テレビ、映画などは、大いなる参考書であると書いている。しかし、映像美を見せる映画やテレビで扱われにくいのが、高齢女性の悩みである。
 
以前のブログで、我慢の多い人生を送ってきた女性の中には、歳をとって思い返す事が、くやしくて!くやしくて!と、苦しむ人の事を書いた。女性の人格を作ってきた高等な脳の機能が低下し、愛想の悪さ、表情の険しさなども出てくる。老いた女性は、外回りの人格が変化してしまう。
 
問題なのは、老いた女性の攻撃性は、自らに対しても向かうことがある。つまり、死にたいという願望が起きるのだ。
 
こんな私は死んだ方がまし!と考えるようになる。しかし、高齢の女性から「死にたい!」と言われても、とっさには、返答に困る。言われた相手は、温かくピリッとした言葉を探すのに困るからである。
 
それでは、「死にたい!」と発した本人はどうなのかと言うと、相手の言葉は、ほどんど聞いていない事が多い。
相手の答えなど、望んでいないのだ。自分の感情で頭が一杯で、受け入れる余裕がない。
他人から力を得ようとしないので、死にたい気持から解放されない。
 
老人同志の会話は、一見、会話しているようだが、お互いに自分の言いたい事を言っているだけの平行線のことがある。女性は長寿であることも影響するのだろうが、一方交通の会話は、高齢女性の特徴と言われている。
 
男性同志の会話では、平行線の会話は少ない。男は、そうなる前に人と話さなくなるようだ。
老化して多くを失う悩みは、男女共通だ。老人は、体調が悪いに加え、大事にされないこと、心地よい場所がないこと、などなどでめげることは多い。
 
しかし、生涯を通じた自殺の男女差を見て見ると、興味深いことがある。
 
ここに、老化のとらえ方の男女差が出ているように思う。加齢した男性の自殺は減少するものの、加齢した女性の自殺は増えていくのである。
これを見ていると、高齢女性の自殺を減らすためには、男性から学ぶことがあるかもしれない。
“歳をとってもめげないで暮らす方法を編み出す“について、男性はどのような生きざまをしているのか、考えてみよう。
 
日本の男女の自殺率が載っているが、いつの世代でも、男性の自殺は、女性より多い。しかし、その差は、年齢と共に縮まっていく。
若い年齢での自殺者の男女差とくらべて、75歳以上の高齢女性の自殺数はおどろくばかりだ。
この違いは、男女の生きざまの違いをよく反映しているように思う。
 
イメージ 1
 
 
動態表で見るように、すべての年齢において、男性の自殺者が多い。しかし、高齢化するほど、男女差が無くなり、女性の自殺者が多くなる事がわかる。
女性は、老後のメンタルヘルスの悪化がめだつ。
その要因は個人差が大きいとはいえ、女性は老後に恩恵が感じられないのだろう。
 
男性は、老後に落ち込んだとしても、自殺という形にはなりにくいようだ。自殺する男は、その前で自殺してしまっている。
 
男性の生き様は、“天下をとりたい”との願いで、現実には天下をとれないし、絶望もして、自殺する。しかし、男性が老後になれば、そうした葛藤はもう無い。
 
男性にとって、稼ぎたいとの願望は強い。しかし、働き盛りの年齢であっても、男性が収入を得るのは厳しい。妻子を養うためには他人の分もかせがなければならない。
 
男性は、収入を得るために、体を張っている。仕事で体を酷使し、消耗させ、怪我も背負う。大小を問わず、仕事中の事故などは、男性が圧倒的に多い。
 
現場で働く男性たちの怪我は良くあることだ。目に鉄粉が飛んで、手術をした、自動車整備中にけがをした、現場で足場から落ちた、などなど。
 
そうした経験を持つ男性と接すると、男の仕事は厳しいことを実感する。夏の暑い時期の、ペンキ塗りの職人の顔は、つらそうである。
 
しかし、女性はこうした怪我のリスクの多い仕事をしている人は少ない。女性は、マンネリ化した家事、毎日同じことのくりかえし、小言を言われる作業、ガラスの天井など、メンタルにはつらい仕事であっても、体を張った苦しさというのは少ない。背負う人生の重荷も、男性より軽い事が多い。
 
つまり、老後に男性のメンタルが女性ほど悪化しないのは、男性は肉体的につらい仕事、立場的につらい仕事からの解放感によるものかもしれない。人生の一仕事を終えて、役割を果たした安ど感、社会人として成果をあげたとの思いがあるようだ。
 
釣り堀で遊んでいるのは、圧倒的に男性だ。釣りは、男性の本能的な欲望を刺激するだろう。
つまり、魚をつりあげるまでの創意工夫である。釣り上げた魚をどうこうというより、釣り上げる過程を楽しんでいるようだ。つまり、自分自身のワザを楽しんでいるのである。
 
一方、女性は、老後の解放感というのは感じにくい。家事から解放されたら、女性自身が存在価値を感じることができなくなったりする。周りから期待されなくなる、無視される、立場が弱くなる、などなどで、老後の女性は、メンタル悪化の因子が多い。
女性の生きがいは、他人からの評価だ。その評価が得られなくなると、女性のメンタルの悪化が進む。
 
つまり、老後の女性が、同じく老後の男性を見習いながら、意識すべき習慣は、自らで自らを評価する癖をつけておくことではないのだろうか?
 
「もう何も何もやる気がしなくて、悲しくて、悲しくて・・・いっそ、電車に飛び込んでしまおうかと・・・」
死にたい願望の70歳過ぎの女性の話を聞いたことがある。しかし、一方で、この老人は、「私が外出しようとすると、危ないからと言って、娘が私を外に出さないんです」と不満げに言った。
 
「心配してくれる娘さんがいるということはすばらしいことじゃないですか?電車に飛び込んだら、どんなに娘さんが哀しいか、考えてあげてくださいよ」と、コメントできる話である。
 
自らで自らを評価する癖をつけておけば、自分が人生でなしとげたもの、自らの実力で築いたものを思い返すことができる。
 
誰もほめなくても、そうした達成感を持って、自分で自分をほめていく癖が良いのではないか?本人の実力の限界も見えてくれば、あきらめと悟りの境地にもなるだろう。
 
男性の老人は落ち込んでいても、他人に死にたいとは簡単に言わないのだろう。
その理由を想像してみると、男性は「俺がそんな事を言っても、相手は困るだろう、どうせ、相手は、ロクな回答をしないだろう。」と、予想しているからではないだろうか?
 
女性も、男性同様に、悟りの境地に至るは可能であると思う。
老後の女性の自殺を減らすには、自らをほめる癖を生かすことではないだろうか?
 
