本日の読売新聞に掲載された人生案内(人生相談)のコラムに、70歳女性からの投稿があった。50歳を過ぎた娘の夫が気にいらないと言う。

10年前に娘が40歳の時に結婚し、初婚だった娘は、今は50歳、相手の男性は、2歳年上で再婚とのこと。この男性は、工場につとめる作業員であり、投稿者の説明によると、常識も無くあいさつできないような人であると言う。

70歳の女性は、このがさつな夫を、娘のためを思い、がまんはしているが、この先、どのように娘の夫に接したら良いのかとの質問であった。

回答者は、評論家の樋口恵子さん。彼女の回答がふるっていたので、私のコメントもまぜて、ここに紹介してみたい。

樋口さんにも50歳で独身の娘がいるそうだ。樋口さんは言う。もし、50歳の娘が彼氏をつれてきたら、“カモがねぎをしょってきた!”と思うそうだ。つまり、樋口さんの老後の面倒を見てくれるたのもしい男手が現れたと思うそうである。

樋口さんが、どこまで本気なのかはわからないが、おもしろく、とても示唆に富む回答だと思った。
 
樋口さんは、発想の転換の重要性、将来の展望を考えることの重要性について、アドバイスしているようだ。

誰でも歳をとり、体が不自由になり、その時に備えて準備をしたい。どこまで他人に頼むかは、人それぞれだが、その時が来る頃までには、一緒に暮らしてくれる年下の人たちを準備しておくと言うことなのだろう。あてがはずれてしまうこともあるだろうけど・・・。人生は、予想が難しいものだし、変化はつきものだ。

女性は、ある年齢に達すると、発想を転換することが難しくなり、それまでの価値観に固執しがちになる。経験してきた世界が少ないためではないだろうか?

しかし、こうした経験の無さは、結局、女性自身を苦しめることになりそうである。自分で自分を苦しめないためには、加齢しても、発想の転換がスムーズにできるかが、ものを言いそうである。

老年期の女性の自殺が多くなるのも、発想の転換が難しくなるためではないだろうか?

この70歳の女性にとって、工場で働くような教養の無い男性とつきあうのは、苦痛なのだろう。
70歳の女性は、若かった頃の彼女の周りを彩ってくれた夫や他の男性と比較したりして、それまでの彼女の人生経験に照らし合わせても、この男性はおめがねにかなわない。ブルーワーカーで、良い育ちではないところに、彼女は差別的な感情を抱いている。

樋口氏は、その考えを思い切り吹き飛ばして、新たな価値観を持つ事を進めている。こうした発想の展開は、高齢者にとって必要なことで、いつまでもそれができるようになれば、人はもっと開放されるのだろう。

妥協をする能力は、人の高等脳のなせるわざだが、加齢をすると、高等脳が減ってきて、うまく働かなくなり、発想の転換ができなくなる。

発送の転換ができない結果の弊害は以下のようである。

周りには、気にいらない人ばかりになる。
他人の助言やアドバイスが聞き入れられず、非難されていると感じる。
バカにされていると感じやすく、強い口調で自己主張をする。


樋口氏は、女性が高齢になっても、こうした種類の軋轢を起こさず、周りの人との妥協しながら、発想の転換を維持していくことを勧めているのだ。

あいさつが上手な一流サラリーマンの男性を、価値あるものと考えている70歳の女性は、自らのその価値観を変えれば、幸せに近づくと、樋口氏は言っている。

男性が工場で働いていても、挨拶ができなくとも、娘の夫として、素晴らしい人ではないか?なのである。少なくとも、今は、将来、この男性が介護に役立つことを期待したらどうか?などと、樋口氏は、将来を見据えて評価を変えることを勧めている。

発想を転換するには、その根拠を考えつく必要がある。ここが自らで編み出す工夫である。
価値が無いと思うものの価値をみつける作業である。
 
その根拠として思いつく事は、まず、娘の夫は、工場で長く働いてきた人であり、首にもならず給料をもらえた人であること。こうした人は、まじめで頼もしい人であると考えて良いのだ。

工場で働いているということは、持久力を求められる。モノを作る仕事は、常に頭脳を要求されるものだ。つまり、頭も良くて働き者だ。
怠け者のホワイトカラーよりすっと、将来の介護人としての資質があるのではないかと言っている。

男性も、ある年齢を超え定年を過ぎてくると、過去の学歴や職歴などは、関係が無くなる。大事なのは、その男性が今、女性たちにどの位に役に立つのかあり、女性にとって、そこが男性の評価の対象である。
こうしたことを、樋口氏は言いたいようだった。
幸せを感じるためのスキルアップ法である。

前回ブログの続きで、腸内細菌の話題について書きます。
 
腸にいる菌として、良く知られているのは大腸菌ですが、この菌が、便から培養できるようになったのは、1800年の後半です。テオドール=エシェリヒ(Theodor Escherich 1857-1911)は、大腸菌Escherichia coliを発見した小児科医として有名です。
 
発見したというと、「あっ!見つけた!」というイメージですが、実際には、研究者が、菌を人工の培地(寒天培地)で増やして、ひとつの菌の塊りとして示すことです。そして、他の科学者も、菌の塊が、1種類の菌であることを納得し、了承する状態になります。実験の再現性などについても、コッホの三原則などと呼ばれるものがあり、科学の答えは、ひとつであることを目指します。もっとも、今は、同じ種類の菌の顔つきを、菌の遺伝子を解析して、さらにくわしく調べることができます。
 
この菌の塊り(コロニー)には、他の菌が混じっていない事が条件です。純培養の菌は、その性質は、いつも一定です。
 
このように、人間は、1800年の後半になると、病気を起こす菌を多数、みつけられるようになりました。大腸菌の場合は、発見者のエシェリヒ先生から名をとって、学名をエシェリヒアコリと呼ばれます。
 
コッホが、炭疽菌を培養したのが1876年、結核菌をみつけたのが1882年で、1800年後半は、病気を起こす元となる細菌が、人の目で見えることが可能になった時代でした。見えるということは、信じるための大事な条件ですが、1900年になると、目で見えないウイルスも、発見されていきます。
 
エシェリヒ先生は、培養の技術を用いて、1886年に、胎児の状態の赤ちゃんなら、その便(胎便)は無菌であることを証明しました。そして、生まれた後は、生後3-24時間で、赤ちゃんの腸管に菌が増えてくることをみつけました。
 
しかし、腸内細菌の研究は、長い間、これ以上の発展をすることができませんでした。しその難しさは、腸内は、簡単には培養ができない菌に満ちている点でした。人の目の前で、腸内細菌を増やして観察することができず、その存在が証明できなかったのです。
 
長い間、取り残された腸内細菌の研究分野でしたが、最近、やっと、その状況が変化してきました。菌の遺伝子検索(PCR法や、16Sリボゾーム遺伝子の検索)が可能となり、菌の遺伝子をさがすことにより、どんなタイプの腸内細菌が、どの位にいるかが、わかってきたのです。
 
