今日からコロナは5類移行となる。

遅いというより、これはもはや、何もしなくてもいいというか、どうでもいいレベル。

日本の政治は、難局にあたってリーダーシップを発揮するとか、先の見えない状況で果敢に決断を下して人々を導くとか、社会の変革を促すというより、むしろ、一難去って、社会全体に、新しいコンセンサスが生まれた後で、その事実を追認するのが唯一の仕事のようだ。

膨大な予算と優れた頭脳集団を活用して誰よりも早く状況の変化に対応した判断を下すのでなく、結論を可能な限り先延ばしにして誰よりも遅く判断を下すのが常套手段だ。そうすれば、メディアや国民から呆れられはするが、激しく批判されることはないと考える傾向が強い。

つくづく平和ボケした国である。存亡の危機に際して、適切な判断を下す能力が全く欠けている。その欠如が、あまりにも深刻である。

この国の政府は、有事に際して、何の決断もできない可能性が高い。

そのことを重く考えない国民もまた救い難い。

滅亡する直前の末期的な症状を呈している国家の姿に見えなくもない。

最近リリースされる歌・楽曲は、かつて(1980年代など)と比べると、ずいぶんとイントロや間奏が短くなっているのだそうだ。視聴者が、長いイントロや間奏を好まないからだと言う。

実際、曲を聴く時に、イントロや間奏をスキップしたり早送りする人は多いようだ。歌が始まるまで、待っている時間が〝無駄〟なので省略したくなるらしい。

かつて、1970〜1980年代の曲には、ずいぶんとイントロや間奏が長いものもあったが、その長いイントロが、逆に曲への期待感を徐々に高めていくタメになっていた。間奏のギター・ソロなども、逆に聴きどころだったりしたものだ。

 

昨今は、映画やドラマを、自宅やモバイル機器で観る時も、倍速や3倍速で観るという人が増えていると言う。「観たい映画がたくさんあるのに時間がない」「限られた時間でたくさん観たいから」「早送りしないと時間がかかって最後まで観れないから」らしい。

だから、制作者側も、そうしたニーズに応えるため、今の映画やドラマやアニメは、なるべく視聴者が退屈しないように、早いテンポでストーリーをどんどん進めていく。

一方、1970〜1980年代の「アルプスの少女ハイジとか「フランダースの犬」とかを今観ると、そのあまりにゆったりしたストーリーの展開に驚かされる。

 

どうも現代人は、この数十年のうちに、ずいぶんとせっかちになっているようだ。

だが、それだけでなく、私が最も大きな疑問として感じているのは、『曲をイントロや間奏をぶった斬って、勝手にテンポを変えて、それで聴いていて楽しいのだろうか?』『映画を3倍速で観て楽しいのか?』ということだ。

それって、本当に聴いている(観ている)ことになるのだろうか?

それで作品を心から味わえるのか?

人間の心ってそんなふうにはできていないのではないかと思うのだ。

そもそも、本当に夢中になっている時には、時間など気にする人はいない。時間が気になるということは集中できていないということだ。

 

現代人は〝味わう〟ことを知らない人が増えているのではないだろうか?

そして、それは、音楽や映画だけに限らないのではないか?

音楽をじっくり味わうことができない。

映画をじっくり味わうことができない。

料理をじっくり味わうことができない。

人間をじっくり味わうことができない。

味わうことができないということは、心から楽しむことができないということだ。

 

そういう〝心から楽しめない人〟を、古来から日本人は〝味気ない人〟〝味も素っ気もない人〟〝無粋な人〟と呼んできたのではないか。

古典風にいうと〝もののあはれがわからない人〟ということだ。

〝もののあはれを知る心〟とは、他人の痛みや哀しみを自分のこととして深く受け止めることのできる心のあり方を言う。

逆に〝もののあはれがわからない人〟は、歌の心も受け取れないし、物語や映像作品の世界をまるで自分がその世界にいるかのように臨場感を持って味わうこともできない。料理を作り手の心遣いまで感じて感謝と至福の時間を過ごすこともできない。人の話に深い共感を持ってじっくり耳を傾けることもできない。

 

