志村史夫著『古代日本の超技術(新装改訂版)』講談社ブルーバックス | 京都暮らしの日々雑感

志村史夫著『古代日本の超技術(新装改訂版)』講談社ブルーバックス

ともすれば、「昔の日本は凄かった!」とか、「凄いぞ!日本!」という、

自画自賛に帰着してしまいそうな話なのだが、

確かに、この現在につながる技術・技能が、

1000年、2000年前に既に確立されていたという事実は、

驚嘆に値するのである。

従って、過去の歴史において「既に見失われ喪失された技術・技能」には、

現在の日本が直面している様々な難題の解決の糸口が、

見出されるであろうと考えることはもっともなことで、

「温故知新」というか、

そういう努力が求められているという話なのである。

 

かつての日本には膨大な職人層が確かにあったわけで、

その彼らが、単に先達たちから継承してきた技術・技能を墨守していただけでなく、

新しい創意工夫をこらして、

その技術・技能を洗練させ、いっそう発展させるべき努力をしてきたわけだから、

当然に、超絶的な高みにまでその技術・技能は到達するわけである。

 

そんな、こんなを考えていくと、技術・技能と国家権力という問題に突き当たる。

権力が、その何かを実現しようと決意したならば、

技能者が足りなければ国内だけでなく海外からも呼び集めろ、

必要な資材はどこからででも調達しろ、

必要な資金は青天井で保障するから、資金のことは心配するな、と、

そういう条件に恵まれて、

「超技術」というものは実現戯れたのであった。

職能者が「食えない」ということであると、技術も技能もへったくれも無いのである。

そのため、工業生産の分野でだけでなく、他の分野においても、

職人層というものは結構大事に扱われてきたという歴史があった。

 

 

半導体分野で、今後の日本経済の帰趨を決する問題として、

大規模な政策投資が企図されている。

海外メーカーの日本への進出を歓迎するとともに、

しかしながら、必要な技能者の育成についてはこれから力を入れるということで、

まさに「泥縄」の醜態を演じているわけである。

日本の半導体事業が駄目になったのは、

アメリカとの外交で「敗北」したためで、まさに政治問題、権力問題であったのである。

権力の側で思い直せばすべては復旧・復活できると考える訳なのだが、

そんな甘い幻想では、うまくいくわけもないのである。

 

技術・技能というものは、

その担い手の存在が問われるものであるから、

いったん喪われると、その復旧・復活にはほとんど絶望的な努力が求められる。

そういった危機意識の高まりの一方で、

日ごと夜ごとに技術・技能が失われていっているのである。