京都暮らしの日々雑感 -6ページ目

鏡面仕立ての意味

ゲージ屋の「夢」というものが、

ブロックゲージ並の平面度と面粗度とを手仕事で実現する、という点にあったのだが、

そのことが簡単に実現できるということなのである。

市販の、アルカンサス砥石と、研磨砥粒、植物油の組み合わせという、

実に単純明快な道具立てで実現されるのである。

 

よく語られていることは、

「平面の鏡面仕立て」という作業は、

誰にでも簡単に取りかかれる作業であるから、

単に磨くという手間を掛けるだけの労務作業と見なせるから、

派遣でもバイトでも、誰でも配置して作業にあたらせれば済むものだから、

わざわざ正社員様が担当するまでもない作業であるという、

そういう見立てが行き渡っているような次第である。

 

誰にでも開かれていて、誰でも実現できる、というのである。

その見立てが正しいというならば、

超精密加工とか何とかの触れ込みで、

学会でも総力を傾注して技術開発に取り組んでいる課題は、

手作業の世界ではとっくに解決されているというのである。

 

鏡面仕立てが「完成」しているかどうかは、

その鏡面が他のワークで仕立てられた鏡面との間で、

リンギングするかどうかで判定される。

リンギングするかどうかという物理現象で判断されるjから、

何か特別な計測装置も要らない。

 

だから、この鏡面仕立ての技法がいっそう一般に普及すれば、

日本のもの作りも更なる一歩を踏み出せる音になる。

 

もっとも、ここから新たな課題も生じてくるのである。

せっかく仕立て上げた鏡面も、ちょと発錆が生じたら、ぶち壊しになるのである。

その鏡面の母胎である母体が応力変形を来せば、

リンギング作用は喪失されるから、

鏡面仕立てをする意義が損なわれる。

鏡面仕立てを、単に美術装飾的な目的で採用するというならばともかく、

リンギング能力を喪失するということは致命的な欠陥となる。

これらの解決というのは著しく困難である。

 

鏡面仕立てに成功したならば、直ちにこんれらの困難さに直面するのである。

 

志村史夫著『古代日本の超技術(新装改訂版)』講談社ブルーバックス

ともすれば、「昔の日本は凄かった!」とか、「凄いぞ!日本!」という、

自画自賛に帰着してしまいそうな話なのだが、

確かに、この現在につながる技術・技能が、

1000年、2000年前に既に確立されていたという事実は、

驚嘆に値するのである。

従って、過去の歴史において「既に見失われ喪失された技術・技能」には、

現在の日本が直面している様々な難題の解決の糸口が、

見出されるであろうと考えることはもっともなことで、

「温故知新」というか、

そういう努力が求められているという話なのである。

 

かつての日本には膨大な職人層が確かにあったわけで、

その彼らが、単に先達たちから継承してきた技術・技能を墨守していただけでなく、

新しい創意工夫をこらして、

その技術・技能を洗練させ、いっそう発展させるべき努力をしてきたわけだから、

当然に、超絶的な高みにまでその技術・技能は到達するわけである。

 

そんな、こんなを考えていくと、技術・技能と国家権力という問題に突き当たる。

権力が、その何かを実現しようと決意したならば、

技能者が足りなければ国内だけでなく海外からも呼び集めろ、

必要な資材はどこからででも調達しろ、

必要な資金は青天井で保障するから、資金のことは心配するな、と、

そういう条件に恵まれて、

「超技術」というものは実現戯れたのであった。

職能者が「食えない」ということであると、技術も技能もへったくれも無いのである。

そのため、工業生産の分野でだけでなく、他の分野においても、

職人層というものは結構大事に扱われてきたという歴史があった。

 

 

半導体分野で、今後の日本経済の帰趨を決する問題として、

大規模な政策投資が企図されている。

海外メーカーの日本への進出を歓迎するとともに、

しかしながら、必要な技能者の育成についてはこれから力を入れるということで、

まさに「泥縄」の醜態を演じているわけである。

日本の半導体事業が駄目になったのは、

アメリカとの外交で「敗北」したためで、まさに政治問題、権力問題であったのである。

権力の側で思い直せばすべては復旧・復活できると考える訳なのだが、

そんな甘い幻想では、うまくいくわけもないのである。

 