 
最近の研究で、母親の腸管にいる菌が、母親のリンパ球に取り込まれて、新生児の腸管に運ばれるしくみがわかってきました。菌は、そのままの丸のままの菌の状況で運ばれるわけではなく、母親のリンパ球内に取り込まれた菌成分が赤ちゃんの腸管に運ばれます
 
こうして、生まれた赤ちゃんは、母親の腸管にいた菌の成分に対してなじみの状態になることができるので、これと同じ種類の菌ならば、あかちゃんの口から菌が入った時に、赤ちゃんの腸から排除されにくい状態になるのです。つまり、赤ちゃんは、母親の腸管にいた菌に対して免疫反応を起こさず、母と同じ種類の菌を、子どもの腸が受け入れるというしくみです。
 
こうして、生後まもなくの赤ちゃんの腸内に定住地を得た菌は、その後、そのあかちゃんの生涯の健康に影響を及ぼしていきます。
 
赤ちゃんの腸管の菌は、母親の母乳からも入ってきます。それは、母親の乳首の皮膚についている菌であったり、母親の腸管の菌が腸間膜リンパ腺リンパ球にのって、母乳に到達する可能性が指摘されています。
 
菌がそのまま生菌の状態で、母親の腸管から血液内に入るとなると、普通は、母親が激しい免疫反応を起こしてしまいますので、一旦、母親のリンパ球内で処理されて、子どもに移行すると考えられるようです。
 
こうして、母乳で育った赤ちゃんは、いろいろな種類のビフィドバクテリウムBifidobacteriumを腸内に持つことになりますが、ミルクで育つ赤ちゃんとは、母乳の赤ちゃんの腸内細菌の様相は異なってきます。
 
生後半年を過ぎると、赤ちゃんは、離乳食から、さらに多くの菌を腸内に取り込むようになります。赤ちゃんの腸内は、多種類の菌がバランスをとり、成人型の腸内細菌層に近づいていきます。この時、ミルクで育ったあかちゃんは、母乳の赤ちゃんより、より早く、成人タイプの腸内細菌を獲得していくようです。
 
腸内細菌だけでなく、赤ちゃんの腸粘膜の構造の変化も進みます。腸の粘膜は、複雑にいりくんでいるのですが、顕微鏡で見ると、粘膜が厚くなり、山は高く、谷は深くなり、腸粘膜を覆う粘液量も多く厚くなります。
 
腸内細菌が、多種類かつ多数に増えている腸では、病原菌が腸内に入ってきた時も、病気にならない仕組みができあがります。
 
残念なことですが、誰でも歳をとると、守り神である腸内細菌層が変化してしまいます。防御機能が壊れ、病原因が増えやすくなってしまうということは、人の寿命を暗示する悲しい出来事です。
 
腸内細菌の違いは、人の健康にどのような影響を与えるのでしょうか?実際の赤ちゃんを対象に、成長を追って行った研究では、まだ、結論がでていないようです。
 
抗菌グッズ、ファブリーズなどにのめりこむのは、どうなのか?
人の健康を保つしくみについて、もっと、いろいろなことがわかるといいですね。
 
今後、興味深い研究をさがし、ご紹介したいです。
 
 
 
 
テレビのチャンネルを回していると、時々、放送大学の講義が出てくる。じょうずに話す先生もいるが、そうでもない先生の場合は、語りが続かず、聞く側は、言葉を待ちきれなくなる。
 
放送される内容は、さまざまであるが、最近は、学問なるものの幅が広がったように思う。放送大学は、そうした時代のニーズを担いながらも、講義は学問であると謳っている。
 
それでは、学問とは何か?であるが、とどのつまり、人が好きなものを追求していくことに他ならない。だから、ジャンルは何でも良いのである。
但し、学問は、証拠を示して、その正当性を証明する義務は負う。
 
興味と余裕がなければ、学問は成り立たず、そうした意味では、小保方さんの制限付き研究は、とても気の毒であった。
マスコミは、スタップ細胞は無かった!、理研も無かった!と確定したかのように報道するが、結論が出ているわけではない。今後、検証することもできない。
 
万能細胞の研究は、今後も続くし、新しい万能細胞も出ている。スタップ細胞と似たような細胞もあらわれるだろうが、もはや、スタップとネーミングされることはないだろう。
 
しかし、彼女が嘘をついていると思う人も少ないだろうと思う。気の効いたキャスターなどは、スタップ細胞は、科学だから、今後の展望に期待しましょうと結ぶ人も多い。
 
小保方さんを取材しているマスコミ関係者の女性が、小保方評を本にした。
このマスコミ関係者は、小保方さんは机周りの本が少なく、実験ノートも少なく、他の研究者とは様相が違うと言う。しかし、30歳そこそこの駆け出しの研究者である小保方さんは、論文の書き方に未熟だったり、積み重ねの実績が少なくてもあたりまえだと思う。
 
マスコミ関係者は、実験の現場にいるわけではないし、研究者と本音で会話をかわす立場でもなかろう。そうした人が、表面的な事実を暴露して、自らの印象や感想を書いて本にした。
本は、マスコミ関係者の思い(推測)を書いているに過ぎないのだ。その目的は、本を売りたいからであるが、この本のライターも、思いこみを書いているにすぎないのだ。
 
小保方さんは、「スタップ細胞はあります」と言ったが、この言葉は、思いこみかもしれないが、推測ではない。小保方さんは信じている。しかし、マスコミ関係者の本は、推測であり思いこみである。
小保方さんの本や実験ノートが少ないなどの観察は、証拠でも何でもないのだ。
 
このマスコミ関係者が、本を書くなら、「小保方さんは嘘をついています」の証拠をつかんで、それを本を書くべきだ。しかし、マスコミは、確証する手段は持たないし、確証するまで待ったら、何も書けなくなり、商売にもならない。
 
さて、学問とは?の話しに戻るが、放送大学の講師に、「私の専門は、美学です」と言っている講師がいた。美学が専門と言ったこの先生は、自ら、「美学とは何か?」を説明していた。
 
彼の説明によると、要は、「僕が美しいと思うものは、すべてが美学です」であった。
まさに、「学問とは、人の興味と余裕である」ことを立証する言葉である。
 
話が変わり恐縮であるが、世の中には学問を装った金儲けがある。特に、医療・健康の分野では、その嘘たるや、群を抜いていると思う。
 
商売のための、サプリの広告や、整体施設の手技を、根拠のある科学であるかのように装うなどがある。テレビのOTC(風邪薬などの一般薬)の広告は、人々に、薬が病気を治すという誤解を持たせる(薬が無いと、病気が重くなるとの誤解を誘う)ように、作られている。
 
健康食品としてヨーグルトが、病気を防ぐなどの話しも良く聞く。
ヨーグルトが、アレルギーの予防効果を持つ事実についても、専門誌に論文があるのは確かである。
しかし、その効果については、まだ、混沌としている。
 
かなり以前のことではあるが、ヨーロッパで小児のアレルギー学会があった時に、あるセッションで、腸内細菌を赤ちゃんに投与して,アレルギー予防効果がでたとした過去の論文を、批判する議論で盛り上がっていた。
 
