前回、ブログで紹介した、がんと闘うな!の本を書いている医師についてのコメントの追加である。
 
彼の最近の著書が紹介されていた。新聞には、その本に書かれている内容を紹介する書籍広告があった。
広告の文章は、そのままではないが、だいたいの意味合いは、「やみくもな治療で、がん死が早まる?・・」であった。文章の最後には、?が付いていた。
 
この文章には、?をつける必要は無い。
やみくもなという形容詞がついているかぎり、どのような治療も行きすぎていることを意味している。
やみくもな治療は、してはいけない治療である。
やみくもな治療の後には、どんな言葉でも持ってこれる。
 
やみくもな治療で、死期を早めた。
やみくもな治療で、副作用で苦しめられた。
やみくもな治療で、他の病気が起きていしまった。
やみくもな治療で、起きた合併症で死んだ。
 
それまで医学的常識であったことが、間違いであると主張すれば、人の興味を引くものだ。それが、本を売ろうとするコツだろう。
 
現に、この著者は、そうした類の書籍を多数、書いている。
どのように書けば、本が売れるかについて、良くわかっているのだろう。
彼は、医師として、実際に、がん患者とかかわっているだろうし、薬や放射線治療効果のあるがんについても、専門的な知識を持っている。
 
その彼が、「がんは治療をしてはいけない!」と断定的に言うので、本が売れているのだ。
 
彼が、“がんは、正しい知識に基づいた治療を受けるべきである!”と、本を書いても、誰も、買わず、本は売れない。
この言葉を、書籍の広告に使っても、誰も注目しない。
 
このやみくもなと言う形容詞は、それと同様で、その後の文章を意味の無いものにする。
誰でも、「やみくもな治療はいけないでしょう」と、考えている。
つまり、やみくもな治療がダメ!というのは、当り前すぎて、本を売るための広告には、ふさわしくないのではないか?
 
予後の悪いがんは、薬を使えば、死期が早まる人がいる。しかし、2年生存率10%というようながんの場合、ほとんどの人は、1年以内に死ぬ。
抗ガン剤を使わない方が良かった患者さんが中心と言えるかもしれない。
しかし、1年以内に死ぬ人は、100%ではない。
同じタイプのがんでも、薬に感受性の良い患者さんが必ずいて、医師も驚く治療効果を上げる人もいる。
 
実際の、私の周りでもそうした男性がいた。彼の肺がんの話を聞くと、とても興味深い。
彼の話によると、医者は、抗がん剤の治療に躊躇したと言う。
しかし、彼は、ぜひ、治療を受けたい!と懇願したそうだ。
彼は、その強い治療効果が奏功して、今も元気でいる。
 
同じタイプのがんであっても、1人1人がかかえるがん細胞の性質が異なるため、薬への感受性に差がでる。
その人も持つがん免疫の能力や、全般的な体力も、人それぞれだ。
 
病気の治療効果とは、確率論で論じられる。1年経つと、何人の生存し、2年、5年と、生存する人が減っていく。しかし、一般の人が、がんと言われた時に、複雑な確率論を理解するのは難しい。
 
がんの性状についても、医師が知りえるのはごく一部の情報であろう。
薬の影響を受けて、がん細胞は変化する。がんが、転移先で安定増殖できるかも鍵となる。がんを抱えるのは人である限り、免疫機能はもちろんの事、他の臓器への影響が出る。
 
患者の体力も変化し、その人のがんは、その人特有のがんの道筋をたどるし、その人特有の病気の形として現れ、症状となる。
 
抗がん剤は毒薬であると、センセイショナルに単純化するのは、本を売るための手段となる。
しかし、今回、やみくもな!という言葉を使ってしまえば、本を売るためのインパクトには欠ける。
 
実際、難しいのは、何がやみくもで、何がやみくもでないか?という判断が、誰にもできないことである。
やみくもな治療というものは、何がやみくもなのかの実態が無い。
 
治療効果の予想を出すのは難しく、それがわからないから、医者も患者も苦労しているのだ。
 
病気や治療に関しては、正しい判断、正しい選択、正しい使い方、適切な治療 とか、そうした言葉自体が実態を持たないものである。
 
人は、顔、声、性格、能力など一目瞭然に異なる。体は、ひとつとして、他人と同じものを持っているわけで無いのだ。
 
小学校の校庭では、子どもたちが体育の授業を受けていた。校庭には、ゴムで作られたバーが張られていて、そのバーを飛び越える、体育の跳躍の授業である。パーの向う側には厚いマットレスが置いてある。
 
先生の指導の後、小学生の男女が、次々とバーを飛び越えようとする。その様を見ていると、人の能力と志向(性格)は、実にさまざまであるなあ・・・と、しみじみ感じる。
 
勢いよく走ってきて、そのまま難なく飛べてしまう子ども、走りは良いが、バーの直前で足踏みしてしまう子ども、テレビスポーツ番組の見過ぎなのか、一流選手の跳躍のように、体を倒して腹這いでバーを越えようとする子供、
足を上げるタイミングが遅れて足をゴムにかけてしまう子ども、
せっかく飛べても最後に足がぬけずにゴムが引っ掛けてしまう子ども、
走ってくる姿からしてぎごちなく、とても飛べそうもない子ども、などなど。
 
子供たちは、皆、まじめにバーを越えようとする気持ちは一緒だが、その子のもつ運動能力やら、勇気やら、チャレンジ精神やらが、実に多様なのである。こうしたゴム飛びのやり方を見ていると、性格やら、能力やら、1人1人が持つ個人差の大きさが、残酷にも思えてくる。
 
当たり前なことではあるが、能力の個人差というのは、誰もが自覚している。
今さら、とりたてて論じるものでもないが、人の能力の違いは、悲しくも、むなしくも現実にあり、結局は残酷なものであると思ってしまう。
それは、個人差というのが、全く同様に、病気にたいしてもあてはまるからである。
がんの発生を抑える能力、がんの転移を抑える能力、抗がん剤に対する感受性と、副作用の出方の個人差は大きい。
 
同じ診断名の病気であっても、病気になる人が人間である限り、その人が病気に対して、どのように対処するかが、実にさまざまであるのだ。
病気を得た人の、心の取り組み方と、その人の持つ免疫力の違いは、それぞれに実に違っている。
 
免疫の多様性は、他の人が病気に負けても、誰かが生き残るためのしくみである。
 
がんと闘うな!と本があるが、病気の個人差の前では、がんと闘うな!と、ひとくくりに論じることは許されないと思う。病気の解説は、著者の都合に合わせて書いてしまうことができる。しかし、断定的な言い方は、それが専門家の間であれば許されることであっても、理解が不十分な一般人が読めば、言葉が独り歩きをしていまう。
 