技術・技能というものは、

その担い手の存在が問われるものであるから、

いったん喪われると、その復旧・復活にはほとんど絶望的な努力が求められる。

そういった危機意識の高まりの一方で、

日ごと夜ごとに技術・技能が失われていっているのである。

 

 

「ゲシュタルト的」なる発想について

遊離砥粒ラップ/湿式の技法について言うと、

研磨工具・研磨砥粒・研磨加工油、の3つの要素を取り上げて、

それぞれの作用の連関を考察するという方法論を採っているのだが、

この三分肢説は、一定の思考経済的観点によるものではあるのだが、

実体的には、ゲシュタルト的な思考が要請されるものなのである。

従って、個々の要因を採り上げて、その相互の因果律に基づいてその作用を考えようとしても、

なかなかうまくはいかない。

例えば、研磨加工油の働きについて、

そのワーク表面と研磨加工工具表面との間での潤滑効力と、

研磨加工砥粒の加工力の発現という、二重の働きが同時になされるのだが、

その理解と評価とを固定的な因果律に基づいて考究しようとしても、

何かがすっきりと解明されるというわけではない。

従って、どうしても「ゲシュタルト的」な思考に拠らざるを得ないのである。

 

研磨加工油について言えば、

植物油であれば(鉱物油であっても構わないのであるが)、

何を使ってもその潤滑機能は発揮される。

ワーク表面がどういった面に仕立て上げられるかは、

作業者が目的とする表面仕立てができているかどうかのイメージとの比較になるから、

研磨加工砥粒や研磨加工油についての選択の問題に直面する。

 

つまり、研磨加工油の油種の選択という問題に局限されるわけではないのである。

 

この「ゲシュタルト的」という思考を支えているのは、膨大な経験知である。

 

研磨という作業は、それこそ縄文時代からの経験知が蓄積されてきているから、

道具立てや研磨資材が豊富に出回っている現在にあっては、

誰もが手掛けられて、誰もが実現でき得る加工方法であると見做されやすい。

しかしながら、言ってみれば、最新鋭の最前衛の加工技術を誇る機械設備を持って加工をしても、

まだその先があったということであり、

その加工課題が、素人芸の手作業に拠らざるを得ないということでは、

いかにも不合理で、とても耐えがたい非合理なのである。

そのため、「超微細加工」とか「超精密加工」と称して、機械化を企図するという方向性が生まれる。

様々な試論が提案され企図されてもいるのだが、

いずれも、ワークも加工諸手段も、ニュートン力学でいう「剛体」であると前提するから、

うまくいくわけがないのである。

 

鏡面仕立てでの加工油の働き

鏡面仕立ての最終段階では、

ワーク表面に対して、研磨工具が研磨砥粒を動作させて仕立て上げを行うのだが、

その際におけるか鉱油の働きが決定的な意味を持つのである。

 

加工油は、この段階では、

一定の油膜厚を維持するだけの「油膜強さ」を発揮し、

一定の油膜厚さによって、研磨砥粒のワーク表面への働きかけを均等・均一なものとする。

その加工油の油膜厚さに基づいて、研磨工具のワーク表面を摺動するという、

研磨加工動作を円滑なものとする。

 

従って、この段階で決定的な加工油の性質というものは、

この油膜厚の強さ、であると言わないといけない。

 

この場合、テスト的には、「米油」が良好な結果をもたらす。

 

「米油」の物理物性がどのようなものであるかを解説した文献は皆無で、

あるいは、A社の製品たる「米油」と、B社が製造販売している「米油」とが、

100%同一のものであるという保証はないので、

私の下でのテスト結果がどこででも通用するといった保証はないのだが、

一応、こういう結果は公開しておこう。

 

加工油として植物油を取り上げる場合、

その多くは食物油」であって、

ベースになっている種類の油分に、

様々な他成分が添加されている加工性が否定できない。

あるいは、研磨油として活用する際の環境温度の違いに応じて、

その粘性が違ってくるということもあり得るので、

いろいろと留意すべきことも多い。

 

テスト的な段階では、

できるだけ単種収・純種の油種を用いてテストするということになるのだが、

2種あるいは複数種の油種を混和してテストするということも、

極めて有意義なこととなるだろう。

 

さて、こうして仕立て上げたワーク表面が、

本当に鏡面という定義に当てはまるものであるのかどうかが問われる。

 