 
“テレビやドラマには、生き方参考書みたいなもの!”
と、このところアナ雪、ウッディアレンなどの作品を引用して、書いている。
しかし、ニュースやドキュメンタリーは、もっとストレートな生き方の指南集である。
 
先日、民放のテレビ局が、北朝鮮の現地レポートをしていた。
首都・ピョンヤンの街中を、日本のテレビディレクターか、当局が指定した北朝鮮ガイド付きで廻って、映像に収めたものである。
この番組では、北朝鮮の大きな室内プール、乗馬センター、猪木のプロレス興行などが紹介されていた。
 
日本で、この番組が放映された時、スタジオのキャスターやコメンテイターは、ほとんどコメントしなかった。
彼らの表情を読み取るなら、内心のあきれた思いを隠して、あえてコメントせずという雰囲気であった。
マスコミ関係者は、拉致問題などで微妙になっている北朝鮮との関係に配慮してるからだろう
しかし、このテレビ映像は、もくろみ通りに “北朝鮮は、やはり特殊な国!”というメッセージを、十分に伝えていた。
 
以前の北朝鮮の映像というと、北朝鮮自体が国外向けに作った映像であった。美しい民族衣装に身をつつんだ美女の歌と踊りや、壮麗な建物などが紹介されるといったものだった。
日本人から見ると、取りつくろった自慢話的な映像という印象しかうけなかった。
こうした過去の映像と比べると、今回の北朝鮮の海外向け映像は、変化してきていることは認めるが、相変わらず、作られた暮らしの紹介であった。
 
町を歩く人々が身につけているものは、皆、こぎれいで、若く、姿も美しい。美しい女性と子供をつれて胸を張って歩く制服の男性や、スカート姿の美しい若い女性たちがめだった。恐らく、首都に住む人たちは、外出の時には、きれいな服を着て、女性は化粧をするように指導されているのだろう。
 
猪木がしかけたプロレス観戦も、一群の美しい女性たちが並んでいる。政府高官が訪問したりする時に、広間の扉をあけるのは、美しい若い女性たちだ。こうしたものは異様な光景だ。
 
子どもにインタビューをすることが許されたということで、この番組のディレクターは、制服を着た小学生に、マイクを向けた。
 
ディレクター 「将来、何になりたい?」
小学生 「科学者です」
ディレクター 「将来は、どういうことをやりたい?」
小学生 「将軍様のお役にたつことをしたいです。」
 
答える子供には、脇に若い教師がぴったりついていて、手で子どもにさわりながら、子どもが答える内容をその場で教えていた。そして、子どもは、教師の教える通りに話した。
 
それは、異様な光景ではあるが、この異様な光景を、異様と思わない現地の教師の感覚が恐い!
この映像が海外で流れた時に、見ている人に与える印象を、この教師は、どの位、予想しているのか?
 
いや、しかし、待てよ。この教師は、あえてこうした態度をとっているという可能性はないのか?
もし、この教師が国の窮状を世界に訴えたいなら、子どもが強制されて答える映像は、世界にインパクトを与えるはずだ。北朝鮮の窮状を、世界に発信するのは、有効ではないか?
 
北朝鮮では、直接、政府を批判することはできない。しかし、そうした現状を逆手にとって、あえて子供に対しても強制する国との映像を流せば、今の窮状をアピールできるかも・・・と考える人はいるのではないか?
 
もし、子どもの発言をコントロールする教師が年配者であるなら、ますます、そんな気がしてくる。
苦しい人生を生き抜いた高齢な教師は、国の窮状を世界に知らせようとするかもしれないが・・・。
 
もっとも、政府高官を除き、高齢になれば、首都には住めないのかもしれない。若く、美しくなければ価値がないとする社会なのだろうか?
 
テレビ画面の若い教師は、国への貢献という教育方針を第一に考えていないかもしれないが、どの位の本音なのかは見えてない。いづれ、教育者として疑問に思う時は出てくるだろう。この教師の周りでも、国内問題が、いろいろに起きているのではないかと想像する。
 
北朝鮮当局は、日本向けに自慢をするために、撮影を許可したわけだが、実は、映像を見ている日本人は、全く別の視点で見ている。
提供した人(北朝鮮当局)の意図と、受け取る側(ニュースを見る日本人)の感情との間の、ギャップは相当に大きい。
このニュースは、情報を持たないことの哀しさを、世界に発信している。
 
 
今の北朝鮮は、世界中から、国のあり方を問われている。閉鎖国家での話だが、これを見ていると、私たちの周りでも、似たような状況は起きていないかが気になる。つまり、人が努力をしているが、周りから見れば、何か方向が違うという状況である。しかるべき情報を持てないが故に、人の行動する方向性が、ずれている状況である。
 
現在の日本であっても、個人の単位として置き換えれば、一般人でも問題行動をしてしまうことがある。そんな時、この映像を見て、ふっと自分の問題点に気付くきっかけになるかもしれない。
 
周りの思惑が見えて、自らの逸脱に気付けば、行き詰まっている現状の克服は早い。
 
北朝鮮でなく、一般的な国であればなおさら、個人の思いこみの強い行動では、人の支持は得られない。
さらに、その行動の逸脱が大きい場合には、周りに人は、誰もコメントせず、ただ、あきれているかもしれないのだ。
 
こうして、ニュースも、個人の気づきのためのお役立ちツールとして、いろいろ、機能していそうだ。
 
前回、前々回と、本ブログで、ウッディアレンの監督、脚本、主演映画『僕のニューヨークライフ』を紹介した。
主人公のメリンダは、女優をめざす若い女性で、摂食障害、タバコ中毒、パニック障害を持つ。
彼女は、恋愛を含め、行き当たりばったりの生き方をしていて、その行動は、思慮深い男性たちからみれば不可解だ。
 
この映画に中には、メリンダが呼吸困難を起こす場面が出てくるが、そのパニックシーンが興味深い。ストリーの中で、メリンダは、同棲中の男性と性的な関係を持つことができなくなってしまう。他に愛人ができたからであろう。しかし、そんなことを知らない同棲相手の彼は、場所を変えれば、彼女の不感症がとれるかもしれないと考え、高級ホテルの一室をとる。
 
しかし、性的関係を持ちたくないメリンダは、その場面で、パニック症状である呼吸困難を起こす。
その症状は、ひどく呼吸が苦しそうな様子だ。メリンダは、ひゅんひゅんと音を鳴らしていて、それはのどがつまっているような声を出しているのである。
メリンダは、苦しそうに咳こみながら、部屋を歩き回る。
メリンダは息が苦しいから、そばに来ないでというメッセージを男性に送っている。
 
いやなことは、病気を理由に逃げたいと考えているメリンダの心因反応である。本人も、実際には病気になった気分になっているだろう。
 
もし、こうした様子をみたら、これはヒステリー発作だと思った方が良い。彼女は、実際の呼吸困難に陥っているのではない。それを学ぶには最良の動画である。
 
呼吸が苦しい時には、人は低酸素になるため、ふつう動けなくなる。歩き回ったりできない。座り込んだりするだろう。ひゅんひゅんと、のどがなる様子もおかしい。声をだしているのである。呼吸困難の時には、気道が狭窄するので、その音は聞こえるが、声をだすことはできない。声帯が狭くなると、音が聞こえるが、それは息を吸う時に出る。
 
本物の呼吸困難と、にせの呼吸困難を見分ける時の、参考の動画として勉強して欲しい。
 
人は、気管支や肺が全く正常でも、呼吸困難を感じることができる。これは、呼吸困難と呼ばれる。いわゆる、パニック発作の一種である。
人の肺は十分な量が用意されているので、本当の呼吸困難が起こるとすると、相当に肺のダメージが重症で、短時間で軽快する事は少ない。
 
実際の肺や気管支によほどの病気イベントが無い限り、呼吸困難は起きない。
しかし、呼吸困難感は容易に起きるし、すぐ軽快もする。
呼吸困難感は、単に、脳が苦しいとかんじているだけなのである。
脳はどのような病気も作り出すことができる。
 
メリンダを演じている女優は、実際のパニックやヒステリー発作を見たかもしれないし、演技指導をうけたかもしれない。メリンダ役の女優は、すばらしい演技力で、呼吸困難を演じている。女性が病気を理由に、男性から逃げる時に、呼吸困難を演じることは有効な手段だ。
 
このようにストリーのなかで、メリンダが突然に呼吸困難になったため、同棲相手の男性は、びっくりして、急いで救急病院に駆け込む。彼女は病院につけば、すっかり症状は良くなっている。それでも、診察した若い医師は、あれこれと、メリンダの体をさわりまくる。
結局、このストリーの最後では、メリンダはこの医師とも、関係をもつことになるのであるが・・・。
 