北欧の大学の予防効果を示した論文が議論されていて、争点は、限られた研究グループで作られた論文では、信頼性が薄いというような議論であった。その大学の後継者たちが、もはや追試研究(さらに確かめる研究)をしていないなどの発言もあった。
 
人の腸内細菌と病気との関係との研究は、民族、年齢、食物内容などで、腸内細菌が影響をうけるため、世界に共通する研究成果を出すのは難しい。
腸内細菌は培養出来ないものを多く、検証は、真にむずかしい。長い時間がかかって、結局、研究成果が否定されることが多い。
 
人は、無菌の状態で生まれるが、母親の膣を通れば、その時点で、腸内に菌が入る。帝王切開であれば、赤ちゃんが最初に触れた布や人の手から、腸内に菌が入る。そして、瞬く間に、菌は赤ちゃんの腸内で大量に増殖し定着する。
 
人はそれぞれ固有の腸内細菌を持っている。乳児の腸内細菌は、離乳食の影響を受ける。
ビフィドバクテリアと呼ばれる菌が主体であるが、3歳を過ぎる頃から、成人型の腸内細菌に移行する。そして、この形成された腸内細菌は、普通の状態では固定的である。
 
つまり、大量に抗生剤を飲み続けるとか、免疫が弱るとかない限り、腸内細菌バランスはゆるがない。この多様性が、人の健康を維持する。
 
そして、老化と共に、腸内細菌は変化する。人の寿命が尽きるのと並行して、腸内細菌もバランスがくずれるのである。老化していなくとも、腸内細菌の多様性が崩れた時は、クローン病や、潰瘍性大腸炎などが起きてくる。
 
腸内細菌が固定的であるということは、人の腸は、外から入ってくる腸内細菌を簡単には寄せ付けないということだ。つまり、食べるヨーグルトなどの影響は、期待できないということである。
 
(もし、乳児期からのあるヨーグルトを食べ続ける食環境があれば、その人の腸内細菌に影響を与えるかもしれないが・・・。)
日本人が、時々、食べるヨーグルトなどでは、腸内細菌に影響を与えることは難しそうだ。
 
腸内細菌は、それぞれの菌が増殖し生存し続けるための栄養素が必要であるが、それはお互いに融通し合っている。人の腸の細胞や、他の菌の酵素などを借用して、栄養素をあげたりもらったりしているらしい。
その結果、特定な菌だけが増殖するのが防げる。多様な菌がいることでバランスがとれるのである。
 
たとえば、クロストリジウムデフィシル菌というのは、抗生剤後の腸炎の原因菌として有名であるが、これが増えると、壊死性腸炎という恐い病気を起こすことがある。
人は、胆汁酸からこの菌の増殖を防ぐ物質を作り出したりしていている。特定な菌のみが増えないように防ぐしくみが、幾重にもある。
 
しかし、菌自体にも、自らが独占的に増殖する力はあり、増殖に害がある腸内物質を壊す能力も備わっている。抗生剤で他の腸内細菌が減ってくると、クロストリジウム菌がのさばってきて、細菌同志で融通しあっている栄養素のやりとりも狂ってくるらしい。
 
以前のブログで、慢性腸炎に、他人の便で治療するという話を書いたが、もろもろの腸内細菌のバランスがとれた状態を、他人の便からいただく治療法なのである。
 
「ダメよ〜ダメダメ」が2014年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を獲得した。
 
「ダメよ〜ダメダメ」はやっぱりおもしろい。子どもたちに人気なのだと言う。しかし、扱われているテーマは、決して軽くないのでは・・・・?
 
扱われるテーマは、「ダメよ〜ダメダメ」コント前半は、老人の哀しさであり、後半は、人の豹変ぶりのおかしさである。
 
老人は、お金で若さを買おうとしている。女性は、ロボットと言えど、人工知能があるが故に、生身の若い女性がそうであるように、老人からの体の誘いを嫌がっている。しかし、女性ロボットは、金づるは欲しいのである。
 
老人が若い女性にせまるおかしさは、世界共通の笑いを誘い、おかしさと哀しさを象徴している。子どもには、細かい事がわからずとも、おかしいのである。
   
エレキテル連合の彼女たちは、いかにしてこのコントを思いついたのか?以前の彼女たちのコントが、ユーチューブに流れていたりするが、この二人のコントのキャラは、今の彼女たちとは、だいぶ異なる。彼女たちは、どうしたら人が笑うのか?ずい分、あれこれ試行錯誤とチャレンジしてきたと思う。
 
彼女たちの以前のコントに登場するキャラは、ガキっぽい恋人カップルで、自分の周りのことしか興味が無い。恋人でありながら、言いたい放題、やりたい放題で、お互いを毒つけたり、けなしあったりしている。
親元を勝手に飛び出してしまって同棲してしまったカップルの雰囲気だ。母親が見れば、どうしてこんな人間になっちゃったのかしらと悲しんだりするかもしれない。
 
かつてのエレキテル連合の彼女たちは、テレビの向こうにいる視聴者に向かって叫ぶ。「ほら!、そこのあんた!、あんただよ、あんた!、明日も絶対、見るんだよ!わかったね!」と、強迫的だ。
 
笑わせようとする必死の思いは伝わるが、若い彼女たちは、とびきり乱暴な言葉をあえて使い、破滅的な暮らし方をコントにしている。聴衆に強いインパクトを与えたいからだろうし、エレキテル連合を覚えてもらいたいからだろう。
 
これでもか、これでもか?悪い子同志!のやりとりを演じている。彼らは、ギャグのパターンを、いろいろに変えて、笑いをねらっているが、「ダメよ〜ダメダメ」の笑いとの質が違う。
こうした笑わせようとの強迫的なコントでは、人はあまり笑わない。
 
彼女たちは、そこに気づき、そして作られた「ダメよ〜ダメダメ」のコントで、大当たりした。
 
チャラは一変して、素直でかわいい愛玩用の女性ロボットと、それを所有している老人のコントである。「ダメよ〜ダメダメ」は、本当に良く、観客の笑いを誘える。
 
「ダメよ〜ダメダメ」の言葉を、ロボットが、ほとんど、口を動かさずに、突拍子に言うのが、おもしろさを増幅させる。
 
ある番組で、エレキテル連合の彼女たちのコントを外国語でやったらどうなるか?を調べる番組をやっていた。つまり、聞いている外人は、彼女たちの「ダメよ〜ダメダメ」に笑うか?である。
 
エレキテル連合の彼女たちは、「ダメよ〜ダメダメ」シリーズを、英語と韓国語、アフリカ語の訳したもの暗記し、コントを演じさせられた。エレキテル連合のこのギャグは、外人を笑わせられるか?を調べるためである。
 
結果は、外人たちは、皆、すぐ笑った。老人がロボットにせまる冒頭のところから、外人たちの笑いはすぐ起きた。外人たちは、落ちを待たずに笑い、この種のコントは、世界共通であることが、良く象徴されていた。
 
英語では、No way,No,Noと訳されていたが、wayと言う言葉は、だめよ!のよ!に当たりそうである。
Wayという単語は、とても効いている。
No,No,Noでは、つまらない。さすが、プロの訳だ。
英語のNo way,No,Noも、ほとんど、口を動かさずに発音できる。
 
アフリカ語では、「ダメよ〜ダメダメ」では、パローレというらしい。これはフランス語から来ているではないかな?
 