ガラス平面にアルミニウムを蒸着させたいわゆる「鏡」と、

鉄鋼材料を磨き上げた「鏡面」とは、

明らかに違っているわけで、

これは、

平面に当てた光をどれくらいに正反射するか、乱反射するかの違いと、

平面が吸収する光の量の違いといった問題に関わる。

 

 

手仕事の世界

今回、平面作りの鏡面仕立てという課題に改めて取り組んでみて、

「平面」というものをどう定義するか、

「鏡面」というものをどう定義するか、という問題について、

研磨加工を施したワークの表面と、他に仕立て上げられた平面との間で、

相互にリンギング力が発現される平面という点を客観的な指標として、

再定義するという結論を得たのであった。

リンギング力というものは、ワークなり平面を持つものの質量がもたらす効果であるから、

このリンギング力というものは一般的で普遍的なものであって、

その発現を遮断する(無重力)とか逆作用させる(反重力)とかはあり得ないことだから、

このリンギング力の発現という段階で、それが一つの到達点とすることになるのである。

 

しかしながら、実務的には、

リンギング力が発現した、では、それをどう乗り越えていくんだ?という課題が出てくる。

例えば機械ラップの世界にあっては、

このリンギング力の発現に伴って、

ワークそのものが簡単に破砕されてしまうし、

機械そのものも潰れてしまうという結果がもたらされる。

このことを正面から論じた論文はないようなのだが、

詰まるところ、遊離砥粒ラップ/湿式という技法それ自体の「限界」というものが、

改めて強く意識されることになるわけである。

 

さて、あんなこんなと様々な知見がもたらされた試みであったのだが、

改めて「職人の技芸」というものを語っておきたい。

 

平面作りの鏡面仕立て、といってはみても、

何か具体的な注文を受けるわけではない。

従って、何か利益を生み出す仕事ではない。

あるいは、そのことによって、何かゲージ屋としての技術力が誇示できるか?と言えば、

それによってゲージそれ自体の品質レベルがどう左右されるんだ?ということになるから、

現実的で具体的な「メリット」という点を顧みれば、

単純に、遊離砥粒ラップ/湿式の技法とは何ぞや?、

その技法の限界は奈辺にありや?という「好奇心」がもたらしたところの、

職人の「芸」なのである。

だからこそ職人暮らしは面白い、と言うことも言えるのだが、

だから何なん?という無駄話とも言えるのである。

 

これまでの作業で、瑪瑙製の定盤とか加工工具というものが登場しているのだが、

これは全くの私の創見であって、

ネットで、瑪瑙製の乳鉢というものを見つけて、

乳鉢に活用できる素材なら、ラップ加工の世界で十分に活用可能だと見極めて、

瑪瑙板を販売している商店がありました、

瑪瑙板を加工してくれるところが見つかりました、という幾つかの幸運もあって、

このチャンスでないと道具類の製作と購入が果たされないと意気込んで、

しかしながら、その道具を生かすべき仕事はない。

そのまま長く引き出しの奥でストックされていたものである。

今から調達しようとするのも困難があるかも知れない。

だから、何か代替的な資材を考えなければならないし、

その考えた結果はその作業者の独自な工夫になるだろう。

 

何せ、職人の修業というものは、「まねる」ということに終始するとされている。

だから、適切な指導者の下で、その指導者の行態を正確にまねることによって、

その技能が承継されると考えられているのだが、

まねてみようとしてもうまくはいかないことは、既に世間承知の事態なのである。

だから、そこには、

何か秘密の「ノウハウ」であるとか、特異な「こつ」というものがあるに違いないと、

そういう思い込みを招いてしまうのだが、

そんなものはないわけで、

職人芸というものは、きちんとした理論体系の下で、きちんとした論理的な技法に拠って、

成立しているものであるから、

「まねる」のではなく、「学ぶ」ことが必須なのである。

もっとも、

鏡面作りにおいても、誰でも簡単に鏡面仕立てができるという触れ込みで、

様々な加工手段が市販されている時代にあって、

「誰でもできる」はずのことが自分ではうまくできないとなると、

自分という技能職の評価がすっかり下がってしまうから、

大抵は、手仕事の世界に携わることを嫌がる。

だから、いったん手仕事の領域を喪ってしまった事業体では、

その復活はほとんど絶望的になるのである。

 