日常的に、健康な女性であれば、呼吸困難など起こるはずがないが、パニック症状としての呼吸困難に悩まされる女性は少なくない。
不安をかかえていたりすると、突然、呼吸がくるしくなる人がいるのだが、呼吸のしくみを学べば、安心できるかもしれない。他の不安の元を解決するのが良いのである。
 
男性は、動きまわれる女性の呼吸困難を見た時には、おかしいなあーと考えて、その時は、女性を落ち着かせるとかの取るべき態度を考えて欲しいものである。
 
ウッディアレンの監督、脚本、主演映画『僕のニューヨークライフ』(Anything Else)の続きである。
 
前回、ブログで次のように書いた。
 愛や性的魅力を失った中年過ぎの女性の行きつく先は、厳しい。
ヒロインのメリンダが、中年を過ぎたら、悲惨な人生になっているのではないか?と考えてしまう。
 
この映画の、女性ヒロイン(メリンダ)は、過食症、タバコ中毒、不眠症、パニック障害がある。
自らの感情や欲望をコントロールすることができない。しかし、若いメリンダは、心のコントロールできなくとも、友達も恋人もいる。
こうした仲間たちがいなくなったら、メリンダはどうなるのか?踏み台にしていた恋人も去った後、彼女はどうなるのか?
 
ここから、彼女の長い苦しい人生が始まるだろう。そして、自らで解決に向かってほしいと、観客の女性は考える。女性にとっては、その後のストリーの方が、おもしろそうだ。
 
女性が結婚していたら、中年後に、悩まされるのは、マンネリ化した家事であろう。家事が楽しいと思うかは、その人次第であるが、女優を目指していたメリンダなら、家事はつらいものだろう。
 
人は誰でも、自己主張と自己満足が得られなければ、メンタルは悪化する。
 
やる仕事は、自らが評価でき、自発的にやる気が起きないと、こなすことが苦しいのだ。
これは、男性でも同じであろうが、心に沿わない人生が続けば、メンタルは悪化する。
 
家事をほめてくれる誰か、あてにしてくれる誰かがいれば、女性は、家事もこなせるだろう。
しかし、努力しても、けなされる、怒られる、当り前と思われる、無視される、という毎日では、女性のメンタルは悪化する。
 
今、定年後の夫の昼食の世話をすることで、主婦の“昼食うつ“というメンタル悪化があると言う。
夫は、悠々自適に暮らせる一方、妻は13食の準備が重荷になる。
 
妻は、夫が働いていた時には、夫の世話をやくことは自らの仕事として評価していた。
しかし、妻は、定年後の夫には、こうした評価ができなくなるのであろう。
妻は、自由にしてきた昼時間帯が無くなり、自己主張、自己満足の機会が削られる。
 もっとも、夫と一緒にいれる時間がうれしいと思う妻もいるかもしれないが・・・。
 
しかし、男性と、安定した関係を築けなかった女性は、どうであろうか?
 
結婚、離婚にかかわらず、1人で暮らす中年過ぎの女性は、社会的に、自己主張が認められなくなり、自己満足も感じることができなくなる。
 
サポートしてくる人も少なくなった環境で、女性は、メンタルトラブルをうまく処理できなくなっていく。
起きてくる症状は、潜在的なものから、明らかな病気に至るまでさまざまである。
 
先日、たまたま電車で、私の前に、40歳位のがりがりにやせた女性が座っていた。
外から見えるのは、筋張った首筋、足の膝の部分のみで、顔はほとんどを隠していた。細い顎のみがのぞく深い帽子をかぶっていた。
 
ここまでなるには、そうとうメンタルでつらいと感じる毎日だったのではないか?、この人の身体表現は、何かから逃れたいのではないのか?やせていることで、何か救われていることがあるのではないか?」
と、私は、勝手にあれこれと想像した。
 
その彼女が、日焼け止めの長い手袋をはめたままの両手で、何やら細いものを何度もぞもぞとさわっていたが、ストローであった。
 
やせた彼女は、胸に抱えていた袋の中にいれてあった飲み物らしきものに、そのストローをさして、飲み始めた。ゆっくりと、水分を吸っている様子であった。
この様子が、やはり、不自然だったためか、隣にすわる別の中年女性も、ちら見をしながら、気にしていた。
 
私は、なぜ、彼女は、電車の中で、水分をとるのだろうか?と考えた。彼女の飲んでいたものは、彼女の大事な流動食かもしれないと考えた。
今の彼女の生をささえる大事な食べ物かも・・・と考えた。それをなぜ、彼女は電車内で飲むのか?
 
恐らく、電車内で飲むことで、彼女は吐きにくくなるのではないか?
彼女は、電車内で飲めば、吐かないで済むと、自らにおまじないをかけているのかもしれない・・・。
 
この私の妄想が正しいかどうかは、知る由もないが、彼女は、とにかく悩んでいる。
彼女は、自らの体を犠牲にしてまで、逃れたいものは、何なのだろうか?
 
女性は、逃げたくても、境遇的に逃げられない場合がある。
家事がつらい、努力した仕事をけなされる、夫から性的要求がつらい、体をけなされる、家庭内暴力 などなど、女性特有にかかえる悩みがある。
いやでも、いやだと言えない境遇である。
そんな時の女性は、体の病気を理由にするしかないのだ。
自己犠牲をしてまで、後に引けない捨て身の主張をしている。
 
女性の更年期障害と言われる症状も、こうした望まない環境や、妥協の毎日のつらさに根ざした悩みであることが多いようだ。
 
新聞広告で良くみる痛み止めと称する漢方薬がある。この広告は、いろいろな種類の家事をする女性をイラストで描いている。拭き掃除で腰の痛み、台所仕事で肩の痛み、肘の痛み、手首の痛みを訴えている女性の姿をさまざまに絵がいている。
広告は、こうした女性の家事に伴う痛みに、大変、効果があると謳っている。
 
女性は、毎日、同じ事のくりかえしの家事が、いやで、いやでたまらなくなる事があるのだろう。そんな時、痛みを訴えることで、仕事を手抜きしたり、自らの義務感を納得させたりできるのだ。
 
西洋薬の鎮痛剤では、胃がわるくなったりしてしまう。副作用も気になる。
しかし、西洋薬の鎮痛剤に比べれば、漢方薬は効いた気分にさせるだけのもので、副作用は起きにくい。
そして、治療しているという満足感を、女性に与えてくれる。
漢方薬は、効果が無くとも、痛みを正当化してくれるツールである。
 
大変な病気になってしまった女性も、潜在的な症状で止まる女性も、メンタル的な葛藤は、体の症状へとつながる道筋をつくる。それを一番、良く気付く事のできるのは本人自身である。
 
だから、解決すべき手段についても、その人自身が一番多くのヒントを出せそうに思うのである。こうした悩みは、男性医師には理解が難しいものではないだろうか?
 
