前回、思い出のマーニーの感想を書いた。初めてジブリ映画を見たのは、『千と千尋の神隠し』で、その時、すごいなあーと思った。
『千と千尋の神隠し』のすごさについてであるが、観客には、どのように筋が展開するのか、見当がつかないことであった。アニメを観る人は、筋が独創的と感じつつ、結末を予想することは、到底、難しかった。
主人公の千尋は、のほんとした両親に甘やかされた毎日から、突然、悪夢ワールドに落ちてしまった。
誰も助けてくれず、本人(千尋)の努力と勇気だけで、のりきらなければいけない状況になった。
すがたかたちがグロテスクで、気味の悪い人たちが、多く登場する。
これでもか!これでもか!と、おどろおどろしい怪物が登場するが、ヒロイン千は、勇気を出して、怖がらずに、怪物たちの中に飛び込んでいった。相手がグロテスクな姿でも、ヒロインが心をこめて交流すれば、事態が変わり、ヒロインが成長した。
監督の宮崎氏らの製作者は、こうしたキャラクターの考案者である。
アニメの作り手は、現実の世界で、実際に会ったキャラクターの人たちを参考に、妄想的な登場人物を作ったであろう。宮崎氏らは、良くも悪くもすごい連中と、現実の世界でわたりあい、そうした人たちと付き合った経験を、アニメチャラクターに変換させ、登場させたと思う。
性格の強い人、独断的な人、わがままな人、無知な人、甘やかされた人、他人の気持ちが理解できない人など、監督にとって問題がある人たちを、『千と千尋の神隠し』に登場させた。監督は、実際の人物たちと激しく喧嘩したり、絶交したり、なだめたりしたかもしれない。
実際、誰でも、毎日生活の中で、避けることのできない嫌な人とかがいるだろう。
しかし、社会人であれば、嫌いな人でも、なんとか、やりくりをしながら社会関係を保つという努力をしている。
嫌なことを避けてばかりはいられないし、工夫や努力で乗り越えないと、その先の明かりが見えないことも多い。
乗り越えてしまえば、その山はたいしたものでなくなるかもしれない。
『千と千尋の神隠し』も、甘やかされて育った千尋が、おどろおどろしい連中とかかわり合いながら、成長するストリーだ。子どもが、経験を重ねて成長していく過程は興味深いものだ。
宮崎監督のように、人生経験が豊富で才能ある人であれば、自ら信じることを、映像で表現してみたいと思うだろうし、信じている大事なことを世の中に伝えようとするだろう。
ジブリ映画は、子供に伝えたい正義、勇気などに溢れている。小児は、まだ、自分で考えて乗り越えるという力がつかないが、アニメは、勇気や正義のお手本を示すことはできるだろう。
実際につらい体験をしながら育つということは、子どもの心の成長には役立つ部分があるが、意地悪な性格になることもある。子どもの時に受けた意地悪を、大人になってから、他人に繰り返してしまうこともある。
子どもは、他人に気兼ねなく、楽しく育つことが何より、健康な大人になるために必要だ。
周りの人たちに愛されて満たされて育つことは、子どもの人格形成には、とても大事なものだろう。
アニメや映画は、多彩な世の中のしくみや人生の厳しさを学べたりもできるツールである。
他の方が書いた映画のレビューを見ると、アンナの性格が悪く、主人公に感情導入できないとするコメントがある。
アンナの性格の悪さが、映画そのものの評価を落としている感じる人がいるようだ。
人がそれぞれ、どのような感想を持つかは自由だが、徹底的にけなした論評も少なくない一方で、読む人が、楽しくなくなるコメントもある。
こうした論評を呼んでいると、人の感じ方は、さまざまでありことが、よくわかる。
ある人にとって正当な考えであっても、他の人にとっては、正当とは言えないものとなってしまう。
映画の論評に書きこまれている投稿者にとっての正当は、その人が正当と信じていることに過ぎない。
所詮、正しい事は、曖昧で実態のないものだ。映画の論評を読むと、書きこまれている正当性が、各人ごとに解離していることに驚かされる。
映画「思い出のマーニー」前半のアンナも、自らが不幸であると感じる心にとりつかれ、疑いようもなくみじめな毎日であると、アンナは感じている。
しかし、映画の後半では、彼女は、そうした自分が正しくないことに気づくのである。
視点や評価を変えるということは、生きやすい人生を送るために大事なことだ。