ある一般の男性が、御自身のがんの闘病記のブログを、ネットに書きこんでいた。
腹部にがんを抱えたこの男性は、手術は受けて、がん切除をした。しかし、この男性は、がんと闘うな!の本の主張に共感していた。本には、「抗がん剤は、毒薬である」と書かれてあったことから、主治医からがんの治療薬を勧められても、拒否したとブログに書いていた。
 
しかし、術後、しばらくして、腹部症状が出てしまい、近所の医者にかかったところ、腹水がたまり腹膜炎であると診断された。その時、この男性は、「腹膜炎か!それなら、すぐ治るだろう。」と考えたと、ブログに書きこんでいる。
近所の医者から、手術した病院に戻るよう言われ、入院を勧められたが、手術した病院の医師は、がん性腹膜炎との診断で治療困難と言われ、鎮痛剤しか処方されなかったようである。
 
がんの手術の後に、腹水がたまることは、即、がんの再発を考えるべきと思うが、この男性には、そうした理解はなかったようである。医者の説明はあったかもしれないが、男性は、がんのしくみを理解はできなかったようである。
 
実際、この男性が、抗がん剤をうけていたら、どうなったかはわからないが、がんと闘うな!の本を読んだことが、この男性に、主治医の言葉を受け入れない状況をつくってしまった。
 
「抗がん剤は、毒薬であるから、抗がん剤療法を受けないこと!」は、センセイショナルな言葉で、一般人に、誤解を生じやすい。
がんの治療には、抗がん剤だけとりだして論じることができない。
 
手術が必要なのはなぜなのか?手術をして、得られたがん組織を調べた結果はどうであったのか?手術時の転移の状況はどうなのか?については、このブログは、一言もふれていない。
 
がんと闘うな!と本を書いた医師は、いくつかの抗がん剤が有効ながんの名前をあげていて、その他のがんについては、抗がん剤の治療効果が低いこと、予後の悪さを論じている。手術により体力の消耗、術後のがんの免疫の低下、など、著者の医師は、医学的な問題を論じながら、がんと闘うな!論を、展開している。
 
しかし、この本の言わんとしている事を理解するためには、読者自身が、もっと、もっと、がん一般論について、知っていることが前提である。一般人は、「抗がん剤は、毒薬である」などの、センセイショナルな言い方にふりまわされてしまうのだ。基本的なことで、がんのしくみを理解し、生体の反応について、主治医と話会わないといけない状態であったと思う。
 
そして、患者は、何を理解していないのか?について、主治医は探らなければいけないし、患者自身も、理解できていないことを主治医に伝えなければいけないと思う。しかし、理解できていないことに気づくことは、難しいことであるのだと思う。見えないものは、他人から気づかせてもらわない限り、見えないのである。
 
安全な抗ガン剤などは、あり得ないが、抗がん剤のために早く死んでしまってはならないようにと、医者は考える。この男性の主治医は、熱心に抗ガン剤を勧めたと言う。しかし、男性のがんへの理解を深めさせてあげることができなかったようだ。
 
先ほどの、跳躍にチャレンジする子供たちと同じように、人の能力は、さまざまで、どの人として同じではない。
 
各人のがんへの反応が、同じでないということは、将来、その人のがんの進行についての医師の判断には、限界があると言うことだ。
 
そのあいまいさへの理解が、実は、病気の理解には、一番大事なのである。断定的な言葉は、人の病気ではあてはまらないのである。
 
けなすレビューの文章を読むと、人生を学べるヒントがみつかる。
と、前回のブログに書いたが、同様に、以下のように言える。
 
威張る人の追い詰められた心境を想像すると、興味深い。
威張る人の行動をみていると、人生を学べるヒントがみつかる。
 
威張るという行動についても、少し考えてみたい。
 
買い物をする時、銀行などで、今の店員は、何度も「すみません」「ありがとう」を連発する。
最近は、コンビニでの土下座事件なども起きている。昨今の風潮として、店員がお客に対して過剰にへりくだり、その弊害が出ていると言える。
 
1回に払う金額が、そこそこ高くなる日用的買い物の代表は、ガソリンかもしれない。ガソリンを入れる時は、1万円が必要になる。
 
もはや、都会の多くのガソリンスタンドは、大手のセルフチェーン店に変わってしまったが、郊外の街道筋に行けば、まだ、人がにこやかにガソリンを入れてくれるスタンドがある。こうした店では、多くが個人経営の店だ。
 
私が、普段は行かない街道筋にある、通りすがりのガソリンスタンドでガソリンを入れたら、そこのおばちゃんは、こんなことを言った。
 
おばちゃん曰く、「消費税は本当に困るわ!社会の格差が、すごく進んでいるのが、肌で感じるわよ。
都会のお金の無い人は、車は持たない時代だけど、田舎は、車がないとどうにもらならないから、お金が無くても、車は持っている。だけど、こういう人はガソリンが買えない。こういう人は、ガソリンを買う時に、すごくいばるの!
この間も、お客が「ガソリン500入れてくれ!」と言うので、「えっ、500Lですか?」って聞いてしまったの。
そしたら、バカヤロー!この車にそんなに入るか!ってどなられたのよ。500円だったら、2-3L しか、はいらないじゃない!」
 
この話を聞いて、私は、「500円分って、入られるの?」と聞いた。
ガソリンスタンドのおばさんは、「今の機械は入れられるんです。」
 
私は、「500円分で入れるのは難しいんですとか、言えないの?と返したら、
ガソリンスタンドのおばさんは、「普通に払える人は、最初からそんな言い方はしません」
 
確かにそうか?私は自分自身が甘いなと思った。おばさん曰く、今は、田舎のスタンドでも、ガソリンを入れれば、やれポイントだとか、カード決済だとかの設備投資も大変なのだと言う。
固定資産税、電気代、水道代など維持費がかさみ、ガソリンスタンドの経営はとても苦しいと言う。
 
そして、おばさんは、うちもくるしいけど、客もお金を持っていない事を肌で感じると、嘆いていた。
 
おばさんは私に言った。ガソリンスタンド経営を止めて、給油設備を取り壊すにも、大変なお金がかかる。親の代から、続いてきた設備を取り壊すのは、とてもつらいが、周りの仲間の個人商店のガソリンスタンドは、店を閉めて行くと言う。
 
おばさんは、お客にいばられて、辟易しているのだが、おばさんは、お客の生活の質も見通している。威張る人は、窮地にいることがばれているのである。
 
お金に困っているお客は、満タンでたのむよ!と言えないことがつらくて、逆にいばってしまうのか?つまり、ガソリン500円という買い方をすることがせつなくて、逆にいばってしまうのか?
 
