!!???

素敵なインテリアのホテル

今年の6月に家族3人でパリへ旅行した。私にとっては5度目のパリだが、息子にとっては初めて。

全くヨーロッパの地理や歴史について関心がない息子に、私は「ベルサイユのばら」を渡した。漫画だったら読んでくれるんじゃないかという期待からだ。キラキラした少女マンガの表紙を目にして、

「エーッ!?」と言っていたJerry。でも、2日で読みきったところをみると、満更でもなさそうだった。

しっかりフランス革命の知識を頭に入れた(?)息子を引き連れ、いざ、パリへ♪


今回はパリに9泊する予定だったので、事前にインターネット等でいろいろなホテルを調べた。パリ市内には、宮殿のような超豪華ホテルもあれば、以前私も泊まったことがあるキッチン付きのアパルトマン形式など、規模も金額も様々なタイプの宿泊施設がある。子ども連れということもあり、観光に便利な立地条件を最優先。さらに、ある程度のラグジュアリー感があるホテルをピックアップ。その結果、ルーブル美術館から歩いて5分程の所にあるこのホテルに決定した。



The Westin Paris
The Westin Paris (ウェスティン・パリ)


このホテル、以前はインターコンチネンタルという名前だったが、数年前にウェスティンに変わった。ガイドブックによってはまだ古い名前のまま記載されているので、注意が必要だ。



The Westin Paris


The Westin Paris


クラッシックな佇まいながら、家具や建具の色がオフホワイトなのでエレガントな雰囲気だ。


ウェスティンといえば、ヘヴンリーベッドで有名だ。とっても寝心地がいい。Jerryはエキストラベッドで寝たのだが、

「エキストラとは思えないよ。すごいよ、このベッド!」

と、絶賛していた。



The Westin Paris


バスルーム。いつに日にか我が家の洗面所もこんな風に改装できれば……。


このホテル、観光にもショッピングにもとっても便利なのだが、食事代がめちゃくちゃ高いのが難点である。朝のビュッフェは日本食も出るそうだ。でも、一人約4千円(ユーロ高のせいもあり)という値段に恐れをなして入らずじまいだった。



ホテル The Westin Paris

3, rue de Castiglione 1er

(メトロのTuileries駅から徒歩3分)

二度目のパリ(OL時代) Ch.3

パリの思い出として失敗談ばかり書いてきたが、もちろん楽しいことや嬉しいこともたくさんあった。

そのひとつは、ある有名ブティックの店員に服装を褒められたことである。そのブティックとはあのLouis Vuitton(ルイ・ヴィトン)だ。

実はそれまでヴィトン製品はひとつも持っていなかった。人真似が嫌ということもあったが、ブランド名の頭文字をデザイン化した「モノグラム」模様に対して、特に魅力を感じていなかった。ところが、たまたま目にした雑誌で、発売されて間もないモノトーンの「エピ」の存在を知った。この商品は麦の穂をイメージして皮を加工しているということで、それまで見たこともないモダンでシンプルなデザインだった。

せっかくパリまで行くなら、ヴィトンで買い物でもしてみようかしら?

すっかりその気になった私であった──。


その日は朝からあいにくの天気で、今にも雪に変わりそうな冷たい雨が降っていた。

「パリのヴィトンの店員は日本人に対して冷たい」

という噂を聞いていたので、まさにそのことを象徴しているかのような空模様だ。よっぽど行くのをやめようかと思ったが、せっかくパリまで来て行かなかったら後悔する! と、自分に発破をかけた。

出かけるにあたって、服装を念入りにチェックした。日本人はとかく若く見られて侮られやすい。そこで、自分のお給料で買える範囲の中で、なるべく上質かつシックな服を選んで持ってきていた。色としては黒とベージュの組み合わせだ。

妹といっしょに胸を高鳴らせてタクシーに乗り、高級ブティックが軒を連ねるモンテーニュ大通りへ。

”日本人は黙って入ってきて、黙って商品を触りまくり、黙って店を出ていく”

日本人観光客に対する批判の記事を何かで読んでいたので、ドアを開けてくれたハンサムな男性店員に、

「ボンジュール!」と、微笑みながら声をかけた。すると、向こうも眩しい笑顔を返してくれた。これは幸先が良いではないか。

雨天のせいか店内は思いのほか客の姿が少なく、ゆったりとした気分で商品を見ることができた。声をかけてきた女性店員に相談しながら、黒のショルダーバッグを購入することにした。その店員もとても感じがよく、私の服装にチラッと視線を向けると、