もの作りがどうとこうとかと声高に語られる昨今ではあるのだが、

言うだけなら誰でも言える、というお粗末な次第なのである。

 

鏡面仕立ての謎の謎

ゲージ屋の職業的な「性(さが)」と言うべきか、

昔から、「ブロックゲージ並の平面度と面粗度を手作業で仕立て上げる」ということ、

職能としての目標とされてきた。

私自身としては、

CBN砥石を使っての固定砥粒ラップ/乾式の技法に拠って、

この課題の解決を果たしたのだったが、

ゲージ屋の世界では、鏡面仕立てにはアルカンサス砥石の活用が必須であるという、

この「常識」というか「確信」があったわけで、

それがどういうことを意味しているかが問題としてなお残ってきているのである。

 

なぜアルカンサス砥石か?

私の理解としては、

アルカンサス砥石の砥石としての研磨力を活用するというのではなく、

アルカンサス砥石を「補助工具」として、

実際には研磨砥粒の各粒度での研磨力を発揮させる、という、

そういうことなんだろうという理解をしたのである。

実際に、#600~#30000に至る市販の全粒度でアルカンサス砥石は有効なのである。

しかしながら、

このアルカンサス砥石の活用法では、これは遊離砥粒ラップ/湿式の技法であるから、

採用した砥粒の粒度に応じて、ワーク加工面には、その加工痕なり砥粒の擦過痕が刻まれる。

この問題の解決には、

アルカンサス砥石よりも更に硬質な加工工具を採用することで解決を図るのである。

従って、アルカンサス砥石+#30000砥粒ではその加工痕なり擦過痕が残るが、

瑪瑙製加工工具+#30000」砥粒では、加工痕なり擦過痕が消去される。

何故にこういった事象が可能なのかは、私には了解できてはいない。

ハンドラップ技法ででの経験に基づけば、

遊離砥粒ラップ/湿式の技法と、固定砥粒ラップ/乾式の技法とは、

究極的には「等価」なものであるという知見を得てはいるのだが、

この加工痕なり擦過痕を消去できるということには、

遊離砥粒ラップ/湿式の技法が、実は固定砥粒ラップ/乾式の技法として機能しているからと、

そういう可能性を感じてはいるのである。

 

瑪瑙製研磨工具というのは、私の「独想」によるものであって、決して一般的なものではない。

従って、他の工具資材で代替可能かと言われれば、十分可能であるわけで、

実際にも、様々な資材が工夫され採用され活用されているはずなのである。

 

さて、鏡面仕立てができました。

その鏡面仕立ての意味が炉割れるのである。

鏡面仕立ての独自的な意味とは、

その平面が他の平面に対してリンギング力を発現するということである。

リンギング力が発現するような平面仕立てを行うということがここでの目的であるから、

これは当然の望ましい結果であるだろうと思われるのだが、

ワーク表面の最終仕立てが著しく困難になるのである。

最終仕立ての段階では、加工油の油膜厚さは限りなく薄くなり、その粘性が大きくなる。

合わせて、ワーク表面のリンギング力が発現してくるから、

加工動作に対する抵抗力がいっそう大きくなってくるのである。

その対処法として、

研磨工具のワーク表面に接触する面積を小さくするという工夫があり、

あるいは、研磨工具の加工面に丸味を持たせて、リンギングしないように抑止するといった、

いろいろな工夫があり得る。

これに関しては、

平面仕立てとは、研磨工具の平面をワーク表面に移していく、という加工と見るか、

加工工具表面を凸R面として、ワーク表面を平面に加工していく、という見方をするか、という、

基本的な加工姿勢に関わる問題である。

加工工具の平面をワーク表面に移していく加工、というのは、

現実的には、仕事にならないだろうというのが私のスタンスではある。

 

ゲージ屋にとっては、平面の鏡面仕立てという作業は、基準面を作るという基礎作業の一つであって、

それのみを切り離して、独自に商品的な価値を持つ作業とは見做されてはいない。

しかしながら、在来のニュートン力学から現代の量子力学への入り口として、

この鏡面仕立ての作業があるわけだから、

損得や利害得失を離れて、是非チャレンジしてみるだけの値打ちはあるだろう。

 