それとも、日頃の切り詰めた生活に対する憤りから、せめてお金を払う時は、いばりたくなるのか?
 
威張ることは、威張った人自身も返り血を浴びることなのだと思う。
 
返り血とは、その人自身の評価を下げることであるが、まさに、いばって買い物をするということは、お金を払いながら、自らを低くしてしまっているのだなあ・・・。
 
 
映画なり、文学なり、誰かが作った作品のレビューを書きたいと思う人は、書き手がプロもアマであっても、自らの感想を、他人に知ってほしいと思う気持ちになっている。
 
しかし、プロの評論家の論評と、アマの論評の違いは、感想文を読む人を、教育しようとするか、教育しようとはしないという点ではないだろうか。プロは、自らの専門知識を駆使して、見どころを解説し、作品の評価を他人に伝えようとする。
 
プロの評論家が、作品に価値がないと思えば、その結果、その作品をけなすことになる。プロは、解説文を書く必要があるのだが、つまらない解説にならないよう、気を使うだろう。プロの評論家にとって、けなす文章を書くには、覚悟が必要である。
 
アマも解説はするが、教育のためという上から目線はないはずだ。アマの書くレビューの方が、めちゃ、けなすものが書ける。けなすと言う事は、プロと同様に、返り血を浴びることもある。返り血とは、書き手の評価をさげることである。
 
けなすという行為は、その人にとっても、リスクのあることなのだと思う。しかし、共感する相手をさがしたいというポジティブな目的はある。本当につまらないと思うなら、書くのもばかばかしいとなるかもしれない。けなすという行為は、複雑な感情が混ざっているだろう。書き手の自己主張を感じる。
 
日常生活でも、誰もが、多かれ少なかれ、他人からけなされる経験をもつ。
けなされれば、誰でも、落ち込む。
自らの無能やミスを自覚させられると、なおさらつらい。
しかし、けなしてくる相手の弱さやコンプレックスを見つけたりすると、けなされた側の人の落ち込みは軽くなる。
けなされて落ち込む時、相手の状況を思い計ることは、ダメ―ジを少なくする工夫でもあるだろう。
 
けなすための文章を必死で作っている人の心境を想像すると、興味深い。
つまり、けなすレビューの文章を読むと、人生を学べるヒントがみつかる。
 
他人の考えの問題点や、書き手の嫌悪の中身が良く見えてくるからである。嫌悪の中身が、時に理不尽であったり、方向違いと感じることがある。つまり、他人との意見の違いの溝の深さを知ることができる。他人とうまくやれない時の、参考になるだろう。
 
たとえば、思い出のマーニーのレビューを読んでいると、けなすレビューは少なくない。ジブリなど、もう解散してしまえば良いなどとの書きこみもある。
 
アンナが、他のお友達とは親しくなれず、マーニーとだけ心をかわすのは、アンナの性格が悪いからという書きこみもある。マーニーは、お金持ちのお嬢さんで、美しい。そんな人にだけしか、興味を持たないのは、アンナの性格が悪いからと書きこむ人もいる。
 
金持ちで美しい人に対する書き手のジェラシーを暴露しているのだが、書きこんだ本人は、作品をまじめにレビューしているのである。
 
確かに、美しく金持ちの人は、冷たいし、愛をつくしても感謝もしないかもしれない。しかし、それは、アンナが今後に学ぶことであろう。
 
アンナが成長していく過程で、美しく金持ちの人の問題点にアンナは辟易して、そうした連中を大嫌いになるのかもしれないが、今はまだ、そういう状況ではない。
少女が美しいもの、豊かなものに憧れるのは当然であるし、マーニーへの憧れは、素直な感情である。
 
人は誰でも、特に子どもは、満たされることが心の成長に、とても大事だ。
幸せを感じる人は、いろいろと周りにもやさしくなれるだろう。
アンナは、誰にも気兼ねなく、自由な時間を満喫でききたことが最大の幸せであった。それは、彼女は、想像する才能が豊かだった。
 
元々、想像力や才能の豊かな人は、他人の供給するものには満足できない。その人が作り上げたものでしか、満たされない。アンナは、自らが憧れている物、豊かなものを夢見ることができて、心の余裕ができた。
 
アンナは、他人が提供したものに満足せず、自らの空想の世界にひたりきれた。その時、心の求めるままに、アンナは行動した。良い子を装って、ふるまう必要も無かったのである。
 
アンナは、自ら考えて、勇気をだしたり、挑戦をしたりして、自分で答えをつかんだ。
彼女は、そうした才能がある少女だった。
 
自分で自分を満たすこと、自分で勇気を出して挑戦する事が、人生で重要であることは、大人にとっても同様である。人は自分に問うて、自分で答えを出している。
それが後悔をしない人生に大事である。
 
自分に問うて、自分で答えを出すことが不得意と感じる人もいるだろうが、その人なりに、自分で答えを出して、前と信じる方向に進んでいるだろう。
自分を満足させるのは、自分しかない。
 
それぞれの人が、自らが信じる前の方向へと、歩を進めていくのがベストであると、アドラーの心理学でも言っている。
 
 
一般人が、ネットの映画や書籍のレビューなどに書きこんだ論評を読むと、他人のさまざまな考え方を学ぶことができる。
 
正当と信じていることが、この人には正当でないんだ!と、驚くこともある。ネットの文章は、必ずしも本音が書き込まれているわけでもないので、そのあたりも、いろいろ考えさせられる。
 
知らない他人が書いた文章に触れる機会は、ネット時代になって、飛躍的に変化した。
 
ネット時代の前には、読書や映画を観賞した後に、一般人が感想文を書いても、新聞や雑誌などに載ったりはしない。つまり、誰にも読んでもらえなかった。
 
一般人が、雑誌社に投稿した原稿の多くは、編集者によって没となってしまう。
編集者にとっては、活字にする価値がないからだ。
結果、一般人の感想文(レビュー)は、投稿者と編集者以外の人の目にふれることはなかった。
 編集者が、優れたレビュー、美しい文章と判断したものしか、活字にならない。
そんな時代が長く続いた。
 
ところが今は、誰でも文章を書いて、他人の目にさらすことができる。
思うことを文章に書いて、ネットに載せ、個人的な考え方を、広く披露することができる。
そして、共感する人を探すことが可能だ。
 
誰の考え方でも、文章は活字になり、面識もない知らない他人が読む事が出来る時代となったのである。
 
文章は、わかりにくくても、意味が通じなくてもかまわない。落語の落ちを理解しないで、その落語をけなすこともできる。
呼んだ人から、「あなたは落ちを理解していない!」と言われることもあるし、誰にも注目されないこともある。
出す情報の質は、問われない。
 