「あなたの装いは素敵ですね。トータルコーディネートされています。そしてあなたにとても似合っている」

と、ニッコリしながら言うのだ。

フランスで、しかも天下のヴィトンでだ。まさかこのように褒められるなんて思ってもみなかった。

この出来事は、私にとって今でも忘れられない良い思い出である。

二度目のパリ(OL時代) Ch.2

今回の旅は妹がいっしょだった。彼女にとっては初めてのパリだ。

前回の教訓を踏まえてパリへの出発前に2人でやったのは、フランス語を覚えること。とはいっても、あれもこれもは無理だ。妹も私もフランス語の素養がないのだから。これだけは知っておいた方がいい、と思えるものをいくつか厳選した。


Bonjour(ボンジュール) こんにちは

Merci(メルスィ)      ありがとう

などの必須単語はもちろんのこと。それ以外にも様々なシチュエーションごとに覚えた。


まずはどのシーンでも切実なこちら。

Ou sont les toilettes?(ウ・ソン・レ・トワレット?) トイレはどこですか?


レストランでは、

C'est tres bon.(セ・トレ・ボン) とてもおいしいです。

L'addition, s'il vous plait.(ラディスィオン・スィルヴプレ) 会計をしてください。


帰りが遅くなった時は、

Appelez un taxi, s'il vous plait.(アプレ・アン・タクスィ・スィルヴプレ) タクシーを呼んでください。

などなど。



+   +   +



旅の目的のひとつに、美味しい料理を食べることが挙げられる。このパリ行きでは特にその気持ちが強かった。前回お粗末な物しか口にできなかったので、

「今度こそ本物のフランス料理を食べてみたい!」

という一途な思いがあった。

そこで、日本で予めガイドブックを調べて2つのレストランを予約しておいた。

そのひとつが、エッフェル塔の展望台にある「Jules Verne(ジュール・ヴェルヌ)」。当時は確かミシュランの1つ星がついていて、パリの景色を眺めながら美味しい料理を味わえるということだった。いきなりのディナーでは緊張するので、ランチを予約した。ドレスアップした私たちはエッフェル塔までタクシーで行き、レストラン専用のエレベーターに乗って、いざ、フレンチレストラン・デビュー♪


セーヌ河を見下ろす窓際の席に案内されて、まずは食前酒をオーダーした。キール・ロワイヤルの弾ける泡の感触を楽しみながら、次は料理の選択だ。

ここで、問題発生。

渡されたランチ・コースのメニューの中から前菜・メイン・デザートを選ぶのだが、すべてフランス語で書かれているので全く読めない。英語のメニューがあるかどうかを尋ねるとか、あるいは英語で説明してほしいとか、今だったら何らかのリクエストをするだろう。でも、当時はそんな知恵もなかった。穴が開くほどメニューを眺めても料理のイメージが湧いてくるはずもなく、仕方なく適当に料理の名前を指差しながら注文した。

後は料理が出てくるのを待つだけ、とホッとしたのもつかの間、再びソムリエが登場。ワインの注文を忘れていた。何の料理を頼んだのかもわかっていないのだから、赤がいいのか白がいいのか判断がつくわけもない。適当に値段が安めのを選んだ。

ここまでのやり取りで、すでに疲労困憊だ。

「美味しい物を外国で食べるのはほんと大変」

などと思いながらボ~と窓の外を眺めていると、妹がしきりに私の方に手をヒラヒラさせているのに気がついた。振り向くと、とっくに立ち去ったとばかり思っていたソムリエが、困ったような顔をして傍らに控えているではないか。そして、しきりに「ワラ」という言葉を繰り返すのである。

「ワラ」ってまさか、藁のこと?

そんな馬鹿なことがあるはずもない。でも、いくら考えても何のことだか見当もつかない。

「料理とワインを注文したのだから、もう用はないでしょう!」

と、叫びたい気持ちだった。

その時、妹が「わかった!」と満面の笑みを浮かべた。これを読んでくださっている方も、もうおわかりかもしれない。

そう、ワラとは、waterのことだったのである。

「お水はどうしますか?」

これをソムリエが一生懸命訊いていたのだ。黙っていてもお水がタダで出てくるのは日本くらいだということを、すっかり忘れていた。


残念ながら、せっかくフランス語のフレーズを暗記したのに、このレストランではほとんど役に立たなかった。英語のwaterも聞き取れなかったのだから……。

二度目のパリ(OL時代) Ch.1

大学を卒業し、無事に某企業に就職した私。社会人になったことで世間の水に洗われて、少しずつだが垢抜け始めたように思う。「25ans」という女性誌を毎月隅々まで読みふけり、ファッション・海外情報・芸術などに関心をもつようになった。