“甘い囁き”という有名な歌がある(以下)。言い寄る男性と、相手にしない元恋人の女性が、パローレ、パローレと繰り返す美しい歌だ。ダリダのややかすれた歌声がすごい!
 
老人の男性が、若い女性に頼む事は、世界共通なのである。
そこに、笑いがあり、悲しさあり、人の本質的な欲望がある。
 
老人がお金にまかせて若い女性を誘惑するシーンは、子どもたちでも、大騒ぎになるのだと思う。
子供たちは、ある年齢以上になれば、このおかしさは理解できるし、特に男児には、うけるのではないだろうか?
 
年齢と性愛の問題は、年齢を問わず、興味をひくテーマなのだと思う。
 
老人は、すでに失われた若さ(性)を女性に求めている。女性はそれを知って、じらしている。
おごりある若い女性は、老人の足元を見ている。しかし、老人が女性に嫌気がして、小百合ちゃんに変えようとすると、女性はそれまでの態度とうって変わる。必死に、老人と、よりを戻そうとする。
 
老人は、女性にとっての金づるだからである。こうした行動の豹変が、人の本質を見るようでおかしい。必死で、頼む老人と、拒否する若い女性のやりとりは、苦笑、失笑など、笑いの本質があるような気がする。
 
コントに良く使われるテーマは、人の豹変ぶりである。それまでいばっていた人が、急に態度を変えて小さくなったり、簡単に前言をひるがえしたりするシーンである。
人の豹変ぶりは、ネタになりやすいテーマである。
 
豹変する態度は、人としての道に反する。だから、人は笑う(失笑)のである。人としてのあるべき姿から外れた時に、人は失笑する。
 
何が人を笑わせるのか?を、考えるのは、人の本質を考えることであり、深いテーマなのだと思う。
 
男性は、戦国武将の物語がお好きなようだ。
 
男性にとって、戦国武将の画策、策略、攻略、などが興味深く、天下取るまでの権力獲得の物語に興奮するのだろう。
 
人を殺して、自らだけが偉くなりたいとする人の世の中は、最悪と思うが、戦国武将が好きな人は多くいる。たとえ、天下が取れない戦国武将が,途中で果てても、後世の人は、大いに美学を感じるようである。
 
戦国武将の生きざまは、史実以上に脚色され、偉人化されて物語になり、後世の人々を魅了してきた。
 
ヒーローである戦国武将は、作り話であるものも多数あるだろう。しかし、後世の人々がどのような人物像に憧れ、どのような戦国武将の生きざまに理想像を見出してきたのかを反映しており、世を超えて興味深いものだ。
 
男性の思考傾向をよく写しだしていると思う。つまり、女性にとっては、戦国武将の描かれ方は、時代を超えて、男性の考え方を学ぶためには、大いに参考となるものである。
 
ある雑誌の特集記事で、シリーズで戦国武将を紹介するものがある。
 
今回は、北条氏康という関東の戦国武将の人となりについてである。北条氏康は、関東の大名であるが、祖父の北条早雲の時代に権力の基盤ができたようだ。
 
氏康は、三代目の殿様であるが、雑誌記事は、北条氏康の活躍と、彼の側近への語録が紹介されてあった。
 
北条氏康は、戦国武将として関東を支配下におさめていたが、謙信や信玄とも、果敢に戦った。
 
歴史話を作る後世の人にとっては、実存の殿様が有能で人望が厚く、領民を救ったのと脚色する必要がある。読書自身が望むような人物像をつくりあげるために、小説家は苦心する。理想像が、戦国武将を作っていくだろう。
 
北条氏康の逸話である。
 
北条氏康の息子が、ご飯にお椀の汁をかけて食べた時、1回の汁では足らず、2回目の汁をかけたそうだ。それを見ていた父親の北条氏康は、必要な汁の量が1回でわからないような息子では、将来が危ういと息子を諭したそうだ。
つまり、息子の物事の予測が甘いという意味なのだそうだ。
 
北条氏は、この息子の時代になってから、結局、天下統一をめざす羽柴秀吉によって滅ぼされてしまう。
 
汁は1回でかけよ!が、実際の史実にあるのかは知らないが、北条氏康は、問題ある父親像であるように思った。このあたりは、女性の目からすると、納得がいかない・・・・。
 
さて、この雑誌は、たえず戦って領土拡大を果たした北条氏康の偉さについて書かれている。その彼の幼少期の逸話である。
 
小さな若殿の氏康は、鉄砲の音に驚いたのだという。
それを家臣が笑ってしまい、笑われた氏康は、屈辱に心が張りさけて、自害しようとしたそうだ。
 
もちろん、そうならなかったわけだが、こうした子どもは、危ないなあ―と感じてしまう。
世の中のことがわからないうちから、“勇気ある人でなけばならぬ!”の強迫観念にとりつかれてしまう。
 
将来偉くなるべき人は、いつも、背伸びを強いられて、大変だなあーと言うところだ。
アナ雪のエルサのように、王となる人の心は、重く重く、子どもの時代を過ごすのだろう。
 
雑誌の氏康の逸話で興味深いのは、この自意識過剰な氏康を、こんな風にほめている点である。
つまり、臆病な子どもでいたことは悪くないと紹介しているのである。
 
「おのれの臆病を知るのは、将来の大器である」
「己を飾らず、見栄をはらない、謙虚で賢い人」
こんな風に、幼少期の北条氏康の資質の高さをほめたたえている。
 
つまり、劣等感を持っていることは、偉い人だという意味でもある。
これって、前回ブログのこじらせ女子と一緒だ!
 
前回のブログで、こじらせ女子は、自らの評価が低く、自分自身のことを下げ過ぎてしまいがちなのは、そこに理想とは違う自分がいるからと書いた。
 
戦国武将の逸話として、劣等感を持つ人はすごい人になれるというメッセージを残してくれているのだ。
つまり、若い時には、劣等感をしっかり持てるような人が、将来は大成すると考えたい。
この考えは、自信が持てない若い人を、カウンセリング時には、役にたちそうだ。
 
それでは、若い時のこじらせ女子だった女性は、将来が明るいはずと考えて良いのだろうか?
 
