クオリティ・オブ・ライフ 〜 その3 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今月偶然にも知り合いの80代3名が外科手術を受けられた。
 
男性女性両方おられるが、皆癌を患っておられる。
 
普段通り穏やかに過ごす人。不安で泣きまくる人。様子は様々だ。とはいえ、人間だもの、自分だってその状況になったらどうなるかわからない。
 
ところで、日本やイタリアは稀に見ない急速な高齢化社会を迎えている。60歳、70歳などまだまだ若い。
 
国連の報告書によれば、世界では、100歳以上の高齢者は1995年は13万5千人、2012年は31万6600人であった。そして今後2050年には220万に増加すると予想されている。
 
しかし、人生の半ば病気になるということは、生きている人々が誰一人逃げだすことのできない真実である。
 
なかなか受け入れられず、嘆き悲しみ、人に弱音を吐いたり、愚痴を言ったり、当たる人もいるかもしれない。そうでなくてもマイナスの言葉を聞かされるのは、受ける側としたらきついものがあるが、静かに聞いてあげる。その「沈黙」が「生きた沈黙」となり相手も理解したり、人を温和にし、穏やかにするのではないだろうか。
 
私自身も年を重ね、「沈黙」の意味を知り、言葉を大切にしようと学ばさせて頂いている。常に穏やかに接する。これが意外に難しい。きっと身近な人になればなるほどそうだろう。相手の言動が理解できなくても出来るだけ理解する努力をする。相手を理解し受け入れることで自分も変わり、何か得るものがきっとあるはず。
 
とは言え、年を取るとはどう言うことか?
 
人間にとって貧富の差なく平等なのは「時間」。しかし、与えられた時間にも限りがあるもの。若くして亡くなる人。早々に親兄弟を亡くす人、さまざまだ。
 
人生は与えられたものであり、時間も与えられたもの。命も時間も私たちが創り出せるものではないのだから、頂いている時間を大切にして、一日一日を生きることが幸せだと思いたい。
 
口で言うのは簡単だが生きているのが辛いこともあるだろう。
 
人に寄り添う....。価値観は人それぞれ。自分の考えを正論だと思わず、柔軟な考えで人と接する事が求められる。そして時には、想像力も必要だろう
 
「生きる意味」を考える時、クオリティ•オブ•ライフ、つまり「生活の質」、「生きていく質」の壁にぶち当たる。それは日々の積み重ね。
 
結局辿り着くのは「今」をどう生きるか、なのかもしれない。