映画や本の作品のレビューのサイトは、投稿者は、匿名であるため、本音や、口では言えないような悪口も書きこめる。
 
悪口の書き方には、大きく2種類あるような気がする。
つまり、映画や本のけなし方には2種類がある。
 
一番目は、常識的な、けなし方である。
「私は(映画・本の)ここに問題があると思うし、全体的に見ても、この作品は私の好みではない。しかし、○○が好きな人には良いかもしれない・・・。○○を見たい人には価値があるかも・・・」 
 
投稿者は、その作品を評価しないが、他の人は、他の評価があるかもしれないと結論する書き方となる。
投稿者は、レビュー欄に書きこんだコメントは、あくまで投稿者自身の印象に過ぎない事を十分に意識する。
一応、これから見る人へ配慮が感じられるレビューである。
 
二番目は、とにかく、けなすことが目的と思えるような書き方である。書き手は、自らが感じた作品への評価や印象が絶対であると印象づけようとする。
 多くは、激しくけなすレビューであることがほとんどだ。投稿者がけなす文章は、投稿者の自信にあふれている。意図的に、作品の質を落とそうとするものである。
 投稿者の評価は正しいし、他の人も、投稿者と同じような印象を持つであろうと断言する。
この作品は、ひどい内容であり、見る価値に価しないと・・・・。
 
誰でも、自由に書ける状況は、社会が健全であることの証拠である。
 
技術的には、ほめる文章の方が書きやすく、けなす文章は書きにくいのは確かである。
けなすためには、それなりの根拠や知識が必要である。
製作者や作品の、どこに問題があるかを、しっかり書かなければならない。
しかし、こうした熟慮がなくして、ただただ、恨みをもつかのようにけなすだけの(レビューもある。
 
わたしの拙著「女性ホルモンという名の神話」を出版した時、アマゾン読者レビューでも、すぐ、悪口が書きこまれた。
内容が間違っているとか、根拠がないとかいうけなし方ではない。
「内容が現実離れしている。こんな本を買うなら、お茶した方がまし!」というものである。
 
素人作家であれば、悪意に満ちたレビューを書きこまれても、それが本の売れ行きに影響はないだろうし、他人の考えを知るチャンスになると考えるしかない。
わざわざ、こうした文章を書き込む人がいるのか! 同業者か?などと妄想する。
 
しかし、職業として作品を作る人にとっては、悪意に満ちたレビューというのは、つらいだろうし、腹立たしいと思う。
 
ネット情報によると、たけしが批評家を批判する記事が載っていた。
たけしは、「評論家はひどい連中だ!」と言ったとのことである。
この記事によると、「評論家って監督やりたかったんだよ。しょせん。自分がやったらもうちょっと違うみたいな感じでくるから・・・・・悪い映画。嫌いだったらけなさなくて、いい映画だけすすめればいい。嫌いな映画をわざと嫌いに書く必要がどこにあるんだ!」
ネット記事に、たけしは、このような怒りをぶちまけたと書いてあった。
 
率直なタケシらしい言い方である。実際に、映画を作る人の立場になれば、ただけなす論評は、本当に腹立たしいものであるだろう。
 
しかし、それで監督が傷ついていたら、映画はつくれない。
「映画をけなしてくる批評家は、批評家自身がかかえるジェラシーやコンプレックスをさらけだしている!」と、タケシ自身は考えている。 
 
酷評する批評家には、「評論家はジェラシーから、物を言う!」と、製作者は考えれば良いようだ。
それが、酷評にめげない技だろう。
 
 
前回、思い出のマーニーの感想を書いた。初めてジブリ映画を見たのは、『千と千尋の神隠し』で、その時、すごいなあーと思った。
 
『千と千尋の神隠し』のすごさについてであるが、観客には、どのように筋が展開するのか、見当がつかないことであった。アニメを観る人は、筋が独創的と感じつつ、結末を予想することは、到底、難しかった。
 
主人公の千尋は、のほんとした両親に甘やかされた毎日から、突然、悪夢ワールドに落ちてしまった。
誰も助けてくれず、本人(千尋)の努力と勇気だけで、のりきらなければいけない状況になった。
 
すがたかたちがグロテスクで、気味の悪い人たちが、多く登場する。
これでもか!これでもか!と、おどろおどろしい怪物が登場するが、ヒロイン千は、勇気を出して、怖がらずに、怪物たちの中に飛び込んでいった。相手がグロテスクな姿でも、ヒロインが心をこめて交流すれば、事態が変わり、ヒロインが成長した。
 
 
監督の宮崎氏らの製作者は、こうしたキャラクターの考案者である。
アニメの作り手は、現実の世界で、実際に会ったキャラクターの人たちを参考に、妄想的な登場人物を作ったであろう。宮崎氏らは、良くも悪くもすごい連中と、現実の世界でわたりあい、そうした人たちと付き合った経験を、アニメチャラクターに変換させ、登場させたと思う。
 
性格の強い人、独断的な人、わがままな人、無知な人、甘やかされた人、他人の気持ちが理解できない人など、監督にとって問題がある人たちを、『千と千尋の神隠し』に登場させた。監督は、実際の人物たちと激しく喧嘩したり、絶交したり、なだめたりしたかもしれない。
 
実際、誰でも、毎日生活の中で、避けることのできない嫌な人とかがいるだろう。
しかし、社会人であれば、嫌いな人でも、なんとか、やりくりをしながら社会関係を保つという努力をしている。
 
嫌なことを避けてばかりはいられないし、工夫や努力で乗り越えないと、その先の明かりが見えないことも多い。
乗り越えてしまえば、その山はたいしたものでなくなるかもしれない。
 
『千と千尋の神隠し』も、甘やかされて育った千尋が、おどろおどろしい連中とかかわり合いながら、成長するストリーだ。子どもが、経験を重ねて成長していく過程は興味深いものだ。
 
宮崎監督のように、人生経験が豊富で才能ある人であれば、自ら信じることを、映像で表現してみたいと思うだろうし、信じている大事なことを世の中に伝えようとするだろう。
 
ジブリ映画は、子供に伝えたい正義、勇気などに溢れている。小児は、まだ、自分で考えて乗り越えるという力がつかないが、アニメは、勇気や正義のお手本を示すことはできるだろう。
 
実際につらい体験をしながら育つということは、子どもの心の成長には役立つ部分があるが、意地悪な性格になることもある。子どもの時に受けた意地悪を、大人になってから、他人に繰り返してしまうこともある。
 
子どもは、他人に気兼ねなく、楽しく育つことが何より、健康な大人になるために必要だ。
周りの人たちに愛されて満たされて育つことは、子どもの人格形成には、とても大事なものだろう。
アニメや映画は、多彩な世の中のしくみや人生の厳しさを学べたりもできるツールである。
 
