四旬節目前のミラノ。ローマ典礼では既に四旬節に入ったので、在ミラノカトリック日本人会の黙想会が行われた。
今回のテーマはルカの福音書における『放蕩息子の帰還』。このテーマの黙想会は過去に何度も参加しているが、その度に感じることが異なる。
このたとえ話は、父の深い「愛と赦し」の話。
色々な角度から見ることができる深い話だ。
真面目に父に従う長兄。そして生前贈与をもらって、家や家族を捨て、好き勝手な生活をするが、お金が底をつき、生活も困窮し、回心して戻ってきた弟を喜んで迎える父。
そんなの自業自得ではないか!と思う人がほとんどであろう。兄が、過ちを犯した弟に対し、自業自得と思ったところでそれは普通のように思えてしまうし、むしろ弟に対し優しさや理解を持つ方が稀有ではないか?不平を言うのも当然ではないか?そこで兄も責められるとしたらそれは気の毒だ…とさえ思ってしまう。
外見上、非の打ちどころのない兄であっても、従順で、勤勉で、ルールを守り、働き者であっても、心の闇が表面に出て、はらわたが煮えくり返る。心の内の恨みつらみ、高慢、悪意、身勝手さが、その本性を現すというもの。
弟は、簡単にわかる罪を犯した。しかし、一見、罪とはわかりづらい兄は、心の闇の中に閉ざされてしまっている。愛による相互理解。赦す父の愛に信頼するか否か。恨みと感謝は相反するものだ。信頼し、感謝するという修練を必要とする。
それでも、父は兄のことも愛しているわけで、忘れたことはない。父親の心は息子たち二人に注がれている。
あゝ、私は「兄」なんだわ、と感じた。
その後、黙想の時間がとられ、それから日本語、イタリア語、英語の出来る司祭二人が告解をされるということになった。ほとんどの方が日本語を望まられ、イタリア語の司祭の部屋の扉があいている状態だったので、思い切ってそちらの方へ入った。
「イタリア語での告解は、どこまで表現できるかわかりませんが…」と言い出すと、「神様はあなたの心を全てご存じです。好きなように話してください。祈りも日本語で構いません」と言われた。その途端、なぜだかどっと涙が出始めた。
そして、告解後、毎月日本語ミサを行っている小聖堂で祈りを捧げた。また、ご聖体が顕示されていた。
なぜか普段とは違うように、十字架のイエスが両腕を広げて、私を抱擁して下さっているように見え、更に涙が止まらなかった。
「回心」とは良い言葉だと思う。たとえ、強盗や殺人などを犯さないにせよ、ついつい自分中心に生きてしまいがちだが、神のみ言葉に耳を傾け、神に立ち返る信仰体験が重要だ。
恵み豊かな時を過ごせた。
帰りがけ、毎年この時期、ミモザが満開になる豪邸が近くにあるので、見に行くとまだつぼみの状態であった。
それなのに、少し歩いたところに、ミモザの花束が落ちているではないか!どうゆこと?不思議であった。
夜からは、3月8日の「女性の日」の持ち寄り女子会。
本来世界中は四旬節が始まっているが、ミラノは、カルネヴァーレ最終日のサバト・グラッソ。翌日から四旬節だ。
カルネヴァーレの最後に、ぺちゃくちゃよく話し、よく笑い、これまた楽しいひと時を過ごした。
ドルチェ三昧。抹茶ティラミス、普通のティラミス、桜餅、苺大福、そして「女性の日」恒例のミモザケーキ。キャラメル味のババロアに生クリームを塗り、そこにミモザに見立てたスポンジケーキが乗っている。約束の時間に一番乗りであったので、デコレーションを手伝わさせて頂いた。楽しかった。
さあ、明日からは四旬節。
私たちは、兄であろうが、弟であろうが、父になるよう招かれている。レンブラントが示す、父(神)の手は、右が母的、左が父的と言われているが、私たちの両手が、苦悩している人の肩の上に憩わせるためであり、神の無限の愛から湧き上がる祝福を差し出すためだ、と理解したい。
あちこちで木蓮が咲き始めた。いよいよ春だ。
今日の一句
サバト・グラッソ 心を整え 四旬節