ピアノ・ブラック 鏡面仕立ての究極

鉄鋼材料の一面を鏡面仕立てとする場合、

その研磨面が、ガラス鏡面と等しいようなすっきりとした写像を写す面となっている状態を、

ピアノ・ブラックと指称するらしい。

例えば、アルカンサス砥石を用いての平面研磨で、#30000GC砥粒を用いて研磨した場合、

その仕立て上げられた平面では、金属特有の灰白色の写像を呈して、

すっきりとした写像を呈するわけではなく、

言わば「ピンボケ」のような仕立て上がりになる。

なぜそうなるか?を考えないことには、鏡面仕立てが完成するとはとても言えないだろう。

 

#30000GC砥粒を用いての鏡面仕立てという段階を見ると、

ワーク表面には微細な擦過痕が認められ、その消去ができないことが分かる。

この段階での研磨方法は、遊離砥粒ラップ/湿式の技法であるから、

砥粒がワーク平面に対して研磨作用を及ぼすのであるから、

いつまでたってもこの砥粒の擦過痕というものは消去できないという訳である。

しかしながら、その擦過痕の原因が研磨砥粒によるものであるかどうかを考えると、

それがGC砥粒によるものではなくて、

実はアルカンサス砥石表面から剥落してきた粒子によるものではないか?と、

考えられるのである。

従って、この段階では、アルカンサス砥石の利用から、他の手段を執らないといけない。

 

つまり、#30000GC砥粒をその表面に保持しつつ、

その表面から容易には構成砥粒が剥離しない強固な結合をしている素材、ということになって、

具体的には、セラストン(by ミツトヨ)とか、ルビー砥石、瑪瑙・・・といった研磨手段である。

これらを採用すると、

実際には、軽く繊細に研磨するということではなくて、

比較的大きな力で研磨工具をワーク表面に押し当てて研磨すると、

ワーク表面がいっそう正しく研磨されて、ピアノ・ブラックの写像を実現するのである。

では、どの程度に強い押し圧力が必要かは、言わば職人芸であって、経験による。

 

この段階をもう少し仔細に説明すると、

研磨工具表面というのは固い表面であるから、

そこに配置される研磨砥粒は均等・均一に並ぶ。

その均等・均一にけんか粒子を並べるというのが、研磨加工油の働きである。

そこに比較的大きな押し圧力を賦課すると、研磨砥粒の粒子の切り羽の頭がそろうということになって、

ワーク表面に対して正しい研磨加工が可能となるのである。

加工油の働きは、この段階では、

研磨砥粒を研磨工具表面で均一・均等に配置する、

個々の砥粒を必要最小限度にコーティングして、その働きを潤滑機能でサポートする。

研磨工具表面で研磨砥粒の一を固定して、ランダムに作用しないようにその方向性を整序する、といった、

そういう役割を担えるような油種でないといけないことが自ずと分かる。

これらの要件は、実は、言わば固定砥粒ラップ/湿式という分類が可能かも知れない。

 

ハサミゲージ製作技法としてのハンドラップ技法について、

遊離砥粒ラップ/湿式と固定砥粒ラップ/乾式の技法について

かなり徹底して検証を加えてきているのだが、

そこでの結論として、

遊離砥粒ラップ/湿式の技法と固定砥粒ラップ/乾式の技法とは、

究極的には「同値」であるという結論に達していたのであったが、

ハサミゲージ製作に限定されず、更に一般的な平面仕立ての世界においても、

同様の論理に従っての技法開発が可能であるということが、個々での私の主張である。

特に強調されるべきは、

超微細加工の究極と言えるような鏡面仕立てにおいて、

ダイヤモンド砥粒を後いる場合は、

できるだけ柔弱な研磨工具を用いて、繊細微妙な研磨作業を要するといった主張を、

改めて否定することにある。

鏡面仕立てにはダイヤモンド砥粒の活用が必須であるということにはならない。

 

また、アルカンサス砥石に関しては、

それが、#600~#30000の研磨砥粒について有効な研磨能力を発揮するということなのだが、

しかしながら、その研磨作業の究極においては、

なお、アルカンサス砥石ではうまく対処でき得ないものが残るという、

その「発見」と更なる技法の「開発」が、ここでのポイントとなる。

 