映画やドラマは、生きるためのメッセージやヒントにあふれていると、前回ブログで書いた。
作家は、主人公に、逆境のストリーを設定し、主人公がそれを克服する様子を演じさせる。
 
観客は、映画やドラマの世界にはまりながら、自らの現実の生活では、失敗や破滅が起きないよう想像力を高めている。
 
先日、観た映画、ウッディアレンの監督、脚本、主演映画 『僕のニューヨークライフ』(Anything Else) はこうした志向とは、やや違う。
 
2003年のアメリカ発のこの映画は、監督の強いメッセージを、映画の使命としている。
男女の本質的な違いを、怒りをこめて描いている。今回は、この映画をコメントしたい。
 
この映画は、ウッディアレンが、実生活で経験してきたであろう、女性への怒りがぶちまけられている。
女性は、わがままであり、かつ、考えに一貫性が無い!と、女性に対する怒りをつづったものだ。

映画は、女性のわがままを これでもか! これでもか! と、ストリーに入れ込み、観客にメッセージを送っている。
 
ウッディアレンは、男女の違いを描いて、“こうならないために、どう生きるのか?”の命題を、世間に問いたいのだ。
 
観客となる世の男性には、女性にはあきらめろ!との教訓を送り、一方、観客となる女性には、傷つく男をもっと良く知れ!というところか?
 
ウッディアレンは、永続的な男女間の愛に、絶望感をつきつけている。
日本も、男女の個人主義化は進んでいき、先を行くアメリカの男女関係から、教わる事は多そうだ。
 
若いうちは、男性は、女性の性的魅力にふりまわされざるを得ない。
これでもか、これでもか、と繰り返される若い女性の身勝手な行動から、映画が始まる。
 
そして、その後も、女性のわがままが続く。ウッディアレンは、男性にとって求めざるを得ない存在として、女性を登場させ、この魅力ある生き物に対する怒りを描いている。
彼は、女性の知的能力の欠如も、問いたいようだ。しかし、それは、全く、男性視点である。
 
これが女性視点であれば、解釈は少し変わってくる。
女性に同情的になるのだ。女性を責めても、しかたないでしょうということになる。
 
特殊な場合を除けば、男性を虜に出来る女盛りの時期は短い。無条件で、女性が男性から求められる魅力は、女性が努力して獲得したものでもない。
この短い期間だけとらえて、こんなに女性を非難がましく描かなくて良いではないか?と感じるのである。
この短い時間に限って、女性は特別の能力(魅力)を発揮できる。
美人であれば、能力の量が多く、長続きするが、美人は失うものも多く、落ち込みも大きいだろう。
 
そして、結局、愛や魅力を失った中年過ぎの女性の行きつく先は厳しいと、女性は考えてしまう。
ヒロインのメリンダが、中年を過ぎたら、悲惨な人生になっているのではないか?と、女性は予想する。
わがまま顔で、通っていた人ほど、その悲惨さが増す。
 
女性の愛情は、元々、終始一貫はできない。女性の価値観は、男性のさまざまな状況に左右される。
女性が、評価できる男性とみなせば、愛情も伴うのだ。
 
やさしい人であるとか、思いやりがあるとか、女性を大事に扱う人であるとか、イケメンであるとか、有能であるとか、世間から信頼されている人であるとかは、女性が愛情を持つために大事な条件だ。
 
さらに、夫に社会的立場があれば、妻は人生の満足感を味わえるであろうし、お金があって安心でリッチな生活をさせてくれる夫なら、妻の誇りだろう。
 
しかし、愛情を抱いたとしても、その男性が変化していき、その影響を受けて、女性が変化していく。
男性の価値が変動することによって、女性の愛も変わっていく。
 
状況に応じて、女性が、その男性を好きになったり、嫌いになったりしてしまう。
大事にされないと思っている女性が、他の男性から大事にされれば、そこにおぼれたりする。
女性にとって、終始一貫した信念を持つ事が難しいのだと思う。
終始一貫した信念を貫くのは、女性には難しいのだ。
 
この映画の、女性ヒロイン(メリンダ)は、女優の卵である。過食症もあり、タバコ中毒、不眠症、パニック障害もあり、こうした女性を妻にすると、男性は苦労するタイプの女性だ。
 
一方、主人公の男性は、この彼女(メリンダ)の性的魅力に取りつかれていて、二人は同棲している。
彼女の方から、母親連れで、男性の部屋に押し掛けたような関係だ。
 
同棲しているメリンダから、男性は、ひどい目にあわされても、彼女を求める。若い美しい彼女は、彼を踏み台にして、安心して人生をすごす。
映画でも、彼女はまったく身なりにかまわない。しかし、それでも魅力的なのである。
 
この彼女が、仕事で知り合った男性としじゅう浮気をする。恐らく、彼女は、女優として成功するために、男性との関係を持つことを利用しているようだ。
 
メリンダは、利用していると言うより、別の男性に魅力や愛情を感じてしまうのだと思う。仕事上で、必要だったり、尊敬できたりするからだ。しかし、新しい恋人との関係が破たんすれば、又、元の男性に戻ったりする。
受け身で生きる立場では、こうした変わり身の早さは、しかたない面がある。
 
メリンダは、同棲相手の男性に、魅力を感じる時もあるし、邪魔に思うこともあるのだろう。
それは、男性から見れば、女性の一貫性の無さ!、女はひどい!ということになる。
しかし、女性は一貫性を持って、人生を過ごす実力に欠けると言った方がよいかもしれない。
 
女性は、不安を持ちやすく、情緒も不安定になりやすい。それも、自分で、そこから脱するためのスキルに欠けるからだと思う。
 
この映画には、精神科医師も登場する。その治療の様は、全くひどいと、ウッディアレンの声が聞こえそうである。現実のウッディアレンが、自ら受けた精神科治療が、全く無力であったとの過去の経験を持つのだろう。精神科治療を非難したいようだ。
 
実際の精神科医とのやりとりの経験を元に、ウッディアレンは、脚本に書いたと想像してしまう。
 
映画では、患者が医者にアドバイスを求めているのに、それに医者が応じられない。精神科医は、ウッディアレンを「なるほど!」と思わせるような意味ある言葉を、一度も吐けなかったのか・・・。
 
映画の中では、夢判断を治療の手段としていた医師が登場する。
この映画がつくられた時代には、夢分析を用いた治療法が、ニューヨークで行われていたらしい。
費用のかかる治療法であるだろう。凡庸な精神科医が、夢判断のようなまやかしに近い手段を使って、治療を長引かせ、治療費をかせいでいる!と、映画監督は、怒りのメッセージを送っているようだ。
凡庸な患者が相手なら、夢分析が機能するが、俺(ウッディアレン)には、機能しないぞと言いたいようだ。
 
しかし、現実問題となると、精神科医は、人生相談役ではない。
ウッディアレンのようなクライアントが受診すれば、精神科医は、躁病の患者として、治療の対象と考えるであろう。実際に、ウッディアレンは、自らを躁病の患者として、画面に登場させている。
つまり、患者には、病識もあるのである。
 
しかし、医師が、治療の必要性を説いても、クライアントが躁病の苦しさを自覚しない状況では、クライアントから逆襲が来そうだ。
 
頭が良くてすごい記憶力、そして雑学的知識の宝庫のウッディアレンを前に、凡庸な精神科医であれば、治療効果をあげるわけはない。クライアントの方が、博学で実力が高い場合には、治療が機能しない。
 
これと似たようなことが、最相葉月の“セラピスト”にも、でてくる。メンタルトラブルに悩む最相葉月は、箱庭療法治療を行う臨床心理士に、不満と不信感を感じたと、“セラピスト”に書いている。
 
以前、本ブログに、私は、最相葉月の“セラピスト”について次のように書いた。2014/4/20(日) 午後 6:00
著者の最相は、臨床心理士の仕事ぶりに、疑問と不信感を抱いている。
最相は、カウンセラーの平凡さにがっかりしている。最相の方が、人の心を必死で考えているからだろう。
箱庭療法のように、型があるやり方では、耐えられないのだ。
 
