天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある。(コレヘト3ː1-8)
「時」についての聖書の言葉で、特に私の好きな聖句がこの「コレヘト」の言葉。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
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泣くのに時があり、笑うのに時がある。
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求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。
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愛するのに時があり、憎むのに時がある。
毎日、ホスピスの友人を訪問しているが、リハビリセンター、そして老人ホームも併設しているので、いろいろな方を見かける。
車椅子で赤ちゃんの人形を抱いている高齢の方、とにかく車椅子や歩行器で動き回っている方、友人のF爺のように、本来頭はまだまだキレッキレでありながら、痛みと共に体が言うことが効かず寝たきりの方…。
それぞれの方に人生があり、生きて来た軌跡がある。
若いころの「時間」と体が思うように動かなくなってからの「時間」というのは、かなり違うのだろうと思う。父は晩年長生きはしたくないとよくこぼしていた。きっと葛藤の故の独り言だったのだろう。痛みは理解しようと思っても、同じ体の痛みを共有できるわけではない分、見ていて辛い。
しかし、どれも神から与えられる「時」なのだろうか、とコレヘトを読んで考える。
ギリシャ語には、「時」を表すのに、「クロノス」と「カイロス」という二つの概念がある。
「クロノス」とは、いわゆる時計の針が刻む量的な時間のことで、「カイロス」とは、一回限りの独自に生ずる、質的な時間を指す。
「コレヘト」で表されている「時」とは、かけがえのない、貴重な「カイロス」のことだ。
「時」の不思議さは、生きるということは、人為を超える神の導きを感じ、存在に意味を与えるのだと思う。
世間は慌ただしい師走であるが、施設は静かで、温かく(温度の問題でなく、職員、入院関係者会う人、会う人皆笑顔で挨拶される。今まで見てきた病院や施設とは全く異なる空気を感じる)、時の流れが異なる。そんな中、人生の最後に磨きをかけている人々に触れ、悲しいと思いつつ、なぜか癒され、感謝の念が湧いてくる。
明日のことは、誰もわからない。だからこそ、「今日」という日を、悔いなく生きよう、と思うのであった。
今日の一句
「クロノス」の 世界の中で 「カイロス」を生きる