そうありたいと思っても、現実は、こじらせ女子の将来は、やはり、それほどうまくは立ちまわれないことが多いかも・・・・。
こじらせ女子に限らず、多くの人は、理想とは違う人生に甘んじて生きるしかないようだ。
 
流行語のひとつに、こじらせ女子という言葉がある。
これは、若い女性が、自分自身のことを下げ過ぎてしまい、暗い印象になっていることを指すようである。
 
自分自身のことを下げ過ぎてしまいがちなのは、そこに理想とは違う自分がいるからであろう。
若いうちは、自分自身が理想とは違うと感じがちで、悩んだり、落ち込んだりする。
理想が高すぎたり、理想が現実離れしていたりするからだ。
現状維持でも、必死の努力を要するものだという経験や自覚が無く、理想の成果を求めてすぎてしまう。若いうちは、当然かもしれないが・・・。
 
若いうちは、人生経験が少なく、現実を受け入れるスキルが、まだ、育っていない。
周りの人たちに対しても、理想とは違うと感じてしまいがちで、親などの身近な人にやさしくなれない。
 
街で、親と思われる相手に、とても冷たく接する若い人をみかけることがある。
子どもから見れば、現実である親は、子どもが憧れる理想からは、程遠いと感じてしまうのかもしれない。
 
ある日、朝の通勤ラッシュのプラットホームで、中年女性が先を行く娘を必死に呼びとめようとしていた。通勤途中の娘は、ほぼ知らん顔で先を行く。
母親は、娘にやっと追い付いて、何か言おうとするが、娘は顔色ひとつかえずに、母親の言葉に耳をかさない。無視された親も、周りの人たちの視線が気になったのか、話すのをあきらめたようだった。
 
出勤途中の娘は、パンプスを履いて身なりに気合が入っている。母親は、普段着というわけではないが、娘ほどの気合は入っていない。娘は、追いかけてきた母親の身なりがいやなのか?話し方がいやなのか?話す内容がいやなのか?は不明だが、目の前の母親は、娘が理想とする母親像からほど遠いと感じていたようだ。
 
鼻もちならない若い娘ということになろうが、娘には、娘の理想があるのだろう。
しかし、娘の若い時はすぐ過ぎ、娘は自らの限界を知り、親の努力がわかるようになっていくのだろうと思う。
 
“こじらせ女子”の自己評価が低いということは、理想が高いということで、めざすものが大きいのである。
こじらせ女子は、理想とのギャップに悩み、自信が持てない。
自己評価を高めさえすれば、自信がついて明るくなるというものではない。
自己評価などは、簡単に高まるはずもない。やがて、いつかは、自らの高い理想が虚構であることに気づくだけだ。
 
こじらせ女子は、自らの限界がわかっている人で、努力を重ね、まじめな仕事ふりかもしれない。
長期的には評価できる人かもしれない。
 
“こじらせ女子”は、自ら考える能力が高いので、相変わらず自信は無くても、自ら、周りへ与える印象を変えて行く。たとえ、笑顔に自信がもてなくても、御愛想笑いができるようになるのである。
 
愛嬌の良さは、一種の努力の成果と言っても良いだろうが、とってつけたような愛きょうで、努力を惜しむ人は、がっかりさせられる。
 
こじらせ女子”が若い女性なら、かわいい面もあるかもしれないが、中年女性が、自我を通せば、“こじらせ女性”ということになる。職場でも、トラブルメーカーと思われるかもしれない。でも、本当にそうか?
 
働く女性の多くは、文句を言いながらも、どこかで妥協している。その女性の立場が悪くなることになっても、自分自身で、物事を考えるトレーニングはできている。
後輩だった男性の方が、先に出世してしまうことも、日常茶飯事に起きる。
そんな男性にさからいながらも、従いもする。
むしろ、職場の“こじらせ女性”とは、自分自身がわかっている頭の良い人であったりもする。
こうした女性は、同僚女性から評価されていたりする。
 
ほとんどの人は、普通の容貌、普通の才能である。
中年を過ぎれば、容姿、富、運に満たされないままに人生の結果が見え、人生が終わるのを悟るようになる。
それでも、健康に恵まれれば、それほど、不幸な人生ではない。
歳を重ねれば、多くの周りの人も同じ様な状態であることも知っているし、あきらめることもできるようになっているからだ。
 
問題は、その後である。
老境に入って、“こじらせ女性”になるのは、とてもまずい。
 
歳をとると、無視されることが多くなり、その結果、誰でも自己主張が強くなる。
若い人が、理想でない自分をみつめすぎてしまうのとは、質が違う。
“こじらせ老女”は、“こじらせ女性”とは、反対の方向に行ってしまう。
 
“こじらせ女性”の場合は、理想から外れるのは本人であり、理想的でない自分を自覚する。
ところが、“こじらせ老女”には、理想的でない自分自身は見えない。
社会全体の中にいる自分の状態を、あれこれと考えることができなくなる。
自分が見えずに、相手にばかり理想を求めるようになるのである。
 
どういうタイプに人が、“こじらせ老女”になりそうか?
こじらせ女子だった人は、“こじらせ老女”になるのは、少ないのではないのか?
社会全体の中にいる自分の状態を、あれこれと考えることができるスキルは、健在だろう。
こじらせ女子は、それほど、人生をがまんしてきた人ではないだろうし、ある程度、自分自身の意志を大事にしてきた人だからだ。
 
誰かに依存し、ずーと我慢してきた女性が、案外、“こじらせ老女”になったりするかも・・・・。
自分で考えて起こした行動には、その人の責任が付きまとう。
しかし、そうした人生を生きずに来てしまった。
 
狭い価値観しか持たなかったり、内心とはうらはらに、他人の言う事をおとなしく受け入れてきた。
こうした人が危ないかもしれない。
 
人は、無理して我慢する状態が続くのはあぶない。
 我慢は、大きな脳への負担である。我慢してきた人生はストレスが多く、長い間、大事な脳の部分に負担をかけたりする。その部分の脳細胞にダメージを与える。
 
自ら考え決定することができないで過ごす人生は、自己解決力を育てないだろう。
 
若い女性のこじらせ女子はOKだが、こじらせ老女は、本人にとってもとても不幸なことだろう。
 
高齢者の認知症の薬も、いろいろ問題点が多いと思う。
とのコメントで、前回のブログは終わっている。
 
絶妙なるタイミングというべきかは、わからないが、ブログの直後、認知症の薬について、新聞の一面広告が出た。
題して 早期発見・早期治療で認知症になっても幸せに暮らす であった。
この新聞記事は、広告とは記載してあるが、読者に広告であるという印象を与えず、病気(認知症)啓発のための情報発信の体をなしているのである。
 
この薬の、当初のターゲットは、若年性、進行性の認知症である
しかし、広告は、そこを微妙に隠す書きぶりだ。
この広告を見て、拡大解釈をねらったものと気づく人も多いのではないだろうか?
世の中に、頭の良くなる薬など無い事は、皆、理解しているからである。
 
この広告は、誰にでも来る、老化に伴う脳機能の衰え (すなわち、加齢に伴う不可逆的な変化) が、ターゲットなのである。
広告ではなく、啓発のための記事であれば、“認知症になっても幸せに暮らす。で十分だ。
早期発見、早期治療をあえていれることにより、薬がその役割を果たすかのような効果を狙っている。
 
 新薬が、一部の病気に効果が出ることは事実だが、その効果を、拡大!、拡大!、解釈して、薬を飲む人のターゲットを広げて、薬を多く売りたいのである。
 
新聞広告は、多くの老人と家族がバラ色の夢をもつように、薬を位置づけている。
薬を飲めば、認知症にならない!
早く飲めば、認知症にならない!
認知症は、薬で治せる!、防げる!
 
