人は、自分には無いが、他人にはあるものに憧れる。富、才能、美貌、名声、栄誉などなど・・・・。 しかし、その憧れの裏の顔は、ジェラシーだ。
しかし、大人はそれをあからさまに外に出す事はしない。ジェラシーは、忌み嫌うものであり、自らで克服しようとする。自らを傷つけみじめな気持ちにならないために。
憧れているものには、欠点も問題点もある。大人なら、そこを見つけたり、あきらめたりなどもして、ジェラシーを感じる心をなくそうとする。
しかし、子どもの場合はどうだろうか?あれこれと比較し、克服しようとしても、そのための材料がない。つまり、経験や知識がない。孤児のように、生まれながらの不幸を感じている子どもが、どん底の気持ちでいても、大人がアプローチする方法は難しいものだろう。
両親がいない子どもが、悲しい、つらい、他の子が憎い、と感じていても、そこを埋める作業をする育ての親の役割は、一筋縄ではいかない。チャレンジグなタスクであろう。
ジブリ映画の「思い出のマ-ニー」の主人公アンナは、孤児であり、この映画は、こうした難しい問題に取り組みながら、尚、美しくファンタジックなアニメ映画に仕上がっている。
いろいろと考えさせられもするし、夢もかなえられる映画である。
本日は、このアニメの女性的解釈を試みる。
ポスターや広告などを見て、この映画を見たいと思う成人女性は、登場する憧れの洋館と、そこに住む麗人たちの様子を想像して、空想をかきたてて、映画を見ようとする。
しかし、憧れの洋館が出てくる前に、映画が始まってすぐ、主人公アンナの孤独な心が、せつせつと語られて行く。アンナの年齢では、つらい感情をうまく処理できない様子が語られる。
アンナは、両親がいないことを恨みながら、他人に悟られたくないと思い、その感情を否定するふりをする。アンナの心と言葉は、うらはらな状態である。周りの大人に気付かないように、本心を隠して、孤独に暮らしているのである。
原作でも、映画でも、アンナの孤独な心は、内側、外側という言葉で語られる。アンナは、外側の人間であり、内側には入れないと感じている。内側の幸せな人たちとは、アンナは明らかに違っていると感じている。原作でも内側の人間、外側の人間と表現されているが、ジブリ映画も、始まってすぐに、内側の人間、外側の人間の、解説的なナレーションが流される。
高見浩訳の文章は、以下のようである。パーティとか、お茶に呼ばれたりするのがすばらしいのは、あくまで、自分以外の連中にとってなのだということが。なぜなら、そういう連中は、皆内側の人間、何か目に見えない魔法の輪の内側にいる人間なのだから、その点、アンナは外側にいる人間なのだから、そういうことは、すべて自分とは無関係だった。
この疎外感は、小児特有のものでなく、大人になってからでも、人が時に直面する感情ではないだろうか?
他人の思惑を気にする暮らしのつらさや、孤独が孤独を呼ぶ暮らしのつらさなどから、孤独の壁を自分自身で高くしてしまうのである。
さみしくつらい立場であるアンナだからこそ、逆に、その孤独感を外に出さないように無理する。
「ああ。アンナちゃん、だめだよ。そんな風にかんがえちゃ・・・・」 などと、観客はアンナに同情しながら、前半のストリーを追う。
アンナは、あえて、周りを無視して、つまらなそうなそぶりをする。他人からあれこれ言われるのを避けるためだと、アンナは言っている。
アンナのつまらなそうな顔は、意識的に作られたものである。しかし、そう思うのはアンナだけで、周囲の大人はアンナの孤独は十分にわかっている。それをどう表現するかで、アンナが安心するか、反発するかが、別れてくる。他人から、アンナの本心にせまるようなことを言われて、アンナは、かえってつらく感じるという過去の経験を持っているのだろう。
アンナは、頭も良く、感受性も高い。育ての親が、子育てのための補助金をもらっていることに、心底傷ついてしまう。
気にしているからこそ、気にしないそぶりをする。こうしたことは、日常でもしばしばあることだろう。
一番、こだわっていることを、あえて無視して、興味が無いと装うことが、現実の人間関係には起きる。
それを言われたくない!弱い立場であると、しっかり見定めることを避けてしまうのだ。
この映画は、空想が心を救う事を描いた作品なのだろう。苦しい毎日であっても、空想の世界を持てば、人は救われることがある。赤毛のアンも、他人に引き取られて育ったが、空想は大好きであった。
この映画も、アンナが、自らの空想とわたりあうことによって、ストリーが作られている。
しかし、一方で、この映画は、男性的な見方というのがあるようだ。
このあたりは、女性の見方と少し違うと感じる部分である。
少女の性愛を描いたものであるとか、ぎりぎり許される危ない世界とかの表現もある。
こうした見方は、女性は発想しないし、とても男性的なのだと思う。
多分、この男性的発想は、少女の美しさが、男性に性的魅力を引き出させるものだからなのだろう。
しかし、女性であれば、少女の時、何に憧れたかを思い出す事が出来る。
一般的に、憧れる友達は、顔や姿が美しかったり、豪華な邸宅に住んで憧れの暮らしをしている人である。
少女の妄想は広がり、豪邸では、現実の毎日では起こり得ない、イブニングドレスの行きかうパーティがあるだろう。パーティへの出席者の豪華な衣装や宝石も憧れだろう。
だから、アンナ自身が、最高の友達としてマーニーを夢見たのも当然であった。実際に映画のマーニーは美しいし、マーニーの両親も、憧れの暮らしをしている人たちである。
アンナは、大人とのしがらみから解放されて、秘密めいた憧れの暮らしを垣間見ながら、遊びの日々に、どっぷりとつかることができた。アンナの心には、大きな余裕と満足感が生まれた。
怖い経験という試練はあったが、勇気を出して克服して、自信もつけた。
そして最後は、謎解きの楽しさを交えながら、アンナが成長する。アンナは、自ら築いていた孤独の壁を乗り越えるのである。自らが不幸だとする感情を克服する。後半には、良い人たちしか出てこない。
アンナの成長も著しく、人の心も良く理解し、周りの人を喜ばせた。
そんなハッピイエンドに、観客も納得する。
観客は、少女の憧れがひとつひとつ、かなえられていく喜びをアンナと共有する。
そして、人の心がどのようなことから影響を受け、そして立ち直っていけるのかを学ぶのだ。
この映画に怪しい世界などを見出さない、女性的解釈である。