そうなると思い出すのが、学生時代にパリで味わった感動と屈辱感。

「もう、何も知らない間抜けな私ではないわ。また行くことができたら、今度こそエンジョイできるのに」

とはいっても、毎日の仕事に追われてなかなかまとまった休みが取れない。チャンスを待つこと4年間。やっとパリへ行ける日が訪れた



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今度の旅はパリ一都市のみの滞在である。往復の航空券とホテルだけが確約されている、自由度の高いツアーに申し込んだ。そして、事前にパリの情報をできるだけ集めた。お洒落なレストランの予約は言うに及ばず、細かな日程表まで作り上げた。

この頃には北回りの航空路が開通していたので、ルフトハンザ航空のフランクフルト経由の便で成田とパリを往復した。


晩秋のパリは、それは趣きがあって素敵だった。冷たい雨が降ったりやんだりのあいにくの天気だったが、落ち葉が敷き詰められた石畳の街路を歩いているだけで、自然とロマンチックな気分になった。

心配していた治安の問題も、今回はいっさいなかった。行ってみてわかったのだが、ヨーロッパ・サミット(西欧国家のみが参加する会議)がパリで開催中で、要人が大集結していたのだ。アメリカ大統領も来ていた。市内のいたる所にライフルを抱えた警官やら兵士やらが立っていたため、怪しい人影などチラッとも見ずにすんだのだ。


それなのに、旅にはハプニングが付き物らしい。

パリに暮らしているような気分を味わいたかったので、バスティーユ広場に程近い、キッチン付きのアパルトマン形式のホテルを選んでいた。

深夜、ホテルに到着。こじんまりとしたレセプションでチェックインを済ませてから、重たいトランクを自分自身で引きずって部屋の前へ。飛行機の中では全く眠らなかったので、疲れきっていた。カード・キーを差し込み、開錠のランプを確認してドアを開け──。


えっ!?


人が中にいる気配がするではないか! チラッと見えるベッドの上にはジャケットが置かれ、壁に据え付けられたTVからはフランス語のニュースが流れている。

慌ててドアを閉め、部屋番号を確認。渡されたカード・キーに記載された番号と同じだ。全くわけがわからない。またもや重い荷物を引きずってレセプションに戻った。事情をなんとか伝えると、係りの男性は手元の帳面をちょっと調べ、

「間違えた鍵を渡してしまいました。あなたのはこれです」

と、あっさりと他のカード・キーを寄こすではないか。

ひと言の謝罪もなかった。

その晩、ドアの前に部屋中の家具を移動し、他人が容易には入ってこれないようにしてから休んだのは言うまでもない。

初めてのパリ(学生時代) Ch.3

ルーヴル美術館、ノートルダム寺院、モンマルトルの丘、凱旋門。この4つの場所にはツアーで連れていってもらった。でも、それ以外の所へは、フリータイムを利用して自力で行かなければならなかった。当時としては格安の学生限定ツアー。仕方がない。

そこで、どこへ行くかを友人と相談した。その頃の私たちといえば、ブランドのこともよく知らない冴えない学生だった。とはいっても、せっかくパリまで来て、やっぱり気になるのはファッションのこと。一流ブティックが軒を連ねるフォブール・サン・トノレ通りへ繰り出すことにした。


たどり着いてみると、そこは別世界だった。ひとつひとつの店舗の間口はさほど広くないものの、よそ者を寄せ付けないような重厚感、気品、プライドなどのオーラで、通り全体が被われているのをひしひしと感じた。

エルメス、グッチ、サン・ローラン……、名前だけは知っていた一流メゾンの前を”うろついた”。本当に通りを歩いただけ! すっかり気圧されてしまった私たち。お店の中に入る勇気がなかったのだ。

「ここは自分たちの来る所ではない」

お互いに口にはしなかったが、思いは同じだっただろう。


肩を落としてとぼとぼと歩く2人のうら若き乙女。当然、悪い輩の目に留まる。気がつくと、私たちの後を大柄な黒人男性が付けてきているではないか! 私たちが立ち止まると、男も10mほど離れた所で歩みを止める。歩き出すと、向こうも歩く……。

必死になって警官の姿を目で探したが、こういう時に限って影も形も見当たらない。そして、男は次第に間隔を詰めてくる。もうパニック状態だった。

大きな交差点に来ると、信号が赤だった。

「早く渡らないと、追いつかれる!」

青になったと同時に駆け足で横断した。ところが、ふと横を見ると友人の姿がない。慌てて周りを見回すと、なんと彼女は道路を渡らずに、1mの距離まで迫っていた大男のことを下から睨み上げている! あまりの展開に、私の体は硬直してしまった。彼女を助けなければならない、でも怖くて近寄れない……。