他の方が書いた映画のレビューを見ると、アンナの性格が悪く、主人公に感情導入できないとするコメントがある。
アンナの性格の悪さが、映画そのものの評価を落としている感じる人がいるようだ。
人がそれぞれ、どのような感想を持つかは自由だが、徹底的にけなした論評も少なくない一方で、読む人が、楽しくなくなるコメントもある。
 
こうした論評を呼んでいると、人の感じ方は、さまざまでありことが、よくわかる。
ある人にとって正当な考えであっても、他の人にとっては、正当とは言えないものとなってしまう。
 
映画の論評に書きこまれている投稿者にとっての正当は、その人が正当と信じていることに過ぎない。
所詮、正しい事は、曖昧で実態のないものだ。映画の論評を読むと、書きこまれている正当性が、各人ごとに解離していることに驚かされる。
 
映画「思い出のマーニー」前半のアンナも、自らが不幸であると感じる心にとりつかれ、疑いようもなくみじめな毎日であると、アンナは感じている。
 
しかし、映画の後半では、彼女は、そうした自分が正しくないことに気づくのである。
視点や評価を変えるということは、生きやすい人生を送るために大事なことだ。
 
人は、自分には無いが、他人にはあるものに憧れる。富、才能、美貌、名声、栄誉などなど・・・・。 しかし、その憧れの裏の顔は、ジェラシーだ。
 
しかし、大人はそれをあからさまに外に出す事はしない。ジェラシーは、忌み嫌うものであり、自らで克服しようとする。自らを傷つけみじめな気持ちにならないために。
 
憧れているものには、欠点も問題点もある。大人なら、そこを見つけたり、あきらめたりなどもして、ジェラシーを感じる心をなくそうとする。
 
しかし、子どもの場合はどうだろうか?あれこれと比較し、克服しようとしても、そのための材料がない。つまり、経験や知識がない。孤児のように、生まれながらの不幸を感じている子どもが、どん底の気持ちでいても、大人がアプローチする方法は難しいものだろう。
 
両親がいない子どもが、悲しい、つらい、他の子が憎い、と感じていても、そこを埋める作業をする育ての親の役割は、一筋縄ではいかない。チャレンジグなタスクであろう。
 
ジブリ映画の「思い出のマ-ニー」の主人公アンナは、孤児であり、この映画は、こうした難しい問題に取り組みながら、尚、美しくファンタジックなアニメ映画に仕上がっている。
いろいろと考えさせられもするし、夢もかなえられる映画である。
本日は、このアニメの女性的解釈を試みる。
 
ポスターや広告などを見て、この映画を見たいと思う成人女性は、登場する憧れの洋館と、そこに住む麗人たちの様子を想像して、空想をかきたてて、映画を見ようとする。
 
しかし、憧れの洋館が出てくる前に、映画が始まってすぐ、主人公アンナの孤独な心が、せつせつと語られて行く。アンナの年齢では、つらい感情をうまく処理できない様子が語られる。
 
アンナは、両親がいないことを恨みながら、他人に悟られたくないと思い、その感情を否定するふりをする。アンナの心と言葉は、うらはらな状態である。周りの大人に気付かないように、本心を隠して、孤独に暮らしているのである。
 
原作でも、映画でも、アンナの孤独な心は、内側、外側という言葉で語られる。アンナは、外側の人間であり、内側には入れないと感じている。内側の幸せな人たちとは、アンナは明らかに違っていると感じている。原作でも内側の人間、外側の人間と表現されているが、ジブリ映画も、始まってすぐに、内側の人間、外側の人間の、解説的なナレーションが流される。
 
高見浩訳の文章は、以下のようである。パーティとか、お茶に呼ばれたりするのがすばらしいのは、あくまで、自分以外の連中にとってなのだということが。なぜなら、そういう連中は、皆内側の人間、何か目に見えない魔法の輪の内側にいる人間なのだから、その点、アンナは外側にいる人間なのだから、そういうことは、すべて自分とは無関係だった。
 
この疎外感は、小児特有のものでなく、大人になってからでも、人が時に直面する感情ではないだろうか?
他人の思惑を気にする暮らしのつらさや、孤独が孤独を呼ぶ暮らしのつらさなどから、孤独の壁を自分自身で高くしてしまうのである。
 
さみしくつらい立場であるアンナだからこそ、逆に、その孤独感を外に出さないように無理する。
「ああ。アンナちゃん、だめだよ。そんな風にかんがえちゃ・・・・」 などと、観客はアンナに同情しながら、前半のストリーを追う。
 
アンナは、あえて、周りを無視して、つまらなそうなそぶりをする。他人からあれこれ言われるのを避けるためだと、アンナは言っている。
 
アンナのつまらなそうな顔は、意識的に作られたものである。しかし、そう思うのはアンナだけで、周囲の大人はアンナの孤独は十分にわかっている。それをどう表現するかで、アンナが安心するか、反発するかが、別れてくる。他人から、アンナの本心にせまるようなことを言われて、アンナは、かえってつらく感じるという過去の経験を持っているのだろう。
 
アンナは、頭も良く、感受性も高い。育ての親が、子育てのための補助金をもらっていることに、心底傷ついてしまう。
 
気にしているからこそ、気にしないそぶりをする。こうしたことは、日常でもしばしばあることだろう。
一番、こだわっていることを、あえて無視して、興味が無いと装うことが、現実の人間関係には起きる。
それを言われたくない!弱い立場であると、しっかり見定めることを避けてしまうのだ。
 
この映画は、空想が心を救う事を描いた作品なのだろう。苦しい毎日であっても、空想の世界を持てば、人は救われることがある。赤毛のアンも、他人に引き取られて育ったが、空想は大好きであった。
この映画も、アンナが、自らの空想とわたりあうことによって、ストリーが作られている。
 
しかし、一方で、この映画は、男性的な見方というのがあるようだ。
このあたりは、女性の見方と少し違うと感じる部分である。
 
少女の性愛を描いたものであるとか、ぎりぎり許される危ない世界とかの表現もある。
こうした見方は、女性は発想しないし、とても男性的なのだと思う。
多分、この男性的発想は、少女の美しさが、男性に性的魅力を引き出させるものだからなのだろう。
 
しかし、女性であれば、少女の時、何に憧れたかを思い出す事が出来る。
一般的に、憧れる友達は、顔や姿が美しかったり、豪華な邸宅に住んで憧れの暮らしをしている人である。
少女の妄想は広がり、豪邸では、現実の毎日では起こり得ない、イブニングドレスの行きかうパーティがあるだろう。パーティへの出席者の豪華な衣装や宝石も憧れだろう。
 