結局、能力のある人は、他人の仕事ぶりに満足せず、自らのメッセージを社会に発信するしか無いらしい。
映画を作ったり、本を書いたりである。
 
ウッディアレンに代表されるように、映画は、社会へのメッセージを発信する重要なツールだ。
アナ雪の映画で、伝えたいメッセージは、
「気持の持ちようで、人生の生き方は変えらえる」
 
「心の苦しさ(メンタルトラブル)は、自らで作ってしまうものであり、悪く、悪く考える方向に向かう。
苦しい経験をしても、その経験を生かせれば、メンタルトラブルが克服できる!つまり、苦しい体験は、無駄にはならない」
 
「欠点を隠さず、オープンにすることで、欠点は長所となりうる」
 
「すばらしい才能を持っていても、それに気づかず、忌み嫌ったり、隠そうとすれば苦しい。
自然体でない生き方は、苦しい人生を送る事だ」
 
エルサは、王であるべき姿にとらわれ、いつも、落ち着いていて威厳を保ち、人々の尊敬を集める人でなければならないとのプレッシャーに取りつかれていた。さらに、忌み嫌う自らの能力を、隠さなければならないと感じていた。
 
自然体でない人生を送っていることに気づくまでに、エルサは苦しい戦いを重ねた。その苦しさを経て、自然体で生きる術に気づいた。アナやクリストフなど、他人の愛があった。見返りを求めない愛は、すばらしい結果を生む。結局、エルサが、ここに気付いて、このストリーは終わる。
 
劇中歌「Let It Go」は、エルサの苦しい気持ちを歌ったものだが、その前にも、エルサの心の苦しさが歌われている。責任感でつぶれそうになっている悲観的なエルサと、楽天家で自然体のアナとを対比させながら、ストリーが進んでいく。
 
城の門を開け、人を受け入れるということが、アナはうれしくてたまらないのに、一方、エルサは苦しくてたまらない。アナとエルサの掛け合いで歌うデュエット曲で、二人の相反する気持ちが、美しいメロディに乗ってつづられていく。
アナのはじける喜びに、エルサの恐れが重なる。このデュエットの曲も良い。
 
プレッシャーのかかるエルサは、ついに大事な戴冠式の日に、感情をあらわにしてしまい、それまでの努力を水の泡にしてしまう。
人々から恐れられ、いたたまれなくなった傷心のエルサが、山に逃げていく。
必死に逃げるマントのたなびく後ろ姿が、せつなく泣ける。
 
無理な努力、無駄な努力、間違った努力は、努力をしても、成果は生まない。
ヒロインのエルサは、「神は努力する私を見捨てた!と歌う。
この先、このストリーはどうなるのか?と観客は映画に引き付けられるだろう。
 
決意したエルサは、山の奥で、ひとりで新たな生活を始める。エルサが築いた新しい城は、美しく虹色に耀く氷だ。この城をつくる場面は、子どもの観客にとってもわくわくする楽しい場面であろう。
子どもは、全体の意味が必ずしも理解できなくても、アニメの醍醐味が味える。
 
 アナが、エルサに自信を持たせようとがんばる努力が、逆にエルサを追い詰めていく。
アナの言葉が、エルサには氷のトゲのように突き刺さるのである。
エルサの心は、苦しくて吹雪が吹いているのに、アナは、そこに気づくことができない。
良かれと思った努力でも、相手の気持ちが見えなければ、まずます相手を追い詰めることになるのだ。
この映画は、それを言いたいのだろう。
 
心を病む人の周りの人は、病む人の反応を良く見て、取るべき態度や言葉などを、臨機応変に変えたら良い。
これも、映画からのメッセージだ。
そうした臨機応変のすばらしさを発揮できるのは、クリストフである。
男は、言葉に出さずとも、良く見ているというところか?
 
他人を傷つけたくないとの思いで、新生活を始めたエルサだが、その城ですら、兵隊たちからの攻撃を受ける。
特に、二人の邪悪な兵士に、執拗に追い詰められる。この時の、戦うエルサの表情が良く描かれている。
エルサは、氷の魔力で防戦するが、エルサの顔はとても苦しく、恐ろしい形相で描かれている。
戦うエルサは、大変なストレスを感じており、そこには、戦いの高揚感はない。
 一方、兵士たちは、自らの命を顧みず、エルサを仕留めようとの高揚感に溢れている。
 
戦場で、男性は高揚感を感じるが、女性は感じないという。 戦いの場における、男女の違いを良く描いている。男性のメンタル、女性のメンタルをしっかりと、描き分けていると思う。
 
アナは、プレッシャーというものを感じない性格を代表する人だ。
大胆で楽天的な性格で、迷いがない。
大きなことを達成するには、大切な資質であるが、緻密な準備や、たゆまぬ努力は苦手とする。
 
人の上にたつ立場である王となれば、エルサとアナの両方の資質が必要であろう。
このストリーの最後は、二人の姉妹の資質が協力し合い、繊細かつ大胆な指導者たちとなり、国は安定し、めでたしめでたしである。
 
国王と言わずとも、一般人が、家庭をつくり、家族を育てる場にも、この二つの資質が必要だ。一家の主となれば、長い人生の間に、多くのイベントが起きる。
 
映画やドラマは、生きるためのメッセージやヒントにあふれている。
作家は、映画やドラマの主人公に逆境を設定し、どう克服していくかを、手を変え、品を変えて、物語を作る。
観客は、映画やドラマの世界にはまりながら、現実の生活で失敗や破滅をしないようにと、想像力を高めている。
 
同じ様に、他人のスキャンダルも、おおいに、人生の参考になるものだ。有名人、富豪、権力者が、お金、恋愛、薬物、病気などにまつわり、いろいろなスキャンダル事件を起こす。こうしたものは、一般人の興味をそそる。
 
実際に、世界で起きるスキャンダルは、実に多くの生々しいヒントに溢れている。
耀いていた有名人が、その栄光の座から滑り落ちる経過のストリーは、特に人気が高い。
 
スキャンダル報道は、マスコミのドル箱的な存在である。
スキャンダルは、人をひきつけてやまない。
 
多くの人は、スキャンダルでつぶれた有名人に興味をもつ。
観客は、他人の失敗を楽しむだけではないし、覗き趣味だけでもない。
スキャンダルは、失敗への筋書きを、人々に教えてくれるから、興味深いのである。
だから、人々は、スキャンダル報道を求め、パパラッチの活躍の場も無くならないのだろう。
 
一般の人が望んでも望めない才能、富、名声などを、獲得したはずの有名人が、なぜ、それで満足せず、脱落してしまうのか?落し穴は、どこにあるのか?
見たり聞いたりの一般人は、さまざまな思いをめぐらすことができる。
 
有名人がこうならないためには、どうあるべきだったのか?などなど・・・。
 
多くの事件を報道するテレビ番組では、コメンテイターの質が重要だ。
コメンテイターは、説得力を持って共感するできるコメントを語れるかが、勝負である。
 
男が一方的に女を養う男女関係では、高等生物は進化しない。そうした事を前回のブログ2014/6/7(土) 午後 10:23に書いた。

男女の力が拮抗することで、知的生物の進化が進む。男女に限らず、社会生活は他人があって成り立つが、戦うことの好きな男が好き勝手につき進み、抑止力が無ければ、人類は破滅に進みそうだ。
 
女性は、男性に拮抗する能力を獲得してきた証拠に、女性の小さな体と頭は、次第に大きくなり、知的能力を増していった。そして、女性は、言葉をあやつる能力が高くなった。子育ての時に、母親は言葉を使って、子どもに教えていく。
 