昨今は、そういう〝とても忙しい人〟が増えている。

そういう忙しい人たちは、音楽も映画も料理も物語も人も、心から好きになることができないのではないだろうか。少なくとも、イントロや間奏をスキップしたり、映画を早送りで観る人に、曲や映画への愛は感じない。作り手への敬意を持っているようにも見えない。料理を味わうことなく、かきこむように呑み込むだけの人に、料理の作り手への感謝の念は感じられない。また、じっくり人の話を聴けない人が、本当に他者を理解し愛することができるとも思えない。

そういう真面目で忙しい模範的で優秀な人たちの〝共感のなさ〟が、現代社会の〝生き辛さ〟の主要な原因となっているような気がしてならない。

なぜなら、彼らは、会う人を、たとえようもなく寂しく虚しい気持ちにさせるからだ。

 

かつて、フィリップ・K・ディックは「人間とアンドロイドの違いは共感能力の有無にある」「人間は共感することができるが、アンドロイドにはできない」「他者に共感できるということが、人間的価値の全てなのだ」「共感能力を欠いている者は、たとえ身体が人間そっくりだったとしても、本当は中身はアンドロイドなのだ」と述べた。

ディックの言葉を借りれば、現代人の多くが、実は密かにアンドロイド化しつつあるのではないだろうか。

そして、アンドロイドには、人間の気持ちはわからないのだ。

 

 

最近、岸田政権は、「異次元の少子化対策を行う」と息を巻いている。

政府の少子化対策というのは、基本は児童手当・保育所・学童保育・育児休暇の充実など、いわゆる〝子育て支援〟の対策だ。

その理由は、少子化の理由を、主に若い夫婦の経済的な問題と考えているからだ。

だから、「子育てを支援する経済援助や環境整備を充実させれば、出生率は上がるだろう」と安易に考えているようだ。

しかし、本当にそうなるだろうか?

『夫婦の給料・賃金が低く、経済的に子どもを作る余裕がないことから、若い夫婦が子どもを作れないので、出生率が下がっている』という神話は事実なのだろうか?

 

事実はそうではない。

夫婦の給料・賃金が上がろうが、男女の役割分担が進もうが、託児所・保育所が増えようが、育児休暇が充実しようが、出生率は上がらない。 

なぜなら、今の世の中、男女が付き合ってすらいないからだ。 

異性と付き合いたくない若者が5割という社会で、子供が増えるわけがない。 

異性と付き合うのは面倒だと彼らは言っている。

他人に興味がないし、興味を持たれるのも嫌だ、と。

 だから、出生率の低下に、家計も男女役割分担も、まったく関係ない。 

子どもをつくろうとしないのではない。

男女が付き合おうとしないのが問題なのだ。

 

実際、結婚しているカップルにおける子どもの割合は、ほとんど減っていない。 

8人も9人も兄弟姉妹がいるのが普通という世代は、戦前世代の80代後半以前の話。 

70代〜60代は、兄弟姉妹は3〜4人が普通。 

50代なら兄弟姉妹は2人が普通だ。ひとりっ子も既に多かった。 

その頃と比べて、今の夫婦が子どもがさほど少ないわけではない。 

データ的にも、ここ30年ほど、夫婦の子供の数は横ばい状態でまったく減っていない。

夫婦の産む子供の数は変わらないが、夫婦になる割合が減っている。

夫婦の数を増やさないと、少子化に歯止めはかからない。 

経済的な優遇策とか子育て支援で、子どもの数が増えるとはとても思えない。 

 

そもそもの問題は、異性交際をする男女の割合が低下していること。 

おひとり様が気楽という人に、子どもを作れと言っても無理な話だ。 

他者と深く付き合うことを煩わしく感じる人が増えているのだ。 

人嫌いが増えている。

人間不信のストレス社会ということだね。 

ハリネズミのジレンマが蔓延する社会なのだ。 

相手に深く踏み込むのも、自分が踏み込まれるのも苦手で、どう踏み込めばいいのか、わからない。 

だから、関係が深まりようがない。

 

物理的に狭義の〝引きこもり〟でなくても、家族や他人と会話は交わしても、仕事上の業務連絡や当たり障りのない会話に終始して、プライベートな会話がない〝精神的引きこもり〟や〝引きこもり予備軍〟は、老若男女を問わず、この国では非常に増えているようだ。

話しかけるのも、話しかけられるのも面倒だと思う人たち。

他人に興味がないし、興味を持たれたくもない。

人と話すことに、ストレスしか感じない。

ともかく、はやく切り上げたい。

引きこもりたい。

 