平面作りの鏡面仕立て・技法のまとめ

平面作りの鏡面仕立てというテーマは、

ゲージ屋から言わせれば、

遊離砥粒ラップ/湿式の技法に拠るワークの基準面作りの作業そのものであるから、

まさにゲージ屋が携わるべき職域に関わるテーマなのである。

しかしながら、他方で、

ブロックゲージと同等のワーク表面仕立て」が永年にわたるゲージ屋の目標であったのだが、

その解決が非常に困難な課題でもあったのである。

そうこうしているうちに、

「誰でも簡単に鏡面仕立てができる」という触れ込みで、

様々な研磨材が一般に市販されだして、

これらの資材を活用しさえすれば課題は解決したとばかりに、

鏡面仕立てという作業は、

単純な「手間暇」を掛けるべき労務作業であるかのようなイメージが定着した。

ゲージ屋から言わせれば、この作業はゲージ屋の職域であるから、

鏡面仕立てができる作業者は、もう少し頑張ればゲージ製作技能が獲得できるのである。

決して「素人芸」で賄えるようなものではない。

 

従って、ゲージ屋の立ち位置から、この技法をきちんと解析する必要があるだろうと思うのである。

 

 

《始めの一歩》

 

平面研削されたワーク表面を、WA砥石もしくはWA砥粒で研磨する。

WA砥石を使う場合は、#600~#1500程度の粒度のものが適用されるが、

WA砥粒を使う場合は、#3000程度のものまで活用できる。

この場合、研磨工具としては鋳物製が使えるのだが、

実務的には、アルカンサス砥石を使う。

アルカンサス砥石を研磨工具とするということは、

実は、#30000に至る最終研磨に至るまで、この技法で行くということなのである。

研磨砥粒の粒度が#3000を超える段階では、

WA砥粒ではなくて、GC砥粒を用いる。

 

《中間工程》

 

#3000WA砥粒で仕立てたワーク表面から出発して、

私の場合は、#6000ないし#8000のGC砥粒で中間仕立てを行う。

研磨加工油としては植物油を使うのだが、この点は、最後に説明する。

この中間工程をどう区分分けするかは作業者の判断による任意のものである。

 

《最終仕立て》

 

最終的な目的である「鏡面」の程度に従って、

#10000~#30000のGC砥粒で仕立て上げる。

研磨工具としてあるカンサス砥石を使うことに変わりは無い。

ただし、#30000GC砥粒を使ってワーク(鉄鋼材料)表面を研磨した場合

ワーク表面に生じる微細なナ研磨痕を完全に消去することができない。

従って、アルカンサス砥石は

#600~#300000に至る全領域で研磨能力を発揮する工具なのだが、

完全な仕立て上げに際しては、アルカンサス砥石は適切ではない。

そのため、ワーク表面に微細な擦過痕を残さないような研磨工具に持ち代える必要がある。

 

鏡面仕立てにはダイヤモンド砥粒を使わねばならない、といった、「通念」がはびこっているのだが、

必ずしもダイヤモンド砥粒を採用しなければならないという理由はない。

もっとも、この点は「手作業」であるからこそ言えることであって、

機械ラップの場合はダイヤモンド砥粒の活用という点が強調されてきているから、

活用できるものなら活用すべし、という以外にはないのである。

 

 

《アルカンサス砥石なるもの》

 

アルカンサス砥石を使うのは、

アルカンサス砥石の固有する研磨能力を活用しようというのではなくて、

アルカンサス砥石の表面が有する研磨砥粒保持能力を活用するもので、

閻魔能力を発揮するのはこの研磨砥粒なのである。

アルカンサス砥石表面にグリップされている研磨砥粒の研磨能力は大きいものがあるから、

この種の作業に際しては必須の研磨工具となる。

ただ、GC#30000の粒度での研磨での微細な擦過痕の発生が見られるのは、

アルカンサス砥石表面を構成している粒子の物理物性によるものとしか言い様が無い。

そのため、アルカンサス砥石よりもいっそう強固に成型されている素材を研磨工具にするわけで、

例えば、セラストン(by ミツトヨ(株))、ルビー砥石、瑪瑙・・・といった研磨材を用いる。

 

 

《加工油の問題》

 

加工工具としてアルカンサス砥石、加工砥粒としてWAもしくはGC砥粒、と決まり切ったものであるから、

研磨作業の効果なり効率を大きく左右するものとして加工油が決め手となる。

 