人類は、女性にも能力がつくように進化してきたが、今だに、体力と脳力(知力、能力)において、男女の違いは大きい。
この男女差が、しばしば、女性が男性に泣かされる原因を作る。生活の糧をかせぐという点で、女性は男性にかなわないのである。女性のコンプレックスは、生物的なものだ。しかし、男性から、それをあからさまに告げられた女性は傷つく。、
 
世の慣例、あるいはエチケットとして、明らかすぎるものは、そこをあえて指摘しないというのがある。かせぐ男性は、そこを誇示しないし、子供を産む妻は、夫に恩着せがましい態度はとらない。二人の人間の間には、明らかな能力の差がある場合には、そこに触れないようにする配慮もある。
 
しかし、男性が働き盛りで、収入が多い時には、男性はそれを誇示し、家庭内で権力を使いたがるかもしれない。
その最たる言葉が、「俺が食わせてやってる!」である。
 
もちろん、そうした言葉を発しない男性も多いが、そうした男性は、長い将来を見据えて、女性の心を想定できるからではないだろうか?つまり、賢かったり、軽率ではないからだろう。
 
男性が家族に、恩着せがましい言葉を吐く時の条件を考えてみよう。家族が評価しないと感じる時、男性自らのメンタルエネルギーが低下した時、収入をえるための努力がきつい時、自らの能力の低さを悟る時、などなど・・・であろう。
 
先日、テレビで家庭内別居の番組があったそうだが、そのきっかけは、夫の吐いた「俺が食わせてやってる!」という暴言だったそうだ。
 
夫から、こうした暴言を吐かれたという女性は、私の周りにもいた。それほど、めずらしくもない言葉かもしれない。家庭内別居をしてまで、妻が腹を立てるなら、その前に、妻は反論しなければならない。
 
夫婦は、長い間、一緒に暮らすのだから、お互いの言い分は交換しあって、相手の価値観を理解しあわないと続かない。
 
妻は、暴言する夫の様子や状況を良く観察して、夫の暴言を無くす方向への努力が必要だ。そのために、妻は反論に工夫する。夫が、聞く耳を持つような反論が必要だ。
 
家庭内別居で、同じ家に住みながら、だまって、何も言わないでいると、ストレスは増強する。無言でいるより、妻は気持ちをぶつけた方が良いと思うが、妻の立場は弱い場合が多く、うまい落とし所を見つけることが必要だ。
 
妻が反撃する際、夫が何に反応するか、言葉や様子を良く観察したい。そこに、落とし所のヒントがあるだろう。
 
女性はしゃべる力が高く、本音でものを言える特徴がある。一方、男性は、しゃべらずとも、相当にいろいろな事を頭で考えている。夫が後悔しているなら、夫がそうした言葉を言わずとも、態度に出るから、その時はチャンスだ。
 
妻は、仕事上、夫が、体やメンタルに追い詰められていないかを探りながら、ひるがえって、妻自身の問題点を反省する。
妻が理不尽な言葉を吐いていないか?などを考える必要がある。
 
家庭内別居を決め込めば、妻は、強い怒りを示すことができる。つまり、一番、言われたくないことを言われたとのつらさを、無言で抗議できる。しかし、それは、自らの弱い立場をさらけ出すことでもある。夫へのメッセージにはなるが、苦しい時間が長くなり、仲直り後もつらさは続く。妻は、相変わらず、夫の収入に頼る生活を続けることになるからだ。
 
それならば、妻の作戦はあるのか?
 
妻は、夫の言葉が事実であるからこそ、傷つくのだということを言葉でしっかり伝えるのが良いように思う。夫は、妻の感じるようには感じていないからだ。言葉で、お互いの理解を深めるしかない。
 
あからさまの事実を言葉にしたら、おしまいというのがある。寅さんの言葉にも、「それをいっちゃあ、おしまいよ!」である。

「そんな事を言う男性は、最低だわ」は、妻の上から目線の雰囲気だ。
他人の弱いところをつくなんで、最低だわ」とかも、上から目線だ。こう言われた夫の頭の中は、「おまえ、そんな偉そうに言える立場か?」
 
むしろ、「私の弱いところをつくのは有効よね。でも、言われた私は傷つくわ」の方が良さそうに思う。
「収入が無い立場の人間にとっては、その言い方はきついでしょう」と、つらい気持ちを伝えたい
そして、妻の気持ちを知らせる。やむをえず、踏み込んだコメントも、時には必要だ。

「私もあなたにしてあげていることが、家事以外にもあるけど、考えた事ある?社会人としてのあなたであるために、私も一役にかっているのよ。気付いている?」
 
夫の反応がいまひとつだと思ったら、妻は、さらに率直に、気持ちを告げてもいいのではないか?多くの夫は、こうしたことを言われる前に、妻の言い分に気づくはずだ。

「あなたは、家庭を持つ社会人として、世の中から認められているじゃないの?それって、私の努力はどうなの?でも、私はそんな恩着せがましいことを、言ったりしたくないわ。」
 
相手が傷ついたと感じた時は、短時間で、視点を変えることも必要だ。

「今後も、あなたの収入には期待しているから、がんばってほしい。だけど、私もがんばらなければという気持ちになったわ」
 
「あなたに才能と収入がある限り、あなたはそれを誇れるわ。だけど、あなたに収入が無くなった場合には、私ががんばるわ。頼りにしてちょうだい。でも、その時は、食わせてやってる!と私に言わせてよね」 とか・・・。
 
暴言を吐いた夫が、「言わないでおきゃあ、良かった!」とか、「こうした恩着せがましい言葉を吐くのは、恥ずかしい事だ!」と、思う方向をめざす・・・。
 
但し、女性にとって、男性心理を読むのは難しいことだろう。だから、妻は、素直に気持ちを告げる作戦の方が良いと思う。
 
いづれにしろ、家庭内別居の後も、妻は扶養される生活を続けるしかないのだから、そこをふまえて、妻は落とし所をさがす。だんまり作戦など、余裕の無い展開に持って行くのは、そのあとがつらくなる。だんまりを続ける程、フォローが難しくなる。
 
妻が、「どうにもならない夫だ!」と、冷たい態度をとるなら、それも良いが、”この妻にこの夫のカップル”でしかない。
 
夫に問題が多くとも、妻が夫との生活を続けると決めるなら、「私さえ我慢すれば良いのだ!」と考えるのは、止めたい。相手の我慢も、よく知って、楽しくないけどつらくない毎日としたい。自らで決めたことだから。
 
男女双方に問題山積と自覚できれば、自らのストレスを減らすことができそうだからである。
 
劇中歌「Let It Go」の日本語訳は、“ありのままに”だが、「Let It Be」の方が、この日本語訳の、“ありのまま”に近い。
もちろん、この題名のビートルズの歌があるため、この題名をつけるのはだめである。
“ありのまま”には、日本語による意訳である。キャラクターの口の開き方とも、あわせたと言う。
 
「Let It Go」は、風だの、嵐などの自然現象は、共通だが、エルサの気持ちは、英語のオリジナルからかなり変えられている。映画の解説書にも、左の英語と、右の日本語の歌詞が並べてあるが、正直言って、訳ではない。左と右で、意味が違う。
 
日本語訳だと、彼女自身で決意して、生き方を変えたとの印象だが、英語では、そうは言っていない。人々に魔力がばれてしまったので、エルサは、生き方を変えざるをえなかったのである。英語の方が、エルサの苦しさを、ストレートに言葉にしている。
 
英語の「Let It Go」の本来の意味は、もう少し、積極的な行動をめざす言葉である。
つまり、ざっくり言っての日本語訳は、「なるようになれ!」だ。
ありのままより、もっとつきはなしたニュアンスの言葉である。

