クオリティ•オブ•ライフ 〜 その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



10年前、3年間だけミラノにいらした日本人シスター、シスターPが、年末ミラノに戻られた。現在85歳。余生を生涯捧げられた修道会の本部で過ごしたいというご本人の希望で戻られた。33歳という、修道女としては遅めの入会だったようだが、すでに50年以上が経ち、イタリアには何度もいらしているので、イタリア語は堪能。ちょっと辛口、それでいて心の本質を突いてくるシスター。何度か聖書の指導もしていただいたが、よく心の琴線に響き、涙することもあった。「あなたよく泣くわね。」そう言われたものだ。

もともと小柄な方だったが、より小さくなられても、しっかりご自分の足で歩かれ、「いや~嬉しい。」といって抱擁の再開。思わず涙が溢れそうになる。

修道会は、隣に病院も経営しており、その一部にシスターたちの養老院も完備。そこにいらっしゃる。はじめは、応接間で話をしていたが、「私の部屋に来る?」と言って、連れて行っていただいた。

修道院も綺麗だが、養老院も質素であるが非常に綺麗で、一般的な病院のような孤独さを感じない、そして、ミラノの中心地とはいえ、物音一つしない静かなところである。

「そうだ、私のお隣のお部屋を見せてあげたいわ。」急に隣のお部屋に連れ出された。えっいいんですか?ノックをしても返事なし。そうっとドアを開けると、いきなり幼子イエスと羊たちのプレセピオが目に飛び込んできた。見るからに手作りである。ここの彼女は全部自分で作るのよ、とシスター。えっすごい!!はしゃいでいたら、中のトイレからお部屋の主人であるシスターが出てきたではないか?「まあびっくり。」とても温和そうなシスターである。今作成中の鳥や、パスクワ(復活祭)に向け編み始めた鶏の人形も見せてくださった。彼女が今まで、どこで宣教されていらしたかはわからない。海外だったかもしれないし、イタリア国内、修道院だったのか?彼女らの経営す る病院だったのか、学校だったのか、想像もつかないが、手の器用さは神様がシスターに授けてくださった宝なのだろう。

ごめんなさいね、でもあなたの素晴らしさと、この人たちに見せてあげたかったのよ、とシスターPがフォローしてくださり、お部屋を去った。その後も50年前、修道会に入会した際、一緒に修練期を過ごしたというシスターが訪ねてきて、当時の話に花が咲く様子を端から聞かせていただいた。

50年...半世紀だ。私もいよいよ今年は生まれて半世紀になるが、シスターたちの話を聞いていると、私などまだまだひよっこだなあと感じた。修道女たちは何事にも忍耐強く献身的でないといけない。ましてや、単なる憧れとか、厭世、人間関係からの逃避などといった一時的な感情でなれる職業では到底ない。

ところで、その養老院には、平均年齢は聞きそびれてしまったが、高齢のシスターたち約40名が住んでいるという。お見かけした数人のシスターたちは、皆穏やかな顔をしていらした。近所で見かけるお年寄りは、時に眉間にしわを寄せていたり、下ばかり見ていたり、近づきにくい印象の人も多い。一度オラトリオでは、外国人は出て行け!とアラブ人女性を罵倒す老女がいたので、止めに入ると、私に殴りかかろうとして来たから私もブチ切れた!「ここは教会なのですよ。ご自分が何をいっているかわかっているのですか!」思わずおじいさんに止められたが...苦笑 その女性はたまに、道で見かけるが、いつも眉間にしわを寄せ、ピリピリした感じが滲みでている。

「クオリティ•オブ•ライフ」という言葉がある。一般に、ひとりひとりの人生の内容の質社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念をいうようだが、年齢を重ねてもこの生活の質を維持し、快適な老後を送ることは重要だと思う。ちなみに、クオリティ・オブ・ライフは、個人の収入や財産を基に算出される生活水準とは別の問題ととらえられる。

年齢とともに肉体は衰えていくが、精神や心の感性に向かって進もうとする情熱は決して失われることはない。もちろん、信仰、神への信頼があることは大きいはずだ。

話はもとい、とても穏やかな面持ちのシスターたちは、「生きた沈黙」を感じるものがあった。何も言わなくても、感じ取ってくださるというか、理解してくださるような空気。生きた沈黙は人を温和にし、穏やかにする。

初めてシスターPに出会った時、まだ私はぎりぎり30歳代だった。「あなたちょうど50歳くらい?」と聞かれ、やっぱり年相応か...と思ったが、「容姿云々じゃなくってね、態度にそれなりの貫禄が出たわよ。」と一言。う...ん、喜んでいいのか、どうなのか。けれど「年は取るのではなく、迎えるもの」だという。「どれだけ古いか?ではなく、どれだけ新しいものを受け入れるスペースがあるか」なのだという。自分を空にすることで心に柔軟性が生まれるものだという。それはヒンズー教や仏教でも同じ考えだ。年を重ね、衰えていく自分自身をそのまま受け入れることがまず大切。人間は悲しかったことや、悪いことを忘れてしまえるようにできているという。何かを失うから、新しい 何かを得ることができるのであり、空になったからこそ、そこに新しいものが入ってくる。

私、興味のないことは覚えてないの。とシスターP。わかる気がする。じゃあ、明日の恵みに期待しましょう。

ご飯が食べたくなったら言ってくださいね、と声をかけると、「次はおにぎりを持ってきてね。」ということだった。笑 シスターPに会うことで、勇気をもらい、また人に優しくなれるような気がする。年を取るのも決して悪くない、と思えた。