「放蕩息子の帰還」考察 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
先々週から日本のあるの講座に参加させて頂いている。
 
この講座は以前から興味があったが、どう考えても日本だし、帰国中でも通うにはちょっと遠いな....と躊躇していたが、このコロナ禍、不幸中の幸い、急遽オンライン講座に切り替えられ、オーガナイザーのお一人に友人がいて声をかけてくださった事が講座参加の実現に繋がった。感謝!
 
とは言え、講座はライブによるオンライン講座であるので、時差があり開始はミラノの朝6時。起きてそのまま出席だと顔が浮腫んで参加出来ないので5時半起きで熱い蒸しタオルを顔に当ててからの参加なのであーる。
 
講師はミラノ会の司祭であり、日本の管区長でもあるので、ここ数年交流もあり、帰国中はよく連絡させて頂いているが、何せお忙しい方。昨年の長い帰国中でも結局、お会いすることは出来なかった。
 
ところで今回のオンライン講座「(ルカ福音書による)イエスのたとえ話」③放蕩息子は過去に何度も読み、色々な勉強会でも講義を受け、その度に感じる事は違う。
 
今まで聞いてきたこのたとえ話は、ルカ15章11節からにクローズアップされてしまうのだが、A神父は、15章の別の2つのたとえ話から話された。いずれも失ったものを探し求めるたとえだ。
 
一つは100匹の羊の中で1匹が迷う話。二つ目は10枚の銀貨の中で1枚を失う話。そしてその後に放蕩息子の帰還に続く。
 
これらの話は、ファリサイ派や律法学者が、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難した事に対する答えである。
 
第1と第2のたとえでは、失った羊や銀貨を人が探しに行くが、3つ目の放蕩息子のたとえでは、父は探しに行かない。親子の絆を絶ち、自分の心も失った息子が、回心して帰ってくるまで待った。
 
しかし、息子を見つけたのは父。放蕩息子は、父に会ったら「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」と言おうと思っていたが、「雇い人の一人にしてください。」と言う前に、父がその言葉を遮り、しもべたちに世話をするように命じた。兄は、弟に対する父の態度に憤り、弟との和解も拒絶する。
 
しかし父は二人とも自分の息子である事を伝える。
 
 
 
ドイツ人画家であるSieger Köder氏(1925年ー2015年)の「放蕩息子」では、父は息子の首を抱き愛を表している。兄弟の服は同じ色。父にとって二人とも大切だということを示しているのだという。
 
一方レンブラント(1606年−1669年/エルミタージュ美術館)の絵(上記)では、父は目を閉じ、心から放蕩息子の帰還を歓迎している。左手は女性を、右手は男性を示していていると言う。
 
一般的に「放蕩息子」は父子にクローズアップされている絵が多いが、レンブラントのは実は左奥に母親、中央にこちらを向き、招いている?人物がおり右側のマントを着ておる男性は兄であろう。
 
しかし、彼は腕組をし、かたくなな態度だ。これは和解を拒否する仕草だと言う。父と同じマントを着ていることで、大切な息子である事が判る。
 
ちなみに今回の「放蕩息子」でも前回の「善きサマリア人」でもギリシャ語の「スプランクニゾマイ」という語をA神父は丁寧に説明して下さった。いずれも「憐れみ」と訳されている。
 
以前どこかで「はらわたが動くような思い」と説明を受け今ひとつしっくりこなかったが、A司祭曰く、「女性が妊娠中、子供が動く時に感じる思い」という解説に何故か感動した。
 
ちなみにイタリア語は“compassione”、com(共に)+patire(苦しむ)が語源で「憐れみ」と訳されている。ギリシャ語系、ラテン語系、双方「パトスを共にする」という意味では共通の語源からなっているそうだ。語源から見る聖書と言うのも興味深い。
 
講座の後に、「放蕩息子」についてもう少し考察してみた。
 
勝手にわがままで出て行った弟。お金が無くなろうと空腹になろうと自業自得だ。なのに父はなぜ弟を心から喜ぶのか?私はこんなに父に尽くしているのに...と言う兄の言い分が聞こえてきそうだが、A神父曰く、弟は心身ともに父親から離れていた、つまり距離感があった。しかし、兄は父の元にいながら、心自体父親から離れている。結局兄弟は二人とも息子としての自覚がないのだという。親子関係を大切にしているのは父親の方なのだと。
 
それでも、弟は死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかった。つまり回心した、ということ。だからこそ、父は大いに喜び祝宴をあげた。
 
 
ジョルジョ・デ・キリコ (1888年ー1978年・ミラノ・ノヴェチェント美術館)
 
 
マルク・シャガール (1887年ー1985年/個人蔵)
 
やはりどの絵も父と弟に焦点を当てている。父のあまりにも好意的な喜び方、振る舞い方に我慢ならない兄は、本来抱えている深刻な問題があるのではないだろうか?人間が抱えている深い根があるように思える。ということは、今まで、兄がかわいそうだ、と思っていた私自身にも似たような暗い心の闇があるのだろうか?と思ったらぞっとした。寛大さに欠ける、つまり器がちっちゃく嫉妬心が強いのか?
 
『放蕩息子の帰還』は、私にとって永遠のテーマとなりそうだ。