彼らは〝現実(実社会)〟に諦めているのだ。

現実は楽しくない。

信頼できる人と出会えるなんていう奇跡は、まず起こらない。

だから、皆、楽しい仮想現実(バーチャル)へと逃避する。

根本は、この社会では、誰もが人と人が深く付き合う余裕を失っていることにある。 

つまりは、人間精神の相互許容度とか、社会における信頼関係構築の困難さとかに関わる問題。

そこを見つめなければ、この国の少子化問題は永遠に解決しないだろう。

 

「不純異性交友がダメ」とか、いつまでも時代遅れなことを言っていたら、国が滅びる。

効果的な少子化対策とは、極端に言えば、政府が積極的不純異性交友を大いに勧めるということになる。

「どんどん付き合え」というわけだ。

10代で子どもを産んだら不良と呼ばれるようでは困る。

モラルも価値観も、大幅な見直しが必要になる。

逆に言えば、これまでの人間不信を生み出す偏向した教育が、少子化の根本的な原因ということでもある。

「他人を見たら泥棒と思え」「家族以外の人はどうでもいい」

そういう家庭教育が、他者を信頼して尊重することを知らない世代を育てたのだ。

年長者を尊敬できず、子どもを慈しむことを知らない。

だから、若い男女も互いに深い交際ができない

そうした問題意識の自覚も自省もなく、異次元の少子化対策とか、軽々しく言わないで欲しい。

『福・禄・寿 等価交換の法則』とは、もともとは中国の道教の考え方です。

福とは幸福、禄は俸禄、寿は長寿を、それぞれ表しています。また、道教における「幸福」とは子孫繁栄を意味します。現代的に考えると〝晩年まで周囲からの豊かな愛情に恵まれる〟というイメージです。孤独とは無縁の人生ということですね。「俸禄」は財と地位と名誉と権力を意味し、〝立身出世して富貴な者となる〟〝社会的地位を確立する〟ということですが、現代的には〝お金を得る〟〝資産を生む〟というイメージです。「長寿」は、文字通り、健康長寿を意味します。

廟や寺社などの霊域で、霊に対して「私の願いをお聞き届けください」と祈ると、「幸福(愛情)と俸禄(お金)と寿命(健康)のいずれを望みますか?」と霊に問われます。そこで福・禄・寿の3つのうち一つを選んでお願いすると、自分が選んだその一つが本来の分より多く与えられ、代わりに、それ以外の二つから何かが削られるというものです。

これは「霊は、願いをかなえる時に、相応の代償を要求する」という道教の考え方です。

例えば、幸福を願うと、愛情が与えられる代わりに、お金か寿命、あるいは両方が失われます。お金を選ぶと、分不相応に得られるお金の代わりに、愛情か寿命が、その分だけ失われるのです。与えられる恩恵が大きいほど、それに比して奪われるものも大きくなります。例えば、莫大な俸禄(お金)が与えられると、その代わりに、幸福(愛情)と寿命(健康)が、ごっそり削られることになるわけです。資産は多くとも、愛情薄く病弱になりがちで、孤独で短命な人生となります。

 

そして、この、中国で古くから伝えられている道教の教えは、道教という一宗教を離れて、この人類社会に普遍的に在る一般法則のひとつでもあるのです。つまり、国と時代を超えて人間社会全般に通用する法則として、この『福・禄・寿の等価交換の法則』を、人間界の真理にして自然界の一般法則であると、私たちは考えることができます。

この法則のベースにある考え方は、「人は、もともと持っている運勢の総量は変えられないが、傾斜配分の割合を任意で変えることはできる」ということです。そして、大抵の人は、無意識に、その傾斜配分を選んでおり、その結果として、得られる運気もあれば、その逆に、知らない間に失われている運気もあるというのです。

「人生において何が一番大切か?」の違いによって、傾斜配分は自動的に選ばれています。本人にとって最も大切なものが選ばれ、最も重視しないものが捨てられるのです。

 

