聖週間 2024 〜 聖金曜日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

聖骸布 - Wikipedia

 

聖金曜日。

 

復活祭直前の金曜日。この日は、一年間で唯一ミサが執り行われない日でもある(ただ、前日に保管しておいた聖体を拝領する儀式は行われる)。
 

なぜなら前夜の聖木曜日の典礼の最後に行われる「聖体安置式」によって、キリストは私たちから取り去られ「不在」となる。ミサという食卓はキリストが主人であって、私たちを招いてくださることによってはじめて成立する。従って、主人が「不在」であっては食卓、ミサという宴を開くことができない。そのため祭壇には何も飾られず、十字架やろうそく、祭壇布もかけられずに「裸」のままでいる。
 
ところで、昨年、一昨年と聖金曜日は、仕事帰りにサンタンブロージョにより、そこでヴィア・クルーチス、十字架の道行にあずかっていたが、今週はシッター先の子供たちが聖木曜日から幼稚園が休みであったので、木曜日はフルタイムで子供達3人を見ていたが、夕方家族をクレモナに送り出し、金曜日は休みとなった。
 
よって、金曜日は数年ぶりに15時の「主の受難」の儀式に与った。聖歌隊は14:30より予行演習が行われた。
 

私のパロッキアである小教区教会の聖木曜日と聖金曜日の入祭の歌は、”E lo credemmo abbandonato da Dio" (Sequeri)

 

 

あまりにも美しい旋律で歌っていると、涙が溢れてきてしまう。

Ora ti chiedo umilmente, mio Dio di perdonare il mio cuore insicuro:  

dammi la forza di accogliere ancora la Tua parola, il Tuo gesto d'amore

 

私の神よ、今あなたに、伏して赦しを願います。自信のない私をお赦しください。あなたの御言葉、あなたの愛の行いを再び受け入れる力をお与えください...

 

以前、ある司祭とのメールでのやり取りの際にあった言葉。(ノートに記している)

 

『キリスト教は奇跡を云々する教えでもありません。キリストの言葉に活かされる、生かされる宗教。なので観念的なものでもなく、実際にキリストとの出会いがなければ…生きたキリストとの出会い。ワケのわからない宗教。(しかし)この男の言葉にこそ、人間の生き方が示されている。それだけで充分信じるに値します。』

 

上記、聖歌のタイトル"e lo credemmo abbandonato da Dio"は「神に見放された彼を信じ」という意味だが、まさに神に見放されようとも彼を信じること。それが信仰なのだと改めて教えてくれる一曲。

 

祭儀の後、皆行列になって横たわった十字架にそれぞれ挨拶する。

 

コロナで一時期禁止になり、皆も少しは控えるようになったか?と思ったが、それでも十字架像に直接、キスする人は多い。

 

私はイエスの足の釘と胸の傷に触れた。


イエスはその傷とともに私たちをご自分の手に、心に刻んでいて下さる。今度は、私たちが自分たちの心にイエスの愛を刻む番だ。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)

 
今日から月曜日まで休み。少しゆっくりできる。
 
さあ、いよいよ聖土曜日だ。
 
今日の一句

打ち傷を 見て、触れ、思う イエスの愛