10年前ミラノの老人ホームに戻られた際、ご自分は「煉獄」(カトリック教会の教義で、死後の魂が天国へ行く前に罪を清める場所を指す。また、比喩的に、苦しみや試練を受ける場所や状態を表すこともある。)に入られたとおっしゃっていた。笑
とはいえ、この10年シスターとのやりとりを振り返ると2人だけの時は、よく「死」について語り合っていたようだ。(私の記憶も自分のブログ頼り。苦笑)
いかに「死」に向き合い、「生」を生きるか。
一度ミラノのお部屋で転倒され大腿骨骨折。その後車椅子生活が始まった。以前の怪我で目の移植手術も受けられているが、炎症を起こし失明。それに関する愚痴は一度もこぼされなかった。神様だけにぼやいていたそうだ。笑
「シスター、自伝を書きましょうよ。」彼女のお話を伺いメモをとっていたがベルガモへ移られる前の施設のお部屋に置いていたので、そのまま消えてしまった。残念。
その後お聞きしても「私、興味のないことは覚えてないの。」とおっしゃり聞き出せなかった。過ぎたことの思い出は、辛かったことだけが忘れさられていくようであった。
ある時、シスターのお母様が亡くなられた時の年齢の87?8歳の誕生日を迎えられる前日、「私は明日死ぬ」「日本に帰りたい」「総長様にお願いします」とおっしゃっていた。翌日から海外へ出張される当時の総長が老人ホームのシスターに挨拶をして回っており、私の訪問時にちょうどいらしたが、シスターは普段通り挨拶をし、帰国宣言はしなかった。笑
しばらくして、「神様が私に100歳まで生きて良い」とおっしゃったのよ、と言い出し、今思えば当時から痴呆は始まっていたのだろうが、100歳まで本当に生きらるような気がしていた。
ついに耳も聞こえなくなり直接電話をすることができなくなり、数ヶ月に一度受付にだけアポイントをとり訪問するようになった。前日には本人には「明日(同郷ということで)親類が来る」と伝えられていても、親類はいない、冗談だと思っていたり、前日のメッセージも忘れるようになっていき、私たちの訪問に気づくと、おいおい泣かれた。しかもなぜかイタリア語で「ペルケ?ペルケ?」と言われ、こちらの方がペルケ?と笑ってしまう事もあった。笑
毒舌で、頑固で、思い通りにならないと杖で床をつく事がよくあった。聖職者であっても人間なんだよなあ、と思ったものだ。笑
葬儀の連絡が入り、前日はコンサートのため帰宅は午前1時半。何だかんだ寝たのは4時近かった。9時からの葬儀ミサのため6時過ぎの電車に乗らないと行けず、5時半過ぎに家を出た。がなんとホームを間違えてしまい、ダッシュしたが間に合わず。チーン!次の電車は1時間後。中央駅に移動し別の経由で出かけた。
棺が閉まる直前に間に合った!シスターは穏やかなお顔で薄い紫色のロザリオを握っておられた。
ミサにの司式司祭は、今でこそ外国人のシスターが多い中、老いてから外国で祈りの生活に入る意味を説かれた。
ミサ後、シスターたちは私たちの訪問を尊重され、棺が乗ったいわゆる霊柩車と共に墓地へ行くよう薦めて下さった。
既に埋葬先には穴が掘ってあり、埋葬される一部始終を見守った。





