和顔愛語 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

ミラノはすでに待降節。 

 

この時期に気をつけたいのが、自分の言動。笑顔で相手に思いやる言葉。

 

まさに「和顔愛語」だ。

 

 これは仏教用語なのだそうだが、その言葉は、さらにこう続く。

 

「失意承問」「先意承問」とは、相手の気持ちを先に察して、それを満たしてやるということ。和やかな顔と思いやりの言葉で、人に接して相手の気持ちを労わり、先に相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか自分自身に問いただすということになる。

 

辛い時や嫌なことがあった時、愚痴をこぼしたくなる時、そんな時こそ、まず自分から笑顔と優しい言葉で周りの人に接する姿勢、それが「和顔愛語」。

 

とはいえ、そうそう簡単にできるものではない。

 

ところで、一言一言が刺さる人がいる。なんでそう言うことしか言えないかなあ?と思うのだが、その人とて何か辛いことがあり、誰かに何かを吐かなければやっていけないのだろうか?

 

自分自身にはそう言った意識は全くなかったのだが、疲れた様子だったのかもしれない。

 

時に寝不足だったりすると「疲れてる?」と声をかけられる時もあるが、その時はよく寝て、スッキリ爽快な1日だった。それなのに「あなた病気なんじゃない?大丈夫なの?」と言われた時は、呆気に取られ、「元気ですよ。口紅をしてないからですかね?」と返した。

 

ムカっと来ても、言葉に言葉をぶつけても仕方ない。適当に返すが、それはそれでまたスッキリしない様子。(人がへこたれる顔を見たいのか?)逆にドカン!と爆弾を落としたくなるが、それは私としてもやりたくない...結局こちらが抑えて終わるのだ。

 

それにしても、顔にはその人の内面が出て来るものだ。言葉の選び方とて同様。

 

意地悪な人は、やはり顔が意地悪そうになる。頑固な人もそうだ。つまり人の思いや気持ち(内面)は、日常の言動(外面)に現れる。特に年を取ればとるほど、生きて来た、積み重ねて来たものが顔、そして言動に現れる。

 

素敵だな、と思う人にはもう一度会いたい。そして、やはりその人を慕う人は多い。

 

徳を積んで内面を磨きたいものだ。

 

今日の一句

さりげない 笑顔と言葉 身につけよう