だから、アンナ自身が、最高の友達としてマーニーを夢見たのも当然であった。実際に映画のマーニーは美しいし、マーニーの両親も、憧れの暮らしをしている人たちである。
 
アンナは、大人とのしがらみから解放されて、秘密めいた憧れの暮らしを垣間見ながら、遊びの日々に、どっぷりとつかることができた。アンナの心には、大きな余裕と満足感が生まれた。
怖い経験という試練はあったが、勇気を出して克服して、自信もつけた。
 
そして最後は、謎解きの楽しさを交えながら、アンナが成長する。アンナは、自ら築いていた孤独の壁を乗り越えるのである。自らが不幸だとする感情を克服する。後半には、良い人たちしか出てこない。
アンナの成長も著しく、人の心も良く理解し、周りの人を喜ばせた。
そんなハッピイエンドに、観客も納得する。
 
観客は、少女の憧れがひとつひとつ、かなえられていく喜びをアンナと共有する。
そして、人の心がどのようなことから影響を受け、そして立ち直っていけるのかを学ぶのだ。
この映画に怪しい世界などを見出さない、女性的解釈である。
 
男のボスぶりが、揺らいできていると書いた。
夫とは限らず、父親の権威やボスぶりも揺らいできていると思う。
 
女性に対する切り札的なせりふが効を奏さない時、男性のストレスは頂点に達するであろう。
そうした時代にあって、女性は自立できる力をつけてきたのかというと、まだ十分ではないし、将来展望も混とんとしている。
 
離婚後の孤独な子育てで、女性たちは消耗しているのではないか?
そうした母親のストレスは、子どもにも及ぶであろうし、女性は体力と知力で男性にかなわない。
 
体と脳の重量が少ない女性が、知恵と努力を駆使して、社会で、立場を築くことは、難しいことのように思う。
 
女性は、男性が肩代わりしてくれた苦労を背負い込むようになり、苦しんでいる。
男性に責任転嫁し、依存的でじっとしていれば、危険を回避できる環境を捨てたからである。
 
若いカップルで、病気の子供を抱えて父親が、小児科を受診することが多くなった。
こうした父親と接していると、父親の子どもに対する心配のし方は、母親の抱く心配とは、少し種類が異なる気がする。
 
父親の、医者に対しての任せ方は、女性と異なる。
 
母親は、病気の理解度が今、ひとつであっても、肝のすわったところがあり、医師に任せる部分が大きいが、父親は、目の前の医者の話を、あくまで自らの頭で理解しようと努めるように思う。
 
しかし、医者による病気の説明に対し、父親の理解力を超えてしまったり、父親が不信感を持ってしまうと、いらいらを感じてしまうようである。病気の質が理解できないと、父親は、自身による判断ができなくなるからだろう。
 
医者の病気の説明に納得がいかない時、さらに、医者が説明を続ければ、納得してくれることが多い。しかし、そこまで行かず、納得できないまま、父親が切れることがある。
 
父親は、目の前の医者が信用できるのかを判断できなくて、そのあせりが表情に出るのである。
多分、父親は、医者から言われたことを、あれこれと自らの頭で理解し、考えているためだ。
 
残念なことに、最近、イライラをそのまま、医師にぶつけてくる若い父親が増えていると思う。
つまり、医者の話が聞けずに、切れるという状態だ。
 
母親は、ものを考えないと言っているわけではない。母親には母親の理解のしかたがあり、それが病気の子供に良い影響を与えることがある。つまり、自我を出さず、悪い方向へ考え過ぎず、肝がすわったところがあるのである。
 
これは、医療に限らず、他の商売でも同様の傾向のようである。特に、人間相手の商売をしている職種の人は、最近の客は、切れやすいとの印象を持っている。
 
権利は、主張すべきの価値観が、切れやすい社会を生んでいるのかもしれない。
権利を主張すべき状況でないところで、権利を主張すると、それが通らずキレる。
キレる方も、キレられる方も、双方に抱えるストレスは大きくなる。  
 
今は、雇用の確保が困難でもあることも、若い男女がかかえるストレスの原因になっていると思う。
若い男性や父親が、急に切れるということが多くなったのも、かかえているものが重く、耐えきれなくなるのかも・・・。
 
父親の権威が薄れていることに関して、別の話題を紹介したい。
 
アジア大会で、いろいろ記録が生まれているが、先日、女子の卓球の試合を、つい見た。
福原愛選手の気迫の試合に魅せられてしまったからだ。
 
動きもシャープで、得点をねらう気迫、ミスが続いても立ち直る力、限界までに集中する力に魅せられた。
観る人も、一緒に集中して見なければ、選手に悪いという気になる。
 
報道によると、福原愛は、最近、マネージャーであった父親を亡くし、彼女の危機迫る集中力には、父の死という背景があったようだ。さらに、福原愛は、父親と絶交の状態にあり、全く言葉をかわすことが無い状態になっていたと言う。
 
アジア大会で、父がいなくても、私はやっていける!私は大丈夫だ!と、彼女は自分自身をふるいたたせていたのは?と想像する。
 
娘と父親も、男女であるが、お互い強い意志をもつと、ふたりは必然的に対立する。
お互いに、最愛の相手であるからこそ、こうした関係に陥るのだろう。 父親は、自らが正しいと考えることを、娘に理解させたかったのだろうが、果たせず亡くなった。
 
福原愛や吉永小百合などの例のように、娘が意思をつらぬく時、親は犠牲者で終わる。
 
親には、時間が限られているからである。
娘との確執で悩み、老いて行く親は、寿命を縮めるまでに、苦しくつらい毎日となるし、そのストレスで命を縮める。
 
親が、娘を教育する時は終わったことを早く悟らないと、親は、無念のまま朽ちて行ってしまう。
 
女性が強くなった結果、男女で幸福感や生命力が低下してしまったら、男女双方に不幸だ。
 
 
人々の求めるものが、今は多様化している。普段、それをあまり意識しないが、多様化する前の日本人の姿を見ると、今とのギャップに気付く。
こうした日本人の志向の変遷を知るのは、昔の映画が一番のようだ。
 
