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聖金曜日。
復活祭直前の金曜日。この日は、一年間で唯一ミサが執り行われない日でもある(ただ、前日に保管しておいた聖体を拝領する儀式は行われる)。
私のパロッキアである小教区教会の聖木曜日と聖金曜日の入祭の歌は、”E lo credemmo abbandonato da Dio" (Sequeri)
あまりにも美しい旋律で歌っていると、涙が溢れてきてしまう。
Ora ti chiedo umilmente, mio Dio di perdonare il mio cuore insicuro:
dammi la forza di accogliere ancora la Tua parola, il Tuo gesto d'amore
私の神よ、今あなたに、伏して赦しを願います。自信のない私をお赦しください。あなたの御言葉、あなたの愛の行いを再び受け入れる力をお与えください...
以前、ある司祭とのメールでのやり取りの際にあった言葉。(ノートに記している)
『キリスト教は奇跡を云々する教えでもありません。キリストの言葉に活かされる、生かされる宗教。なので観念的なものでもなく、実際にキリストとの出会いがなければ…生きたキリストとの出会い。ワケのわからない宗教。(しかし)この男の言葉にこそ、人間の生き方が示されている。それだけで充分信じるに値します。』
上記、聖歌のタイトル"e lo credemmo abbandonato da Dio"は「神に見放された彼を信じ」という意味だが、まさに神に見放されようとも彼を信じること。それが信仰なのだと改めて教えてくれる一曲。
祭儀の後、皆行列になって横たわった十字架にそれぞれ挨拶する。
コロナで一時期禁止になり、皆も少しは控えるようになったか?と思ったが、それでも十字架像に直接、キスする人は多い。
私はイエスの足の釘と胸の傷に触れた。
イエスはその傷とともに私たちをご自分の手に、心に刻んでいて下さる。今度は、私たちが自分たちの心にイエスの愛を刻む番だ。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
打ち傷を 見て、触れ、思う イエスの愛