大往生 〜 その2 クオリティ・オブ・ライフ  | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

また大切な方が天の家に帰っていかれた。
 
ベルガモ在住の日本人のシスターであった。享年94歳。
 
彼女は9年半前の84歳の時にミラノの修道院の老人ホームに入る事を決意されミラノに来られた。ちなみにシスターは50数年前の修練期に数年ローマに、20数年前に3年ミラノにいらした。初めてシスターにお会いしたのは、そのミラノ滞在時であった。
 
今でこそ地下鉄のM4があり、便利な場所だが、当時は地下鉄とバスを乗り継いで、ほぼ毎週末彼女を訪ねに出かけていたが、コロナが終息し、ベルガモの老人施設へ移られ、なかなか思うように訪問が出来なくなった。
 
薬学部を卒業され、薬の開発に従事され、実験中事故に遭い大怪我をされた。(その入院した)「病院のドイツ人のチャプレンが持って来てくれる果物が美味しかったのよ。」それが入信のきっかけみたいな事を話されることもあったが、どこまでが事実であったかはよくわからない。笑 しかし、「あそこのシスター達は本当に嫌な人たちだったのよね。」と毒舌であった。笑
 
その後洗礼。30代になられてからシスター志願。病気でイタリアに帰るシスターの付き添いで船でローマまで送ってこられたという。旅の船内でイタリア語を覚えたとおっしゃっていたが、これもどこまで事実だったかわからない。笑
 
瀬戸の修道会の経営する高校で化学を教えられ、お年を召されてからカウンセラーをしていらした。
 
初めてお会いした時は、私はまだ30代半ばであったが、何も言わずじっくり話を聞いてくださる方であったが、彼女とのやりとりの記録を見ると、彼女の生い立ちやシスターになるまでの話を聞いていた割りに、意外に福音的な話はほとんどしていなかった。笑
 

10年前ミラノの老人ホームに戻られた際、ご自分は「煉獄」(カトリック教会の教義で、死後の魂が天国へ行く前に罪を清める場所を指す。また、比喩的に、苦しみや試練を受ける場所や状態を表すこともある。)に入られたとおっしゃっていた。笑

 

とはいえ、この10年シスターとのやりとりを振り返ると2人だけの時は、よく「死」について語り合っていたようだ。(私の記憶も自分のブログ頼り。苦笑)

 

いかに「死」に向き合い、「生」を生きるか。

 

一度ミラノのお部屋で転倒され大腿骨骨折。その後車椅子生活が始まった。以前の怪我で目の移植手術も受けられているが、炎症を起こし失明。それに関する愚痴は一度もこぼされなかった。神様だけにぼやいていたそうだ。笑

 

「シスター、自伝を書きましょうよ。」彼女のお話を伺いメモをとっていたがベルガモへ移られる前の施設のお部屋に置いていたので、そのまま消えてしまった。残念。

 

その後お聞きしても「私、興味のないことは覚えてないの。」とおっしゃり聞き出せなかった。過ぎたことの思い出は、辛かったことだけが忘れさられていくようであった。

 

ある時、シスターのお母様が亡くなられた時の年齢の87?8歳の誕生日を迎えられる前日、「私は明日死ぬ」「日本に帰りたい」「総長様にお願いします」とおっしゃっていた。翌日から海外へ出張される当時の総長が老人ホームのシスターに挨拶をして回っており、私の訪問時にちょうどいらしたが、シスターは普段通り挨拶をし、帰国宣言はしなかった。笑

 

しばらくして、「神様が私に100歳まで生きて良い」とおっしゃったのよ、と言い出し、今思えば当時から痴呆は始まっていたのだろうが、100歳まで本当に生きらるような気がしていた。

 

ついに耳も聞こえなくなり直接電話をすることができなくなり、数ヶ月に一度受付にだけアポイントをとり訪問するようになった。前日には本人には「明日(同郷ということで)親類が来る」と伝えられていても、親類はいない、冗談だと思っていたり、前日のメッセージも忘れるようになっていき、私たちの訪問に気づくと、おいおい泣かれた。しかもなぜかイタリア語で「ペルケ?ペルケ?」と言われ、こちらの方がペルケ?と笑ってしまう事もあった。笑

 

毒舌で、頑固で、思い通りにならないと杖で床をつく事がよくあった。聖職者であっても人間なんだよなあ、と思ったものだ。笑

 

葬儀の連絡が入り、前日はコンサートのため帰宅は午前1時半。何だかんだ寝たのは4時近かった。9時からの葬儀ミサのため6時過ぎの電車に乗らないと行けず、5時半過ぎに家を出た。がなんとホームを間違えてしまい、ダッシュしたが間に合わず。チーン!次の電車は1時間後。中央駅に移動し別の経由で出かけた。

 

棺が閉まる直前に間に合った!シスターは穏やかなお顔で薄い紫色のロザリオを握っておられた。

 

ミサにの司式司祭は、今でこそ外国人のシスターが多い中、老いてから外国で祈りの生活に入る意味を説かれた。

 

ミサ後、シスターたちは私たちの訪問を尊重され、棺が乗ったいわゆる霊柩車と共に墓地へ行くよう薦めて下さった。

 

既に埋葬先には穴が掘ってあり、埋葬される一部始終を見守った。

 

 

 

 

 

きっと想像以上に波瀾万丈の生涯だっただろうが、淡々とお話し下さり、晩年は子供に帰りつつ「嬉しい」という言葉はよく発せられていた。
 
♬雨雨降れ降れ母さんが〜の「ピッチュピッチュ、チャップチャップ、ランランラン♬」とよく歌い、やはり80歳を超えていたお世話係のシスターもそのフレーズを覚えて歌っていたのを思い出す。そのシスターはヴァカンス中でお会いできなかった。ヴァカンスに出られるくらいだからまだお元気なのだろう。
 
ミラノの老人ホームの受付にいらしたシスターも現在93歳で同じホームにいらした。厳しく怖い方だと思っていたが、笑顔で、時に涙ぐみ私たちを迎えてくださった。
 
「100歳までは達せられなかったが、大往生だったわよね。」
 
シスターとの思い出に浸りつつ....永遠の安息をお祈りします。