映画には、その映画が作られた頃の人々が求めたもの、憧れた物がふんだんに盛り込まれる。
 
人々の憧れるターゲットが多様化した今は、映画をヒットさせるのも難しいし、成功するかを読むのは大変だろう。
 
アナ雪はヒットしたが、莫大な宣伝費をかけたから、ヒットしたわけでもないだろうし、アナ雪には人々が求めるものがあったのだ。
 
時代と共に、映画の主人公は、普通の人になってきている。今は、能力ある普通の人が、主役の時代である。
 
しかし、戦後間もなくは、特別に身分のある人や、名家や富豪に、当時の人は憧れた。
 
当時、普通の人は、ヒロイン、ヒーローになれなかった。そうした価値観の変化を考えながら、昔の映画を見ると興味がわいて、楽しめる。
 
昭和30年代の、吉永小百合、岩下志麻の活躍した頃の映画は、特に、最初の1時間位は、目をこらして見てしまう。役者のせりふ、ストリー展開は、今のドラマに比べれば、信じられない位に非現実的で、わざとらしさに満ちているが・・・。
それでも、画面にくぎ付けになる理由は、当時の社会の価値観が感じられたり、映し出されている当時の街並みが、とても興味深いからである。
 
銀座や日本橋などの繁華街もでてくるし、箱根の芦ノ湖などの別荘地もでてくる。
スターたちの会話を聞くと、その当時の人が何に夢中になっていたのかを伺い知ることができる。
タイムスリップした気分になれる。
 
当時の映画は、ロケもふんだんに出てくるが、昭和の街並みのシーンは、とても魅力的だ。そこには、かつての日本がある。これを見るだけでも、当時の映画を見る価値があるといっても良い程だ。
 
戦後、高価なフィルムを使って作られた映画は、当時、高価なグッズを盛りだくさんに写している。それは、家具であったり、部屋のしつらえだったりする。
巨匠と言われる人の作品も、風景などの映像が美しく、旅行したい庶民の憧れの気持ちが、ふんだんに盛り込まれている。
 
当時の映画に描かれているのは、庶民の暮らしとはかけ離れた非日常的な光景だ。
当時の人の憧れが、凝縮されている。
 
登場人物のうち、誰かが、金持ちであり、誰かが身分が高い。
豪勢な家で召使に命令する暮らしのシーン、広い別荘で過ごすシーン、男性なら、美女が何人も出てきて、からみのあるシーンなどなど・・・・。
 
女優の髪は、いつでも美しくセットされ、風が吹いても乱れることはない。化粧した寝姿でも、髪が乱れない。
日常着として登場するのは、アイロンの効いた手入れの良い服であり、おあつらえの高価なスーツ姿である。言葉づかいは、女優はほぼ同じようにていねいであり、個性はない。 
昭和25年につくられた映画のスクリーンに登場するグッズを見ていると、すでに日本人は高価なものを取り戻せたと思える。
  
いわゆるスターと呼ばれる、人気ある美男美女が登場するが、作られた会話、とってつけた笑い、先の見えるストリーでも、人々を飽きさせる事は無かったのだろう。
非日常的な裕福な暮らしを、垣間見る思いで、見つめたのであろう。
 
森繁久哉の、社長シリーズも、社長が、女性にもてて、もててというストリーであり、美女が群がってくる筋立てである。
 
当時の映画は、今とのギャップを教えてくれて、興味深いのだが、そのギャップは、時にナンセンスである。
 
非現実的であり得ないようなせりふが出てくるのである。
その理由は、男性の独占的な視点で映画が作られたからなのだろう
 
監督にも、脚本家にも女性がいない時代では、男性の妄想が独り歩きをしてしまうことがある。女性の感情や、せりふが、思わず笑ってしまう位にナンセンスなのである。
 
撮影現場には、女優を始め、女性は、若干はいたはずだ。女優は、女性が言うせりふでないと、内心は思いながらも、監督の指示に従ったのだろう。
 
そのひとつを紹介しよう。
超有名な映画と言うわけではないが、船橋聖一の雪夫人絵図という作品である。
 
これは、二回、映画化されていて、昭和25年の小暮美千代主演と、その後の1968年の佐久間佳子主演の作品である。1950年製作の溝口健二監督作品で、主演は木暮実千代、上原謙である。
 
子爵の御姫様である雪夫人が主人公で、色の白い雪のような美人である。これは、当時の女性も男性も、憧れた女性像なのだろう。
 
しかし、彼女は、親の決めた結婚相手である婿養子の之と結婚している。
実業家であるこの夫は遊び人で、浪費により子爵家の財産を破たんさせている。その上、水商売の愛人もかこっている。その愛人をつれて、妻の家に来るような人である。
 
周りの人たちは、この夫と別れる事を勧めるが、雪夫人は決心ができない。
その理由が、雪夫人が夫との性的な関係におぼれているからである。
「肉体関係におぼれているから別れたくない」と、雪夫人、自ら語るのだ!
とんでもないせりふだ!
 原作がどうなっているのか、かわらないが、観客の女性には、受け入れられないせりふである。
 
雪夫人に好意を寄せる美青年(上原健)に対して、雪夫人は、このせりふを言うのである。
「私は夫を恨んでいるけど、夫から求められると体が言う事をきかなくなり、彼を求めてしまうの・・・」と話す。
 
見ている観客の女性は、ここでDVDを切りたくなるような心境である。
 
御姫様役の女優に、そんなセリフを言ってほしくない。
当時、映画を製作していた現場にいた女性スタッフも、失笑していたのはないのか?
美しい映像が台無しになるようなせりふだ。巨匠は、つっかり、落とし穴に落ちたのか?
 
そして、実際の映画に登場する婿養子の直之は、小太りの中年男にすぎないのである。
すべての裏切りが帳消しになるような男の性的魅力って、何なのだ!
女性がこんな夫を好きになれるはずがないと、しみじみ思うのである。
 
女性の視点は、男は、こうしたモテ方をしたいのか?と、ため息が出る思いだ。
しかし、男性の視点なら、男は、こうしたモテ方をしたいと、共感するのかもしれない。
男性は、どんなに女性をいじめても、女性から求められたいとの欲望があるのだろう。
 
話しは、現代に戻るが、先日、昼食時に、隣の席の若い女性たちが会話する中で、
「お前は、俺の奴隷なんだから、何でも言う事を聞け!」と、夫から言われたと、若い女性が淡々としゃべっていた。
 
この女性は、夫にこんな風に言われたと言いながら、あまり、それに動じていない。
聞いている相手の女性も、「まあ、ひどい!」とも言わない。ただ、うんうんと、うなづくだけだ。
 
このせりふを吐いた若い女性の夫も、不用意な人なのだろうと思うが、今も、昔も、似たようなことが起きていると思った。
 
男性は、女性をいじめて、いじめて、自分自身の価値観を感じたいのだろうと思う。
男性は、女性をいじめても、その女性について来て欲しいし、それができる俺は偉いし価値があると、男性は思いたいのだろう。いじめることより、その後のことが大事なのだ。男性は、自らの所有欲を満足させたい。
 