さらに、ざっくりさせるなら、「ばれたからにゃあ、しかたねえー」とした言葉のニュアンスに近い。
実際に、エルサの英語の歌詞は、もう、ばれてしまった(英語歌詞は、彼らは知ってしまった)!過去は過去よ!、完全な人でいることは終わったの!
とある。
 
エルサは、良い子を捨て、孤独でも良い、自らの意思を大切にする生き方を選択した。
彼女は、長い間、良い子でいること、不安を隠す事、怒りや不安をコントロールすることを強いられてきた。
 
エルサ自身も、不安を隠し、王として、人々の信頼を得る立場になりたかった。しかし、それは失敗した。感情を隠す生き方が、元々、人間の本質からずれているからである。
 
もはや、彼女の希望は消えてしまったのである。
街の人々や子供たちが、皆、エルサを怖がって逃げた。
ここが、まず、観客が泣けるところだ。

「Let It Go」は、エルサが、自らが望んでいた人生をあきらめ、新しい生き方を決意した時の歌である。
もはや、彼女の希望は消えたからである。
 
日本の歌舞伎で、変装の正体がばれて、「ばれたからには、仕方ねえ!」と、啖呵を切るせりふがある。
大事な時に、人の発する言葉が、東西、文化の違いを超えて、共通するのは興味深い。

この歌は、それまでのエルサがどんなに、恐怖と不安とたたかってきたか?がわかる。
それは、彼女が国を背負う女王になる人であり、親(王)が、エルサに不安を隠すように育ててきたからである。
 
彼女自身、魔力を持ってしまったという不安を、抱えているだけでも、つらいのに、そんな彼女に対し、親(王)は、負担を軽くしてあげられず、かえって、エルサの不安を高める方向で子育てしたのである。
不安を隠して、何事もないようにふるまうようにと・・・・、エルサの行動を制限した。
 
しかし、そうした王を非難することが難しい。それは、王も、世継ぎの娘に起きた非常事態を解決する術を見いだすことができなかった。その思いが、観客にはわかるからである。
娘に重い負担をしいることになっても、王は、娘に良かれと信じたことをするしかできなかった・・・。王と言えど、なすすべがなかったのである。
 
病気の子供が生まれた時、親が病気を隠そうするほど、子どもの心に負担を残してしまう。
 
身体的な病気でなくとも、子育ての途中で、親になす術がない状況になることは、しばしば起こるだろう。
息子、あるいは娘が、メンタル障害をかかえて、自殺を試みる、暴力に走る、薬物におぼれるなど・・・、子どもが成長する時点で、親が子供を抑えることができない出来事は少なくないだろう。
 
一方、アナは、何と言ってもヒロインであり、まっすぐで努力を惜しまず、魅力ある女性である。
しかし、この映画では、彼女の行動に対しては、批判的にも描いている。
 
アナは、エルサの苦しさや悲しさを理解できないのである。賢いエルサは、親の重い期待に答えて、ずーと、自分を抑える努力をしてきた。一方、まっすぐなアナは、自らの思いをぶつける生き方しかしない。
それは、長所でもあるし、短所でもある。
 
アナの行動は、他人から見れば、無鉄砲で実力が伴わない。多くの感情的な行動が描かれている。
山を素手で登ろうとして、ほとんど登れていないにもかかわらず、頂上は近いか?などと、放言したりする。
 
人は、しばしば、意味の無い行動に取り付かれて、それを実行しようとする。
岸壁の母のように、自己満足にすぎないのに、それに気づかず見当違いの努力する。
他人の思惑を考えず、本人は、一生懸命にやったと自己評価する。
 
最も、岸壁の母のケースは、事が事だけに、他の人が批判することができない。
だからこそ、メッセージ力のある歌になる。
 
人は、何か願い事をかなえるために、○○断ち、神仏へのお百度参りなどの行動をする。
女性は、そうした行動に取り付かれやすい。
しかし、期待の対象である相手の人にとっては、迷惑であったり、負担であったりする。
 
子どもの病気を治したい一心で、駆けずり回る親がいる。
すでに治療が終わり、医療の限界である時、医師から、通院の必要はないと言われても、母が納得せず、医者に通わせ続ける、そして、それを、成長した子供に、母が自慢気に語る。
「私が治してあげたの」と、言いたいのかもしれない。
 
 「私がなんとか治してみせる!」という親のせつない思いであろうが、医療の限界が理解できないのである。
 
親にとって大事なのは、子どもの病気に変化があれば、通院していた元の医師に行くことなのだ。
しかし、こうした親は、しばしば、以前の医師にかからず、他の医師に行く。
そして、新しい医者に、子ども病気の経過を話せない。元の医師の言葉が理解できていないのだ。
元の医者ほど、子どもの情報を持っているし、病気を評価できる医師なのである。
 
話しが逸れてしまったが、元にもどすと、アナ雪では、人間の脳の特徴が語られている。
エルサから攻撃を受けて、アナのハートが致命的に傷ついた。
このシーンで、脳の傷は、治すことが可能だが、ハートは治せないというくだりがある。
トロールと呼ばれる石でできた魔術師たちの言葉だ。
 
脳は、たくさんのことを、勝手に錯覚してしまう。
だから、脳の錯覚なら、直すことが可能だとを言いたいのだろう。
うつや不安神経症、そして統合失調症などをも、暗示しているかもしれない。

メンタルや脳神経の病気に対し、予後の悪い場合をハートの病気とし、回復可能なものは、脳の病気としているのかもしれない。
 
脳は錯覚してしまうと、間違ったことを、真実であると思う。
脳の錯覚をイメージするのは、床屋の赤と青のラインの回るネオンサインの看板を思い出してほしい。
この看板はどう見ても、下から上へとラインが流れていくように見える。
実際には、単に、平面の台座の軸がまわっているだけなのである。
 
こんなものをながめているだけでも、脳がどんなに勝手に人を錯覚に落とし込むか想像することができる。

タバコがやめられない。
薬物中毒となる
買い物中毒となる
なども、脳が間違った強迫神経症を教え込んでしまった結果である。
 
アナ雪は、エルサの心の変化を描くことにより、心の病を回復させるコツのようなものを描いているようだ。
メンタルのトラブル(脳の一過性の傷)は、考え方次第で、回復が可能であるとのメッセージを感じるのである。
 
ネット情報によると、2009年、ディズニーは、CG作成会社のピクサーを買収して、そこの製作者のラセター氏を、ディズニーのアニメーション部門のチーフ・クリエイティブ・オフィサーにしたそうだ。
 
ラセターは、ストーリー構築能力に優れており、かつ、仲間の意見を取り入れて、筋をどんどん変えてしまうそうだ。その結果、筋の展開が読みにくく、ハラハラドキドキが持続するとのこと。

アナ雪は、ラセタ―と、才能あるスタッフとの共同作業の結果できたものだそうだ。だから、ハンサム王子が、実は悪玉に変わり、ヒロインはダブルキャストになった。
 
劇中歌「Let It Go」を聴いたスタッフたちは、当初は悪玉の姉のエルサを、もう一人の主人公に変えたそうだ。スタッフ間で相当な議論が重ねられた結果、人の心をつかむストリーになったのだろう。
 
とにかく、いろいろな性格の人が、ストリーの中で活躍し、映画を見る人のだれもが、自らの人生を見直し、反省する材料を提供してくれている。

エルザの悩みは、誰でも持ち得る不幸(マイナス思考)を象徴しているようだ。プレッシャーにつぶれる人生をも描いているようだ。人は、自らに余裕が無い時、他人に対しても攻撃的になる。それだけ、苦しいのである。