この広告は、コリンエステラーゼ阻害剤と、MNDA受容体拮抗剤の紹介である。
 
この広告には、専門医(教授)が顔写真付きで載っているが、彼のコメントは専門医にふさわしく格調の高いものだ。しかし、彼がコメントしているのは、明らかな病気といえるタイプの認知症だ。
この薬が、老人の頭が良くなる薬であると、錯覚をさそう広告であるという認識は、教授には、薄いのではないか?
 
“老化に伴う知的能力の衰えとは、明らかに異なる、若年性のアルツハイマー病の治療薬ができました。
あなたの周りに、若年性で突然、ぼけが始まった人はいませんか?”
と広告したら、特殊な認知症の人しか、ターゲットにならない。
一面の新聞広告をうっても、広い裾野の人々まで、ターゲットを広げることができない。
 
高価な新聞広告は、裾野の広い病気を、ターゲットとする。
認知症全部に効果があるのでは?・・・・との誤解を狙っている。
早期発見、早期治療が可能なら、認知症の本人、及び、その家族は、だれもが願う。
 
 若年性で発症する、脳の病気としての性格を持つ認知症は、ぎょっとするような行動を起こしてしまう場合である。
長らく家事をしていた健康な主婦が、突然、料理を忘れてしまったり、周りの人にとっても、本人にとっても、とても大切な事(誕生日など)を忘れてしまったりする。
 
教授の元には、そうした本物の病気を抱える人が受診するのだと思う。
教授は、明らかな病気の範疇の人を、ターゲットにコメントしている。
その範疇の人とは、高等脳を動かしている脳神経細胞が消失したり、神経ネットワークが分断してしまい、認知機能が急激に低下し、人格すら変化してしまう人である。
医師にとっては、緊急に治療したい病気だ。
 
薬が病気の脳を変化させることが可能となれば、治療をした医師は、その経験を生かして、人の高等の脳の機能のしくみを知ることにつなげる。
人の脳は、正常に機能している間は、見えないしくみが無数にある。
 
正常に機能しない脳(認知症)を見て、初めて正常を保つしくみが見えてきたりするのである。
破たん脳を治療することにより、正常脳を推定することができる。
医師は、どのような薬で効果が出るかを見て、脳神経の受容体の研究や、神経伝達物質の相互関係の解明につなげる。
そして、さらなる新薬の開発もめざす。
 
しかし、若年性で進行型の認知症とは別に、多くの認知症は、年齢が進んで、体も弱り、考えるエネルギーや習慣も失って、物忘れが多くなるタイプのものである。
老人は、眠れないと訴えたり、疲れやすくボーとなる。
 
高齢者は、火を付けたのを忘れたり、徘徊してしまう。
家族は、こうした家族をかかえ、心配したり、悲しがったりしている。
 
特に家族を悩ますのは、高齢者のこだわりやイライラではないだろうか?男性も女性も、頑固になる。
老人は、自らの意志を主張しようとして、怒りやすくなるのだ。
老人は、遠慮したり、思いやったりできなくなる。人格を構成していた高等の脳のしくみが壊れるからだ。
 
誰でも、高齢になると、社会へのかかわり合いが減って、世の中から期待されなくなる。
老人は、存在感を無くし、世の中にインパクトを及ぼせなくなる。
周りが相手にしてくれない。
これは、人としてとてもつらいことであり、高等脳であるが故に、人間に、宿命的に起きる悲しさではないだろうか?
 
高等脳が求める究極の希望は、自己主張であるのだと思う。
自己主張は、人としての基本願望であるからこそ、老人はこだわるのだ。
自己主張は、動物が生存するための必須の能力であり、人でなくても、哺乳類以上の高等な動物であれば、必ず持ちあわす感情だ。
 
この新聞広告にも、高齢者の自己主張を、丁寧に扱うようにアドバイスが書かれている。
認知症の老人は、お金を取られた!と訴えることが多いが、これは、自己主張の一環であり、老人の人格をていねいに扱うことを勧めている。
この新聞広告は、貴重な情報を提供しているが、やはり、広告の目的は、多くの老人に薬を飲んでもらうことが目的なのだ。
決して、世の中、人のための、啓発記事ではない。
 
人がこの薬を飲む時には、まず、医師の元へを受診して、医師が必要と認めた場合に、薬は処方される。
そして、処方後も、医師は患者を丁寧に観察しながら、薬を調整していくことになる。
しかし、現実の日本の診療は、医師が熟考しながら、丁寧に診察をするという環境を許していないのでは・・・・?
 
医師であれば、専門、非専門を問わず投与できるし、投与開始した医師が、ずーと観察することをしないで、別の医者に引き継いでしまったりしてしまう。薬を飲んだ本人が、どのような効果を感じたかを、高齢者に聞いても、なかなか答えが期待できない。
 
 認知症の薬は、幅広い患者層に投与されるリスクが高く、効果や副作用があいまいになりやすいと思う。
高齢者向けの投与層の広い、かつ微妙な変化を狙う薬は、製薬メーカーにとっては、新聞広告で大いに宣伝する価値があるだろう。
 
脳内コントロールを変化させる薬を飲む事を拒否する老人もいるだろう。
副作用でおかしくなる老人もいるだろう。
しかし、そのチェックは、メーカーの責任より、医師の責任である。
 
新薬のターゲットとするコリンエステラーゼと、MNDA受容体などの働きは、人の生命現象の根幹となるしくみである。
現代の医学では、脳内受容体の全貌は、解明されていない。しかし、薬が広く使われ、お金が集まることにより、さらなる、生命現象の根幹となるしくみについての研究につながる。
 
究極のところ、意味の無い投与、医療費の無駄使いにならないように、製薬メーカーと、投与する医師のモラルに期待するしかない。
 
重くないなら、治るはず、治せるはずと思っている人は多い。確かに、重くなければ治りやすいのだが、治る理由を問えば、答えは、自然に治ることができるからである。
自然に治るという事は、その人の免疫機能による修復が終了するからである。
 
しかし、重くはないが治らない病気を治すことは難しい。こうした病気は、将来の先も見えない。軽い病気が、だんだん重くなり、実は重い病気の前駆症状だったということはありえる。
 
しかし、軽いままで、重くもならないが、治りもしない病気がある。こうした病気の原因は、多くが不明である。
原因が不明な病気ならば、どの薬をどう使うのかはわからないのである。
 
慢性の皮膚のトラブルも、こうしたたぐいの病気であることがしばしばだ。
皮膚のトラブルは、目で見えてわかりやすいが、原因が不明であることが多い。
皮膚科医は、典型的な病気であれば診断可能だけれど、これに当てはまらない皮膚の軽いトラブルの原因を見つけることが難しい。
こうした病気は、治らずにずーと続いたりする。
トラブルには原因があるのだが、それを見つけることができないのだ。
そして、多くの皮膚のトラブルは、かゆみを伴うことが多く、患者さんのストレスは大きい。
 