ですから、ある人が、分不相応にお金を欲して、その願いが叶えられたとしたら、そこで財運に運気を使い過ぎている分、必ず、どこかに皺寄せがいき、減退・欠乏する分野が生じることになります。その欠乏が、愛情運(幸福)だった場合には、その目減り具合は、誰にでも実感しやすく、周囲からも目に見えてわかります。ところが、財運(お金)と健康運(寿命)との等価交換の場合、もともとの自分の寿命がいつまでなのか、そもそもわからない上に、たとえ代償として寿命を10年分奪われたとしても直ぐにはわかりません。

わかる時は、既に死んでいますからね。

福(愛情)や禄(お金)は失うとすぐ気づきますが、寿命だけは失われていても、なかなか気づけないのが恐ろしいところです。

 

私たちの身の回りで、さまざまな人々が、この『福・禄・寿 交換の法則』によって人生を支配されている様を見ることができるでしょう。

一族が、禄(お金)を選んだために、当主の死後、家族が遺産相続の裁判によって仲違いし、ばらばらになってしまうこともあります。彼らは、一族の因縁によって、禄(財産)を取り、福(子孫繁栄)を失ったのです。

また、禄(仕事・実績)に執着するあまり、家族の愛情(福)を失ってしまう人はどこにでもいます。愛情より個人としての社会的成功を重視した結果と言えます。

さらに、分不相応の資産持ちで、糖尿病や精神疾患などで健康を著しく害している人や、健康だったのに若くして突然死する資産家の話はよく聞きます。一族としては、ケネディ家の例などが典型的と言えるでしょう。

中でも、霊的な事柄を扱う宗教家や霊媒師や占い師などが、占いやお祓いなど、その霊的な操作によって大金を得た場合には、この福・禄・寿 交換の効果がテキメンに働きます。ですから、売れっ子の占い師や霊媒師などに限って、本人はなかなか幸せになりにくかったりするのです。

多くの場合、傍目には華々しく成功しているように見えても、実生活においては、禄(お金)を取って福(愛情・幸せ)を失っているように感じられる方が多いのは事実ではないでしょうか。

 

この『福・禄・寿 交換の法則』は、非常に恐ろしい自然法則ですが、その法則の凶意から逃れる方法もあります。例えば、分不相応にお金が入ってきた時には、そのお金を自分のためでなく、多くの他の人のために使ってしまうのです。それによって徳を積み、福・禄・寿 交換の凶意から免れることができます。

ところが、お金への執着から免れ、人のために気前よくお金をつかえる人は、めったにいないものです。そのため、この『福・禄・寿 交換の法則』の呪縛から免れることがなかなかできず、残念な最後を迎える人が多いのも現実です。

 

ところで、宗教法人「幸福の科学」の創始者であり、「仏陀の生まれ変わりにして『地球神』である」と称していた大川隆法氏(66歳)が、3月2日に亡くなりました。

2月末に突然、自宅で倒れ、病院に搬送されたのですが、持ち直すことなく急逝されたようです。教団は、未だに公式には教祖の死を公表していません。詳しい死因もわからないままです。

大川隆法氏は、仏陀の生まれ変わりであると同時に、ギリシャ神話のオリンポス十二神のひとりであるヘルメス神の生まれ変わりであるとも称していらっしゃいました。

ちなみにヘルメス神は、主神ゼウスとプレアデスの長姉マイアの子で、旅人・商人の守護神であり、商業・弁舌・科学の神として、富と幸運と流通と発明を司り、詐欺と策略と盗賊の神として、市場と賭博と錬金術を司るという実に多面的で多才な神です。ローマ神話における商業の神メルクリウス(マーキュリー)と同一視される存在でもあります。

そういう意味では、大川隆法氏は、その前世の神としての性質から考えても、富(禄)と愛情(福)を選び取った(司る?)人(神?)であると考えられます。

「幸福の科学」の創始者(教祖)として、信者の方々から、多くのお布施を受け、大いに信心を受けて、たくさんの人からお金を集めて組織を大きくしてきた方です。そのため、禄をいっぱい受けられたので、その分、寿命が削られたとしても不思議ではないと思うのです。家族がバラバラになっている現状から福(愛情)にも多少の障り(さわり)があったことは確かです。けれども、寿命への影響は、より大きかったのではないでしょうか。

あくまでも個人的な見解ではありますが、大川隆法氏は、『福・禄・寿 交換の法則』の凶意によって、若くして亡くなることになったのではないか、とそう思えてなりません。

 

 

