人々の求めるものが、今は多様化している。普段、それをあまり意識しないが、多様化する前の日本人の姿を見ると、今とのギャップに気付く。
こうした日本人の志向の変遷を知るのは、昔の映画が一番のようだ。
映画には、その映画が作られた頃の人々が求めたもの、憧れた物がふんだんに盛り込まれる。
人々の憧れるターゲットが多様化した今は、映画をヒットさせるのも難しいし、成功するかを読むのは大変だろう。
アナ雪はヒットしたが、莫大な宣伝費をかけたから、ヒットしたわけでもないだろうし、アナ雪には人々が求めるものがあったのだ。
時代と共に、映画の主人公は、普通の人になってきている。今は、能力ある普通の人が、主役の時代である。
しかし、戦後間もなくは、特別に身分のある人や、名家や富豪に、当時の人は憧れた。
当時、普通の人は、ヒロイン、ヒーローになれなかった。そうした価値観の変化を考えながら、昔の映画を見ると興味がわいて、楽しめる。
昭和30年代の、吉永小百合、岩下志麻の活躍した頃の映画は、特に、最初の1時間位は、目をこらして見てしまう。役者のせりふ、ストリー展開は、今のドラマに比べれば、信じられない位に非現実的で、わざとらしさに満ちているが・・・。
それでも、画面にくぎ付けになる理由は、当時の社会の価値観が感じられたり、映し出されている当時の街並みが、とても興味深いからである。
銀座や日本橋などの繁華街もでてくるし、箱根の芦ノ湖などの別荘地もでてくる。
スターたちの会話を聞くと、その当時の人が何に夢中になっていたのかを伺い知ることができる。
タイムスリップした気分になれる。
当時の映画は、ロケもふんだんに出てくるが、昭和の街並みのシーンは、とても魅力的だ。そこには、かつての日本がある。これを見るだけでも、当時の映画を見る価値があるといっても良い程だ。
戦後、高価なフィルムを使って作られた映画は、当時、高価なグッズを盛りだくさんに写している。それは、家具であったり、部屋のしつらえだったりする。
巨匠と言われる人の作品も、風景などの映像が美しく、旅行したい庶民の憧れの気持ちが、ふんだんに盛り込まれている。
当時の映画に描かれているのは、庶民の暮らしとはかけ離れた非日常的な光景だ。
当時の人の憧れが、凝縮されている。
登場人物のうち、誰かが、金持ちであり、誰かが身分が高い。
豪勢な家で召使に命令する暮らしのシーン、広い別荘で過ごすシーン、男性なら、美女が何人も出てきて、からみのあるシーンなどなど・・・・。
女優の髪は、いつでも美しくセットされ、風が吹いても乱れることはない。化粧した寝姿でも、髪が乱れない。
日常着として登場するのは、アイロンの効いた手入れの良い服であり、おあつらえの高価なスーツ姿である。言葉づかいは、女優はほぼ同じようにていねいであり、個性はない。
昭和25年につくられた映画のスクリーンに登場するグッズを見ていると、すでに日本人は高価なものを取り戻せたと思える。
いわゆるスターと呼ばれる、人気ある美男美女が登場するが、作られた会話、とってつけた笑い、先の見えるストリーでも、人々を飽きさせる事は無かったのだろう。
非日常的な裕福な暮らしを、垣間見る思いで、見つめたのであろう。
森繁久哉の、社長シリーズも、社長が、女性にもてて、もててというストリーであり、美女が群がってくる筋立てである。
当時の映画は、今とのギャップを教えてくれて、興味深いのだが、そのギャップは、時にナンセンスである。
非現実的であり得ないようなせりふが出てくるのである。
その理由は、男性の独占的な視点で映画が作られたからなのだろう。
監督にも、脚本家にも女性がいない時代では、男性の妄想が独り歩きをしてしまうことがある。女性の感情や、せりふが、思わず笑ってしまう位にナンセンスなのである。
撮影現場には、女優を始め、女性は、若干はいたはずだ。女優は、女性が言うせりふでないと、内心は思いながらも、監督の指示に従ったのだろう。
そのひとつを紹介しよう。
超有名な映画と言うわけではないが、船橋聖一の雪夫人絵図という作品である。
これは、二回、映画化されていて、昭和25年の小暮美千代主演と、その後の1968年の佐久間佳子主演の作品である。1950年製作の溝口健二監督作品で、主演は木暮実千代、上原謙である。
子爵の御姫様である雪夫人が主人公で、色の白い雪のような美人である。これは、当時の女性も男性も、憧れた女性像なのだろう。
しかし、彼女は、親の決めた結婚相手である婿養子の之と結婚している。
実業家であるこの夫は遊び人で、浪費により子爵家の財産を破たんさせている。その上、水商売の愛人もかこっている。その愛人をつれて、妻の家に来るような人である。
周りの人たちは、この夫と別れる事を勧めるが、雪夫人は決心ができない。
その理由が、雪夫人が夫との性的な関係におぼれているからである。
「肉体関係におぼれているから別れたくない」と、雪夫人、自ら語るのだ!
とんでもないせりふだ!
原作がどうなっているのか、かわらないが、観客の女性には、受け入れられないせりふである。
雪夫人に好意を寄せる美青年(上原健)に対して、雪夫人は、このせりふを言うのである。
「私は夫を恨んでいるけど、夫から求められると体が言う事をきかなくなり、彼を求めてしまうの・・・」と話す。
見ている観客の女性は、ここでDVDを切りたくなるような心境である。
御姫様役の女優に、そんなセリフを言ってほしくない。
当時、映画を製作していた現場にいた女性スタッフも、失笑していたのはないのか?
美しい映像が台無しになるようなせりふだ。巨匠は、つっかり、落とし穴に落ちたのか?
そして、実際の映画に登場する婿養子の直之は、小太りの中年男にすぎないのである。
すべての裏切りが帳消しになるような男の性的魅力って、何なのだ!
女性がこんな夫を好きになれるはずがないと、しみじみ思うのである。
女性の視点は、男は、こうしたモテ方をしたいのか?と、ため息が出る思いだ。
しかし、男性の視点なら、男は、こうしたモテ方をしたいと、共感するのかもしれない。
男性は、どんなに女性をいじめても、女性から求められたいとの欲望があるのだろう。
話しは、現代に戻るが、先日、昼食時に、隣の席の若い女性たちが会話する中で、
「お前は、俺の奴隷なんだから、何でも言う事を聞け!」と、夫から言われたと、若い女性が淡々としゃべっていた。
この女性は、夫にこんな風に言われたと言いながら、あまり、それに動じていない。
聞いている相手の女性も、「まあ、ひどい!」とも言わない。ただ、うんうんと、うなづくだけだ。
このせりふを吐いた若い女性の夫も、不用意な人なのだろうと思うが、今も、昔も、似たようなことが起きていると思った。
男性は、女性をいじめて、いじめて、自分自身の価値観を感じたいのだろうと思う。
男性は、女性をいじめても、その女性について来て欲しいし、それができる俺は偉いし価値があると、男性は思いたいのだろう。いじめることより、その後のことが大事なのだ。男性は、自らの所有欲を満足させたい。
時代を通じて男性が持つ、女性への支配欲なのだと思った。
しかし、時代の変遷は、起きている。
夫に悪態をつかれた女性たちが、それほど、夫の捨てぜりふに動揺していないのだ。