特に女性は、美容面でもストレスが大きい。
体にぶつぶつと発疹が消えずにいれば、皮膚科医を何か所か廻ったりする。
どこでも、原因不明と言われて、少量のステロイドを処方され、様子を見るように言われる。
女性は、なんとか、この発疹を治して欲しいと願う。
特に、皮膚のきれいだった女性では、そうした願望は強く、「私は今まで、こんなことになった事は、一度も無いんです!」となる。
 
女性は思う。“何かおかしい!それがわかる先生がどこかにいるはずだ。そして、その原因を見つけてくれて、「この薬が効くよ」と医者は言ってくれるはず。その医者は、どこなの?教えて!”と、思ってしまうようだ。
病気は、薬で治す、医者は治す人と信じてしまうからだろう。
 
人類の歴史の中で、病気は薬で治せると、信じさせてきた人たちがいる。
今もこうしたものは、世の中に氾濫している。
そして、最近、製薬メーカーが、医師の処方する薬を、新聞、テレビなどで広告することが許可されてから、さらに、薬は直せる!感のある派手な宣伝が多くなった。
 
本日の新聞にも、過緊張性膀胱(トイレに頻回に行きたくなったり、尿が漏れてしまう)の宣伝が、一面記事になっていた。
過緊張性膀胱には、重症のタイプがあって、トイレに行く前に、膀胱が収縮していまい、大量に尿がもれてしまうものがある。しかし、こうした重症タイプの過緊張性膀胱の人は少ない。
多くは神経性的な頻尿である。不安が起こり、頻尿になってしまうのだ。
加齢により、若干、尿漏れも起きてくる。
こうした裾野の広い病気が、製薬メーカーの宣伝ターゲットになりやすい。
頻尿は、薬が効くとした暗示だけでも、かなりの改善をみる。
 
患者さんの数は多いが、軽い症状の人を、医師に行かせることを、新聞広告は狙っている。
そこには、病気は重くないから、心配しないで!というメッセージはない。薬に頼らないで!という視点がない。
 
とにかく、医者に行け!行かなければいけない!早く行けば早く治る。そうでないと悪化してしまいますよ!
という論調だ。
 
前回のブログで紹介したが、肺炎球菌ワクチンのテレビ広告も、肺炎にならないためのワクチンとの誤解を与える(ことを目的としている)。
 
「ワクチンを打てば、肺炎は予防できる。ワクチンを打たないあなたは、肺炎になるぞ!」と言った感じの強迫的なニュアンスの広告だ。
しかし、そう断定するのに、このワクチンの実力は、役不足だ。まじめなワクチンではあるが、一部の肺炎の予防になるかも・・・の程度で、全体の肺炎の予防薬ではない。
 
肺炎ワクチンは、肺炎球菌に対する抵抗力を強める効果はある。
しかし、他のワクチンが、病原体そのものの感染を防ぐことが目的になっているのに対し、肺炎球菌ワクチンは、感染を防ぐためのものではない。肺で、肺炎球菌が増殖を防ぐ効果を狙っているにすぎない。
 
肺炎球菌の増殖を防ぐ効果が限定的なのは、それぞれの人の肺の免疫力に実力の違いがあるためである。 肺炎球菌は、肺炎を起こしうる多数の菌の一部にすぎない。
肺炎球菌が増殖しなければ、他の菌が増えて肺炎は起きる。
高齢者の肺炎は、多くは多種類の菌がそれぞれに増えようとして、陣地取りのしのぎをけずっている。
肺の免疫が駄目なら、肺炎は予防できない。
 
そもそも、誰でも、肺炎球菌には感染している。人々は、小児期からこの菌と闘い、抵抗力を獲得している。
その抵抗力が加齢によって、低下してしまので、ワクチンでカツをいれるのだ。
 
高齢者で、全身の免疫が低下すれば、肺炎は起きてくることを医師は知っている。
だから、患者さんを前に、テレビの俳優のように、「このワクチンは、肺炎を予防するんです!」などと、胸を張っては言えない。
 
ワクチンの真の予防効果の程度を語ろうとすると、学術的となり話が難しくなる。
多くの高齢者は、そんな難しい話にのってこれない。
 
製薬メーカーも、ワクチン効果の限界を知っていると思うが、今は売れれば良い時代である。
でも、メーカーに水心あれば、この俳優の断定的な言い方を止めて、本物の医者の語りに変えて欲しいと思う。
 
さて、薬はどこまで効くのか?について、もう少し考えてみたい。
 
今年、メンタルの薬の多種類処方が制限された。
まじめに診療している精神科医には酷な話であるが、患者が薬を信じすぎて、医者に処方を要求する抑止力となりうる希望はある。
 
恋愛のもつれが被害者意識を生み、うつの薬をのんでいる若い女性がいる。
あるいは、孫の心配で、祖母がうつの薬を飲んでいたりする。
こうした人は、自分自身以外の別のものに、救いを求める感がある。
うつの薬を飲む前に、自分自身を考え、認知行動療法にチャレンジして欲しい。
 
医者は、病気がはっきりしている場合には、判断は早い。
精神科医が、治療をしないとまずい、進行性の精神疾患だと思うような患者さんを診れば、医師の治療判断は早い。治療を始めてからも、薬の選択を修正したりもできる。
脳内ネットワークが破たんしているような重症の精神疾患の方が、医師は判断しやすい。
 
しかし、そうでないメンタルトラブルの治療は、その人の性格や発症経過が違うので、薬の感受性が異なるのである。
トラブルの全貌を医者が見通せるわけではない。
 
患者さんの脳内ネットワークが破たんしているわけではないので、治療医は、患者さんの脳の壊れていない部分は、そのままに保たなければならない。そこを壊さないようにと、治療のアプローチに悩む。
抗けいれん剤とされていた薬が、気分安定剤として奏功してみたりして、医師の経験と、匙加減がモノを言う。
 
前日、紹介したある精神科医のブロガーによる記事で、SSRIと呼ばれる抗うつ剤(パキシル、ジェイゾロフトなどなど)は、強迫神経症を悪化させることがあると書かれていた。
強迫神経症は、その程度も発症のきっかけも病態が幅広い。
そうした人では、SSRIの投与が、セロトニンなどの脳内物質のブランスを変えてしまい、病態がさらに複雑化するようだ。
ある程度のバランスを保っていた脳内環境を、SSRIが変えてしまうことで、マイナスとなるのだろう。
彼は、SSRIなどが発売された後に、薬でこじれる患者さんがいると言う。
 
高齢者の認知症の薬も、いろいろ問題点が多いと思う。
現場で、まじめに患者を観察し、処方し、問題点を指摘できるベテラン医師の意見が、国の治療方針に反映される医療体制の国であって欲しい。
 