加工油の働きは、

一つには、その「油膜厚さ」にある。

加工油は流動物であるから、加工工具に圧力を加えれば、

その加圧力に応じて、ワーク表面と研磨工具表面との間の油膜が押し出されて、

油膜厚みが小さく薄くなっていくと見做されそうなのだが、

実際には、一定の厚みが維持される。

この「油膜厚み」の範囲内で、研磨砥粒が作動するわけで、

従って、この油膜厚みを維持する性質というものが、油種選択の一つのポイントになる。

この油種厚みを、その油種の「固さ」と呼んでいる。

 

更にもう一つの働きとして、その潤滑能力がある。

ワーク表面と研磨工具表面との間で、

円滑に研磨工具を摺動可能とするだけの潤滑性が発揮されないと、

作業がおぼつかない。

 

最後の一点として、研磨砥粒の個々をコーティングした、

研磨砥粒の切り羽がワーク表面に対して切込みし、

あるいは、研磨マ工具表面にうまく固定されるべく、

研磨砥粒の個々の粒子をコーティングするだけの「伸び・展性」を持たないといけない。

 

この三点を勘案しながら、具体的な研磨砥粒の粒度に相即した油種を選択するのである。

従って、、時と場合に応じての油種選択という視点が大切で、

○○油を採用すればすべてうまくいくというものではない。

そこで選択する油種として植物油を採用するのは、市販の油種の豊富さによる。

昔から、タップ油として胡麻油、切削油として菜種油、研磨油として椿油・・・という活用例があるが、

鏡面仕立てに振りかけるドレッシング油を工夫すると、一味変わってくるという次第である。

もっとも、植物油といっても実際に購入できるのは食品油として精製されたものであるから、

○○油といっても100%純粋に○○油であるかどうかは分からない。

 

 

《鏡面とは?》

 

「鏡面」をどう定義するかについては明確ではないのだが、

常識的な通念として、

良質な平面度、と、

良質な面粗度、とが指摘される。

後者の面粗度には、いろいろな擦過痕や不規則な傷がないことと、

別に作製された完璧な平面との間で、相互にリンギング力が作用するだけの面粗度、ということが、

それぞれ前提されていることが分かる。

しかも、これらの面性状は、如何なる研磨手段で研磨されたものであるかとは無関係なのである。

従って、「鏡面」というものと「ダイヤモンド」という物質とは、実は、直接の関係はないと言えるのである。

 

しかしながら、ダイヤモンドという物質がまとう、言わば「神秘思想」の効果とも言うべきか、

ダイヤモンド砥粒を用いて鏡面仕立てを行ったと言うと、

いかにも丁寧で貴重な仕事を行ったと言わんばかりで、有難味が増すだろうし、

地上で最も固い研磨材でワーク表面を仕立てたものだから、

ワーク表面の光輝性が至高のものとなっているはずと、

顧客満足度がいっそう高まるであろうことが期待されてもいるだろう。

 

 

リンギング論・再論

平面作りに取り組めば、自ずとその平面が発揮するリンギング力に直面する。

経験的には、#8000研磨砥粒で研磨加工した面でこのリンギング力が関知されるので、

研磨工具としてアルカンサス砥石を使う場合、

アルカンサス砥石というのは構成粒子の集結体であるから、その方面には凹凸があって、

リンギング力の発生は回避できるかと考えられそうなのだが、

層はならなくて、アルカンサス砥石表面それ自体が燐品具力を発現する。

 

このリンギング力の発生を抑止しようとするには、

ワーク表面と研磨工具の表面との間に介在する加工油面の「厚さ」を調整して、

リンギング力が発現しないだけの面間距離を確保することである。

この面間距離が過大であると、

研磨砥粒粒子の粒径よりも大きいと、

研磨砥粒粒子の切り羽がワーク表面に届かなくなるから、研磨効力が著しく劣化する。

普通に考えると、

研磨加工油というのは流動体であるから、

力を付加すれば、その賦課力に応じて面間の距離が小さくなると言う次第で、

最終的には、加工研磨砥粒の粒径にまで加工油膜の厚さが小さくなると考えたくなるのだが、

実際には層はならない。

また、加工油の油膜というものは、その厚さが小さくなるに従って、摩擦抵抗を発現するようになるから、

言い換えると、その「粘性」が高まるから、研磨作業が困難になる。

 