ウクライナ擁護の人たちの大半は『ロシアを信じない』と言う。そして、「たとえ今すぐに停戦したとしても、それはロシアに力を取り戻す時間と余裕と準備期間を与えるだけで、準備が整い次第、ロシアは再び侵略を開始するから停戦は無意味だ」と言う。だから「ウクライナは決して停戦に応じるべきでないし、クリミアを取り戻し、ロシアをウクライナの国境の外へ追い出すまで戦うべきだ」「アメリカ、欧州など西側諸国は、ロシアを完全に追い払うまで、ウクライナを支援し続けるべきだ」と主張する。

ウクライナ国論もそうなっているし、ウクライナ国民もその考え方を支持している。しかし、この意見には、いくつか無視できない問題がある。

そのひとつは、前提として『ロシアを勝手な野心によって他国の支配を目論む一方的な侵略者と見做している』ということだ。その意見は正しいかもしれない。しかし、間違っているかもしれない。

『ウクライナは完全な正義であり、ロシアは完全な悪であるから、ロシアは倒さなければならない』という勧善懲悪プロパガンダが、ゼレンスキーやバイデンによって喧伝され、それを西側メディアが無批判にあるいは意図的な印象操作を交えて偏向報道する。そのウクライナ支持一辺倒に偏った情報の影響下で私たちは生活している。だから、私たちの判断にはかなりのバイアスがかかっているかもしれない。

『正義の名の下に他者を叩く』のは、気持ちいいだろう。我が国のネット上でも、そのような〝気持ちのよい〟意見が溢れている。「侵略した方が100%悪い」「ウクライナに不満があるならロシア系の人々はロシアに帰ればいい」と多くのネット民は言う。

それらの正義は正しいかもしれない。だが、それはロシアの正義ではない。ウクライナに正義があるように、ロシアにも別の正義がある。

「ウクライナ東部のロシア系住民は、帝政ロシア時代から何世代もこの地でウクライナ系の人たちと仲良く暮らしてきた」「クリミアはロシア系が7割で、トルコ系が2割、ウクライナ系が1割だ」「クリミアはロシアの一部だ」「ドンバスの過半数の人々はロシア語を第一言語として話すのに、ウクライナ政府はロシア語を公用語から排した」「ウクライナ政府は住民の意思を無視して、ロシア系排斥に動いた」「ドンバスの独立は住民自治をウクライナ政府が踏み躙ったからだ」「バイデンの後ろ盾で調子に乗ったゼレンスキーがミンスク合意を破ってドンバス攻撃を強めたから、ロシア系住民保護のためにプーチンは侵攻した」「アメリカやNATOは、ロシアを叩く口実にウクライナを利用している」などなど。

それらの意見も間違っているかもしれないが、正しいかもしれない。

 

ロシアのGDPは韓国より少し上で世界11位だが、人口は日本より少し上で世界9位だ。

ウクライナのGDPはロシアの1/10で、人口はロシアの1/3に過ぎない。

ウクライナには独力でロシアと戦う力はない。

だから、西側の無償援助がなければ戦争は終わる。しかし、西側は援助を続ける。それは、彼らが客観的第三者であることをせずに、ウクライナの正義を自らの正義としているということだ。つまり、西側諸国は、この戦争の〝当事者〟であるということだ。

彼らは、『ウクライナが勝つまで援助を続ける』と言う。

しかし、当事者として戦争の被害を自らが受けることは避けたい。だから、ウクライナが決定的な勝利を得るほどの援助はしたくない。

それでは、戦争はいつまで続くのだ?

 

実は、この不毛な戦争を止めることは簡単だ。

西側諸国が、「もうウクライナを支援しない」とゼレンスキーに言えばいい。

その段階で、現在の前線を国境とすることを話し合いで定めればよいのだ。

なぜなら、現在ロシアが占領(併合)している地域では、ロシア系住民の方が多数派であり、彼らにとってはロシア軍は自分たちを保護するために来た友軍であって、ウクライナ軍の方がむしろ、侵略者と考えられているからだ。そのような地域をウクライナが〝取り戻す〟まで戦争の援助を続けるというのはいかがなものであろうか?

 

『ロシアが信用できないから』と、いつまでも不毛な戦争を続けることが、果たして正義なのか?

相手を信用できないから、いつまでも殺し合おうというのは理性を放棄して情念の支配に身を任せることではないか。