ブログには、いろいろな闘病記がある。
がんを抱えたある方の、がん闘病記の読後感想を、以前の私のブログに書いた。
ブロガーは、がんをいろいろ勉強しているのに、何か大事なことを抜けている。
そこは、医療者が埋めてあげなければいけない部分と思うが、できていないようだった。
 
こうしたすき間が生じる第一の理由は、主治医を含む治療者と、患者が話会う時間が少ないことだろう。
患者は、医者以外の医療関係者とも会話をかわすことで、医者への質問や、病気への理解をふかめることができる。
 
抜けてしまったことは、
医師が、患者に理解させられなかったこと。
患者が、医者に気づかせることができなかったこと・・・・などと、考えてしまう。
 
医療者が、患者の気持ちを知り、患者が、医療者の気持ちを知ることができるかは、双方の能力が関係する。
 
医者は、頭の良い人が多いが、多くは健康な働き盛りの人で、病気を持つ人、老い行く人の気持ちを理解するのが難しい。
 
そして、若い医師は、多い業務量で疲れている。
たくさんの患者を診るには、エネルギーがいるが、それが途中で途切れてしまう。
時には、医者の頭は、病室の患者や、気になる患者のことで、頭が一杯だったりする。
一方、診察室に入ってくる患者さんは、それまでのエネルギーをぶつけてくるし、必死に話そうとする。
 
医者は、患者の理解が進んで欲しいと思っているが、患者の理解が遠そうに感じたりしてしまうこともある。
遠い状態を近くの状態にまで引っ張ってくるには、医師にも患者にもエネルギーがいる。
 
これは、患者側からは見えにくい部分であるのだが、医者の診療時間が短い理由のひとつに、医者自身が“治せない!” “わからない!”と感じている場合があることだ。
医者は、患者から、治してほしいと懇願されているプレシャーを感じる程に、そこから逃げたくなるのではないだろうか?医者のできることには限界があるからだ。
 
それでも、体力のある医者は、エネルギーを持って次の患者に向かうだろうし、異様にエネルギーを燃やし続けることのできる才能のある医者はいる。医者には躁病の人が多いと思う。
 
ある精神科にかかっている人のブログを読むと、3分診療を嘆いている。
患者側は、時間をかけて診療してほしいと願い、いろいろ医者に言ってみるが、医者はもうカルテを閉じていると言う。医者は、立ちかけていると言う。
 
患者さんは、医者以外の人にも、意見を求めることがあるだろうが、満たされていない。
3分診療でも医者から言われることが、とても貴重なのだ。
 
そんなに期待されていても、精神科の医者ができる手段は、限られているだろう。
そこは、医者自身でよくわかっている。
 
テレビでワクチンの宣伝に出てくる俳優が、医者を演じているが、異様な自信と脅しを漂わせている。
実際の診療の場では、医師はそうした態度はとらない。
治せないなあーと、沈んでいることが多いと思う。
 
ある精神科のドクターがブログに、こんな風に書いている。
最近は、いろいろな種類の薬が新たに発売になった結果、精神科医が、薬を使ないで様子をみる、とか、自然回復の経過を観察するとかができにくくなったという。
 
この精神科医は、薬を使うことで、患者がより複雑な病態への迷い込むことことを指摘している。
薬で病気が複雑化することも事実なのだ。
 
脳内物質を薬でコントロールする薬が多く開発されたことで、救われる人がいる一方で、脳内が複雑になる人もいる。抱える病気が悪くなる事もあるだろうが、副作用が一過性で済んで、最終的に治療効果がでたりする人もいる。
こうした個人差は、薬を出す前にはわからない事が多いだろう。
医師の匙加減がものを言うとしか言えない話だ。
 
この精神科医は、薬を使わない傾向の精神科医であるのかというと、そうでは無い。
彼のブログは、薬剤の説明に溢れている。彼は、多種類の薬を使っている。
多種類の薬をどう使い分けるかを、プライドを持って詳細にブログに書いている。
適切な薬の組み合わせができない医者を、批判もしている。
彼は、重症の人を、薬を中心に治療している精神科医であることがわかる。
 
薬を使わない方が良く治る人がいる、などと、医者が言っているのを聞くと、怒る人がいるかもしれない。
しかし、病気や、薬の感受性の個人差の大きさは、絶大なものだ。
 
病気の個人差に目をむけることで、治療や医師への批判が、もっと適切なものとなるような気がする。
 
加齢に伴う関節のトラブルに、飲むサプリが、効果があるとは思えないが、私のこのブログにも、犬用サプリの広告が貼られている。
 
ネット上の無料のブログが、広告で成り立っているとは言え、私が信じていない物質の広告を貼られるのは悲しいし、止めて欲しい。
 
人の加齢に伴う修正不能な関節の状態を軽快させる物質があるとすれば、なぜ、効果が出るのか?の機序について、説明してほしい。効く根拠を説明して欲しい。
 
現実は、根拠が無くても、効く!、効く!という広告はあぶれている。
今は、誇大広告への規制が機能していない。
大手企業を巻き込んで、広告量が膨大すぎて、規制局も手がつけられないからだろう。
 
人の場合は、サプリを信じて飲んで、効いたような気がする人はいると思う。
憧れの俳優さんが、宣伝していれば、これはいい!と感じても不思議はない。
 
人は関節が痛くなれば、その部分を使わないので、痛みは治まることが多い。
痛みは、関節への負担を軽減させるための生体反応であり、関節に負担がかかれば、炎症がおきて修復に向かう。
 
加齢すれば、そうした修復機能は低下するが、痛みは軽快することが多い。
それをサプリの効果であると感じるのは、サプリを信じている心の錯覚にすぎず、これを偽薬効果と呼ぶ。
薬もサプリも偽薬効果だけで、十分に売れる。
 
人と違って、犬には偽薬効果は期待できない。しかし、ものいわぬ犬でも、サプリの効果を判断するのが飼い主である以上は、飼い主は効いたと思うことはあるかもしれない。
 
しかし、原則的には、犬には偽薬効果はないはずだ。
つまり、犬は人より治療効果の判定は、単純、かつ正確であるかもしれない。
人に対して効果があると宣伝だけで売れているサプリや薬を、動物実験をして治療効果を判定した結果は、ぜひ、公開して欲しいところである。
 
うした検証がしっかりなされることで、飲んで関節を治す人工物質などは、この世に存在しないという事実が示されてほしいし、薬、サプリを販売する時のモラルが、回復して欲しいと思う。
 
実際にヤフー知恵袋などには、犬用サプリのユーザーは、どのように効果を書きこんでいるかを見てみた。
 
効果が無いとしたコメントが多いのか・・も思っていた。しかし、QAを装った宣伝と思われるような、みえみえの記事に出会ってしまう。獣医も、サプリを勧めるようである。
ああ、お金になれば、理論などはいらないのか・・・。
 
冷静に、犬用サプリの効果がないと感じた人は、あえてこうしたヤフー知恵袋などには、書きこまないのかもしれない。
普通の人は、悪口は、あまり言いたくないものだから・・。