聖週間 2024 〜 聖木曜日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで30年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

ついに、聖週間、そして年間のカトリック典礼において頂点ともいえる主の復活の日を迎える「聖なる3日間」に入った。
 
その聖なる3日間とは、第1日目は「聖木曜日」、第2日目が「聖金曜日」、第3日目が「聖土曜日」または、「復活徹夜祭」と考え、区切られているが、正確には一日の境目が日没時という当時のユダヤ暦の考えに従って区切られている。
 

「聖木曜日」 

レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「最後の晩餐」はイエスが中心となっている。誰もが知っているだろうが、弟子たちに囲まれて一緒に食事している場面である。イタリア語では"Cenacolo"チェナーコロと呼ぶ。食事そのもの、というよりも古くは、食堂、修道院などの食堂、会食室をそう呼んだようだ。

 

 
ローマ典礼での朗読箇所はヨハネ13章1-5節。
食事の前(最後の晩餐)に、弟子たちが食卓に着いた時、イエスはたらいに水を取り、弟子たちの足を洗い、布でその足を拭き始めらる。それは、「愛の模範」を示すためだという。毎年聖木曜日では、パパ様は刑務所の受刑者の足を洗われる。しかもカトリック信者のみならず、多国籍、他宗教であったりするが、わりに多くの教会でもその洗足式を行るところが多い。

 

また、食事の最中、パンを取って「これは私の体」、ぶどう酒の入った杯を取って「これが私の血」と言われ、「私の愛を思い出して繰り返しなさい」と言われる。このようにキリストは、貴いご聖体とごミサを定められ、2000年、今日に至るまでカトリック教会では、その儀式がずっと行われてきているわけだ。いつまでも私たちと共にいてくださるイエスとの一致は、聖体拝領することにより実現する。

 

晩餐後、イエスは取り押さえられ、そこから受難が始まる。

 

しかし、ミラノのあるアンブロジアーノ典礼での朗読箇所は、マタイ26章17-75節。非常に長い。

 

最後の晩餐から始まり、ペテロの躓きまでだが、そこで常にユダとペテロの裏切りを考えさせられる。

 

心が弱いゆえに二人とも主であるイエスを裏切ってしまい、二人は大いに後悔はするのだが、二人の違いは、ペトロはその悲しみをもってイエスに立ち帰り、以前にもまして主に忠実なる僕として変貌を遂げ、後の教会の指導者として成長していく。しかし、ユダはその悲しみがついに慰められることなく、その果てに自らの命を絶ち、自らすべてを終わらせてしまったのだ。

 

心の弱さ、裏切りは自分にも重なる。そして誰にでもあることだ。ただペテロになるのか、ユダになるのか?

 

物思いにふける聖木曜日であった。

 

今日の一句 

聖木曜日 ユダの接吻 裏切りの合図