この問題の解決の方向性として、

加工油の油性を変えて、もっと軽い油種を採用する、

研磨工具の加工面をいっそう小さなものに作り替えて、リンギング力の発現を小さくする

・・・といったことが考えられるのだが、

万有引力の働きを抑制するとか、その働きを消去するとかの方法手段は、我々人類は持ち合わせていないから、

いろいろなジレンマに突き当たる。

 

さて、#30000のGC砥粒による平面仕立ての鏡面作りという技法は、

遊離砥粒ラップ/湿式の技法の最高・最終形態なのである。

もっとも、ダイヤモンド砥粒の採用を考慮すると、

単結晶ではいっそう粒度の大きなものがあり、

多結晶のものであればいっそう細かな粒度のものが四は暗されているから、

更なる「限界」に向かって突進していくというのもアリなのだが、

そこまで要求される事例があり得るのかどうか疑問なのである。

 

最後に。

手作業による遊離砥粒ラップ/湿式の技法に拠って、加工能力というものはここまで到達している。

作業のために、高精度な面粗度計測装置や平面度測定装置を駆使するわけでもなく、

伝統的な「三面会わせ」の原理に基づいての作業なのである。

従って、「誰でも簡単に鏡面作りができる」という触れ込みで各種の研磨手段が市販されているのだが、

そんな宣伝惹句通りであるなら、こんな加工テーマが話題になるはずもないのである。

 

鏡面仕立てとリンギング現象

ワーク表面を鏡面仕立てに摺るためには、

ワーク表面を磨き上げる研磨砥粒と、その加工油、磨き加工を行う磨き工具の、

いわゆる「三点セット」で作業を行う。

 

最終的には、#30000のGC砥粒を使いこなすという目的があるから、

それを準備する。

磨き工具として、アルカンサス砥石を使う。

加工油は、各種のものが活用可能だから、自分でこれと決めたものを使う。

 

これらの活用によって、#30000GC砥粒による磨き加工が完了するのだが、

この技法はまさに純然たる「遊離砥粒ラップ/湿式」の技法であって、

つまり、ワーク表面を研磨砥粒が「擦過」していく加工方法であるから、

必ずその「擦過痕」を残す。

人間の視力というものは、この#30000砥粒の擦過痕をはっきりと読み取ってしまうから、

この状態では、一般に定義されるような「鏡面」にはなっていないのである。

 

従って、鏡面仕立てのためには、もう一段階の加工段階が求められる。

 

つまり、磨き工具としてあるカンサス砥石を使った場合、

ワーク表面には加工痕が残り、ワーク表面に写る写像も言わば「ピン呆け」状態なのである。

そこで、アルカンサス砥石よりもいっそう固い「瑪瑙」で作った磨き工具を使う。

これによって、ワーク表面に残る凹凸や微細な擦過痕を消除するのである。

 

この場合、磨き砥粒としてGCを使っているが、

理屈の上では、CBN砥粒であっても、ダイヤモンド砥粒であっても同じで、

最終的な鏡面仕立てのためには、研磨砥粒の種別が問題になるのではなく、

研磨工具の側の物理物性が問題になるのである。

こうして、鏡面仕立てが完了する。

 

さて、こうして仕立て上げられたワーク表面の物理的な特性として、

手作業として最高の平面度と面粗度が実現されるという点がある。

単に「ワーク表面が綺麗に仕立て上げられていr」という装飾性の問題ではないのである。

この平面度と面粗度の結果として、

このワーク表面が別な適切な平面に対して「リンギング力」を発現するという点が存する。

仕立て上げられたワーク表面を綺麗に払拭して砥粒や油脂分を除却し、

同じく、研磨工具表面も綺麗に払拭して、

この二つの面を摺り合わせて密着させると、

リンギング力によって容易に分離しないような接着力を生じるのである。

 

鏡面仕立てを行うためには、

いわゆる「三面会わせ」の原理が適用されるため、

特別場測定機器が必要治される訳ではなくて、

あくまで手作業のみで実現され得るものである。

そこで必要な配慮というものは、

加工砥粒の粒度に応じた加工油の「油膜厚さ」であり、

その「油膜厚さ」を保持し得る「油膜固さ」と「油膜潤滑性」とが指摘される。

この観点からの思慮と経験が無いと作業はうまくいかないだろうということが分かる。