エルザは、マイナス思考にとりつかれた悩める女王で、彼女は、人のうらやむ富と権力を持ちながら、苦しい人生を送っている。名声につぶれる人を象徴している。ロイヤルファミリーの人に起きやすいメンタルトラブルに通じる。

エルザは、自らが素晴らしい才能を、才能と思えずに、マイナス思考に突き進む。どんどん、自分自身を追いこんでしまう。このエルサの行動バターンは、不安神経症、うつの人に見られる思考過程に通じる。

メンタル以外でも、身体的な病気を抱えた人が、自らの病気を恥と感じたり、治らなければ不幸であると思いこみ、暗い気持ちで悩み続ける生き方にも通じているかもしれない。症候性のうつという病気がある。

自らの病気でなくとも、病気をかかえた子どもを何とか治したいと、医者をグルグル回って、子どもに劣等感を持たせる母親像とも通じる。
アトピーや夜尿症などは、成長で病気が軽快したり、良くなる事も多く、命取りではない病気だ。しかし、早く治したいと熱望する親がいる。親が行きつく先は、無責任な医師や、医療まがいの詐欺行為だ。
 
一方、となかいのスヴェンは、本当に良い人を象徴している。普段は、力が強くて、たくましい。
主人クリストフに従順で、文句を言わずに仕事を熱心にこなす。
アナを城の人に渡した後、スヴェンが名残惜しそうに、城門の前で、じれて振り返る姿が涙ものだ。
 
しかし、スヴェンは、しっかりと状況判断ができ、見るべきものを見ているのである。
いざとなる時には、ぶれない判断ができる。
そして、主人クリストフに対しても、しっかりと自らの意思を示す。このスヴェンは、困難時に勇気を出せる、理想の人間像を描いたものなのだろう。

一方、雪だるまオラフは、少々、自分勝手で、自らに無いものに憧れ続ける。
太陽や温かさにやたらと憧れる。自らが生きやすい寒い雪の中の環境に感謝する事は無い。
魔法の無い状況では、オラフが暑さを楽しむためには、多くの犠牲や他人の努力が必要なのだが、オラフには、そこはあまり見えていない。
雪だるまに、ふさわしくない環境に憧れる。どんどん、物事を美化して、それにはまり込んでいく。

これは、性同一障害の人の行動パターンと似ているのではないか?性同一障害の人は、とにかく、持って生まれた性に不満であるという意思を、他人に対して示すことにこだわる。
性が変わることで生じる良い面ばかりに、とりつかれてしまうようだ。

もちろん、実際の雪だるまオラフは、いつも陽気で、映画では良い人である。
エルサが魔法をくれなければ、自ら雪国に帰っていくキャラクターであろう。
 
最後に、ヒーローのクリストフは王子様にはならない。以前の職(氷売り)のままである。
どんな職であっても、それぞれの職ごとに意味があり、社会で自らの仕事をまっとうことが最も尊いという、米国映画のメッセージがあるのだろう。

学とみ子的発想の方向は、以上に書いたとおりである。読み過ぎの部分もあろう。

アナ雪を見ながら連想するのは、お薦めである。
映画を見る人は、それぞれの生きざまに照らし合わせて、アナ雪のキャラクターが象徴するものに、思いを馳せてみるは、いかがだろうか?
アナ雪が世界的にヒットしている。美しい色と画面に引き付けられている間に、ストリーで語られる価値観が、世界共有の価値観を、形つくっていく。少なくとも、ディズニー映画は、それを狙っている。
 
自ら、信じるものがあるなら、そこを確固たる信念として生きるべきだが、しかし、人には信念より大事なものがある。それは、人と人との結びつき、すなわち、愛が最高のものと、アナ雪は言いたいのである。見返りを求めない愛である。
 
かつてのディズニーの映画は、勧善懲悪の世界だった。醜いおばあさんは、あくまで醜く、美しい女性は、心も体もあくまで若く美しい。それが、かつてのディズニーのアニメであった。
 
しかし、時代の流れと共に、アナ雪は、かつてのディズニーとは、若干、変わってきている。美しい王子が、最後に悪物になってしまったり、わきがのある一般男性が、勇気あるヒーローだ。
 
人に限りなく近づけたかつてのディズニー美人とは違う。ヒロインの目がまん丸過ぎて、漫画チックだ。限りなく、人のしぐさの動きを追求する一方で、人にはできない動きを取り入れる。人間が演じる場合なら、メイクで必死に隠すそばかすを、アニメでは、あえて書き加える。
 
今回のアナ雪のテーマも、愛であるが、新しい発想がある。今回、登場する見返りを求めない愛とは、男女間のものでなく、姉妹間のものであった。つまり、愛は、誰との間でも、最高のものと考えるのである。同性同士でも、良いのだ。男女間のみが、神聖なものというわけではない。もともと、男女間の愛は純粋さを追求することが難しく、物語の中だけで、その神聖さが語られてきた。しかし、見返りを求めない愛とは、追求の難しさ故に、やはり貴重なものだ。
 
アナ雪では、普通の人の普通の幸せが、いろいろな画面で語られるとは言え、やはり、ディズニーアニメは、女王様や王子様の物語が好きなのだろう。
 
テレビの広告では、頻回に流されるアナ雪の 「ありのままの自分」 の歌から、私は、ストリーを勝手に予想していた。陰謀や暗殺などにもめげず、主人公の女王が確固たる信念を持ち、人生を切り開く物語であろうとふんでいた。
「ありのままの自分」の歌は、ストリーの後半で、困難を克服した主人公のお姫様が、歌う歌であろう・・と予想した。
 
しかし、そうではなかった。「ありのままの自分」の歌は、突然、前半で歌われてしまうのである。アナ雪は、最初のストリーの展開が速い。この展開の速さは、映画のヒットに大事な要素だからだろう。
 
子どもの時から、不安恐怖を抱える女王(長女)と、その妹の王女がヒロインである。長女は、超能力を持ってしまったという不安を抱えている。人がうらやむような超能力をうまく使えず、苦しんでいるのである。
ばれないようにと、人の目を気にして、必死で超能力を隠していた。
しかしこの不安恐怖が、戴冠式の日に、人々に知れ渡ってしまうのである。
 
小心者の国王が、国民を前に、スピーチできなくなるようなイメージだ。
プレシュアーがかかってつらいという経験は、多くの人が抱えるものであろう。
しかし、女王のような身分であれば、そのプレシャーは相当に重いと予想される。
 
さらに、女王という高い身分があるのにもかかわらず、人々に忌み嫌われ、避けられてしまう。 こうした人への差別が、いかに苦しいものかが、ストリーの中で語られる時、映画を見ている人々は泣くだろう。
 
そんな苦しい経験をした女王が、「ありのままの自分」を歌う。そして、自らの信じる生き方をするために、孤独に生きるための自信と力を得る。ありのままの自分とは、真実と信念に基づく生き方を象徴している。
 
「これで、私は良いのだ!」と、信じて、女王は、強い信念を歌う。信念は、ディズニーアニメで、強調したいテーマなのだろうが、同時に、信念ある生き方だけでは孤独になる。人は、愛が無ければ、だめなのだと、ディズニーアニメは、説いているのだ。ディズニーのアナ雪のめざす世界共通の価値観だ。
 
男女に限らず、人は、自らの判断で、自ら決める人生を生きたい。妻も夫もしかりである。
と、昨日の私のブログに書いた。自ら、判断して後悔しない生き方は、大事ではあるが、人は人によって支えられる。自ら決める人生で破たんや孤独が生じるなら、いつでも修正していくべきだろう。