大男と友人は互いに沈黙のまま、睨み合っている。たぶん、1分以上は続いただろうか。やがて根負けした男がゆっくりとその場を立ち去っていった。

不適な笑みを浮かべながら、彼女が私の方へ歩み寄ってきた。

「思いっきりガンを飛ばしたら、逃げていったわ」

勝ち誇ったように言う友人。

一方、私はといえばまだ体の震えが止まらずに、ひたすら彼女を賞賛の眼差しで見つめるばかり。もし、私一人だけだったらどうなっていただろう。

その友人とは、大学を卒業した後もずっとお付き合いが続いている。一生の友である。

初めてのパリ(学生時代) Ch.2

このツアーには大学のクラスメートと2人で参加した。彼女にとっても初めての海外旅行。フリータイムにいっしょにパリを彷徨ったことを思い出す。

パリに着いて2日目に、日本の家族へ絵葉書を書き、郵便局へ持っていくことにした。ところが、郵便局のすぐ近くまで来ているはずなのにどうしても建物が見つからない。パリは似たような建物ばかりだし、看板等もほとんど目立たないつくりになっている。何度地図を確認してもたどり着けない。通りかかる人に尋ねようとしても、ねずみ色のコートを着た垢抜けない東洋人の女の子たちには見向きもしてくれなかった。

「フランス人って冷たいね」

ボソッとつぶやく友人。私も情けなくて涙が出そうだった……。


そこへ、救世主が登場!

小柄なフランス人の老夫婦が歩いてきたと思ったら、私たちの前でピタッと足を止め、厳しい眼差しで見つめるのだ。

何か叱られるようなことをしたかしら?

と、私たちはおっかなびっくり。

すると、そのおじいさんが怒ったような口調で英語で話しかけてきた。

「道に迷ったのかね?」

そんなような意味の言葉だったと思う。

郵便局へ行きたいのにどこにあるのかわからないことを伝えると、相変わらず怖い顔をしながら、でも身振り手振りを交えて詳しく教えてくれた。なんとか理解して「メルシー」と言うと、初めておじいさんの顔に微笑みが浮かんだ。厳しい顔から優しい笑顔への突然の変化にビックリ!

実際、教えてもらったとおりに歩いていくと、ちゃんと郵便局があった。

おそらく、あの時の私たちは不安いっぱいの様子をありありと浮かべていて、それをあのご夫婦が心配してくれたんだと思う。怖い人に見えただけで、根はとても思いやりのある親切な人だったに違いない。

あのおじいさんの存在が、私のパリ好きの原点である。

初めてのパリ(学生時代) Ch.1

多くの人が旅をするが、みなそれぞれに印象深い街や景色があることだろう。

私の場合は、断然パリ。今までに5回訪れたことがある。最近ではつい先日行ってきたばかりだ。

頻繁にパリ旅行をしたり、住んでいる人からすれば、

「たったそれだけで、パリについて語ってほしくない」

と思われるかもしれない。でも、回数は少なくても私なりに楽しい旅だったし、ハプニングなんかもあってとても思い出深い。それに、私にとっては初めて訪れた外国の街──。


最新のパリについて書く前に、数回にわたって記憶の中のパリをたどってみたい。



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大学生の春休みに、生まれて初めて海外旅行をした。学生対象の21日間ヨーロッパツアーに参加。フランス・スペイン・イタリア・オーストリア・ドイツ・イギリスの6カ国を回った。

当時は北回りの航空路がなくて、ヨーロッパへはアンカレッジを経由するのが一般的だった。英国航空の客室乗務員はみな外国人で、お水1杯頼むのも緊張したことを覚えている。

春とはいってもこの年は世界的に気温が低くて、出発地の成田も到着地のパリも雪が降っていた。


今から思えば貧乏旅行。

小さなトランクひとつに衣類を詰め込んだものの、写真を見るとほとんど同じ服を着ている。寒くてコートを脱げなかったせいもあるが。

でも、あの時味わった感動は一生忘れられない。その後もっとリッチな旅もしたが、最初のような身震いするほどの気持ちはなぜかわいてこない。


とはいっても、楽しいことばかりではなかった。

当時の私は英語は読めても話せず、ましてやフランス語なんて全くわからなかった。フリータイムをいかにやり過ごせばいいのか、本当に困った記憶がある。

最初の晩は、ツアーで知り合った4人組で、シャンゼリゼ大通りのいかにもツーリスト向けのレストランに入った。一番無難な料理を注文。ハンバーグだ。ところが、これがとても不味くて半分も食べられなかった。他の人たちも仕方なく口にしている感じだった。

もし泊まっていたホテルの朝食もこんなだったら、お腹を空かせてパリの街中で倒れていたに違いない。幸いにも美味しいクロワッサンやフルーツ、それに温かいカフェオレのおかげで、なんとか耐え忍ぶことができた。今ではパリにもマクドナルドがあるが、あの頃はなかった。あればどれだけ助かったことだろう。