時代を通じて男性が持つ、女性への支配欲なのだと思った。
しかし、時代の変遷は、起きている。
夫に悪態をつかれた女性たちが、それほど、夫の捨てぜりふに動揺していないのだ。
 
”重いアトピー性皮膚炎だから、ステロイドが必要ということ”
 
 誰でも、自分の病気の経験を広く公開する時代である。医師が治療をしたがために、かえって病気が悪化した経験をした人は、熱意を持って、自分の受けた治療内容の問題点を、アピールする。
同じ過ちをしないようにと、同じ病気を持つ仲間たちに知らせたいとの思いであろう。
 
そうしたターゲットになりやすいのが、アトピー性皮膚炎のステロイド療法だ。
あいかわらず、ステロイド療法の恐さをアピールするネット記事があふれてもいる。
ステロイド離脱で大変な思いをした。ステロイド治療でかえって悪くなった。
アトピー性皮膚炎の悪化を、ステロイドに起因させ、ステロイド治療が、諸悪の根源と結論する。
しかし、ここに抜けているのは、病気の重症度である。
 
ステロイドは、元々、アトピー性皮膚炎を治すものではないし、薬で抑え込んで、その間に、皮膚の回復力に期待するものだ。その回復力に個人差があるので、ステロイド使用後の経過が、人それぞれの結果となるのである。
 
ステロイドバッシングのネットの記事の発信先や目的は、さまざまである。
民間薬を勧める宣伝であったり、サプリなどの広告なども混じって、混沌としている。
 
従来の標準的治療を否定して、独自の治療を展開する医師もいる。医師の中には、脱ステロイドを売りにして、脱ステロイドの専門医を名乗る人もいる。
都内で、脱ステロイドで有名だという医師にかかったことがあるという女性の話を聞くと、彼女曰く、「何もしないという治療方針である」と表現していた。 患者さんのこの言い方は、的を得ていて、興味深いことと感じた。
 
医師は、自らの元に通ってくる人だけを相手に、商売をしている。駄目だと思った患者さんはもう来ない。
 
脱ステロイドの治療をしようとすれば、日本で使用可能な保湿剤を、くみあわせているだけだ。それでも、軽快していく人はいる。その人自身の回復力があるからである。
 
しかし、成人では、脱ステロイドで命取りになることは少ないが、乳児の重症のタイプでは、体中の蛋白が漏出して生命の危機となることがある。同じアトピー性皮膚炎と考えない方が良い。
 
皮膚は炎症を起こすことによって、回復に向かう。軽いアトピー性皮膚炎の人は、ステロイドを使わなくてもやっていけるし、固い意思をもってかゆみを我慢すれば、皮膚は機能を取り戻す。
 
正常な皮膚は、いろいろな刺激のイベントが起きても調整ができ、炎症を起こさずして、回復できる。一方、アトピー性皮膚炎は、いろいろなイベントが起きると、それに対処するたびに炎症を起こす。そのイベントが何であるのか、ひとつひとつ、みつけることができない。
 
ストレスによって、皮膚の敏感性がましているかもしれないし、カビが増えたり、菌が増えているかもしれないし、原因は一つではない事が多い。アトピー性皮膚炎のある人は、皮膚の回復を速やかに進めることができない人である。体の内側からの修復の欠陥による病気、(体質と言ってしまえば早いが・・・)である。だから、メンタルに問題があると、回復力に影響が出る。
 
元々、皮膚は何か異物が付いた時には、反応するようになっている。かゆみは、皮膚から脳へのメッセージととらえることができる。
 
皮膚曰く「何か、上に付いたから、早く取ってくれ!」と、脳に命令するのであろう。
特に、微妙な刺激の時には、特にかゆみを誘発する。水が少しついたりしても、皮膚はかゆくなるが、この理由は、哺乳類は、水が危険と判断するので、少しでも付いた時には、かゆみで警告するのではないかと思う。髪の毛のような微妙な刺激も、かゆみを誘発するようだ。
しかし、熱や痛みのような強い刺激の場合は、かゆみにはならない。
 
首のアトピーがあると、隠すために髪の毛をたらすが、これがまた、かゆみを誘発してしまう。
 
かゆみを我慢するのは難しいが、生き物は、皮膚のかゆみを脳に伝えれば(皮膚に対して)感じてくれてありがとうとなる 手を使って掻いて、血流を増す仕組みになっている。哺乳動物は、皆、掻くという行動をとる事を考えると、生命維持に必須のしくみであろう。
 
病気を持つ人からのメッセージは、強力である。病気がある人は、必死で考えている。するどい人であれば、自らの経験を根拠に、示唆に富む情報を出せる。
 
 
重くないなら、保湿剤で行けると言っている。このブログでは、患者本人が、ステロイドの使い時や量を決めるに、ふさわしい立場にいると言っている。患者は、自らの皮膚の一番の観察者であるからだ。
  
この男性は、保湿剤の成分をいろいろ解説している。彼は、保湿剤に大きな期待をしているのだ。
 
このブログの書き手の彼は、重症で、ステロイドを使わざるをえないのだと言っている。彼がステロイドを使う理由は、「僕は重いから」と、答えが単純だ。
 
彼は、ステロイドを減らす時の経過を良く把握することを勧めている。ステロイドが必要な状況か、そうでないかは、病気の重症度が決めると言っている。
 
ステロイド治療で難治化するのではなく、難治だから、ステロイドが減らせないと、解説している。
 
実際の治療現場では、患者さんが、治してくれと嘆願するので、医師は、強力ステロイドを使いがちになるのだと言う。特に、話をあまりしたがらない医師は、そうした傾向にあると言う。
 
彼は、ブログの中で、医師に対して多くを期待してない。それでは、不信感なのかというと、そうでもない。彼は、自分で治療を考えることを勧めているのである。
 
どの程度のかゆみなら、我慢できるのか、決めるのは本人である。ステロイドを使っている人であれば、使えば軽快し、止めれば悪化することは知っているが、その経験を積み重ねて、その人自身で決められると言っている。
 
このブロガーは、ステロイド以外の代表薬であるプロトピックを経験しているが、自分には向かないのだと言う。そして、今後の皮膚の条件によっては、効果が期待できるかもしれないとも言っている。つまり、薬に対するその反応性は、一律では無いことを経験しているのだ。
 
アトピー性皮膚炎の悪化時には、ステロイドで抑え込む。但し、今の治療現場での問題点は、どう減らしていくかの過程で、医師と患者さんの間の話し合いが十分でない事が多い。
 
こうした医療現場で作られる医療不信の時代には、患者自身が、治療経験に基づいて、薬の必要性と、その限界を語ってくれるブログは有用だ。医師と患者が、お互いの気持ちを理解するのに役だっている。