ミラノから約50キロ離れたレッコの施設におられる司祭を3年ぶりに訪問してきた。
一時期寝たきりという話も聞いていたので、様子を伺い電話をすると受付の人が、車椅子でいるが元気ですよ。どうぞ面会に来てください。その代わりグリーンパスが必要です。と言われた。
すっかり自分のグリーンパスの期限を忘れていたが、3月にコロナにかかり、一時期グリーンパスが停められ、再発行され期限が9月半ばに変更されていた。いずれにしてもまだ大丈夫だった。
朝のミサ後昼食までの間なら大丈夫と言うことで10時過ぎのアポイント。9時過ぎミラノ中央駅発の電車に乗ったが、スイスや北イタリアの湖水地方に行く観光客が多く、電車は満席であった。それでも車内は皆きっちりマスク着用の義務を果たしていた。地下鉄だとしていない人もちらほら見るが...
レッコに到着すると友人が車で迎えに来てくれていた。じわじわ坂を上っていく場所なので、車で来てくれていて助かった。
施設に着き、面会の諸手続きをすまし、時間になるとヘルパーさんに車椅子を押された司祭が現れた。最近またコロナの感染者が増えているということで、面会は外で行われた。マスクは決して取らないよう注意を受けた。
司祭はパーキンソン病を患っておられ、顔の表情が乏しく、しかもマスクをしているので、反応がよくわからず。以前は会えば必ず日本語で会話していたが、数年ぶりの日本人の面会であろう。日本語イタリア語、どちらで会話しましょう?と聞くと、インジャポネーゼ!とおっしゃったものの、返事はイタリア語であったが、途中からゆっくりゆっくり日本語が出てきた。
やはり高齢の方はできれば普段から自分の足で歩いたり、とにかく会話は重要だと思う。
自分も30代から40代、40代より50代…と少しずつ体調が変化してきており、この先経験して初めてわかることばかりなのだろう。
人は生まれたその時から死に向かうが、それでも成長のピークはあるもののが、それさえも下降し始めそのスピードだけが加速されていく。
「これからも訪ねてきて下さい。日本人ミサで司祭が足りなかったら行きますよ!理由があれば外出出来ます。」とおっしゃられた。宣教師魂だろう。
もうお一方、日本に長く宣教にいらしていた方がおられるが、3年前にお会いした時は、もうお話もできない状態であり、今回はお会いできず。
親の高齢化、そして自分もそれなりに年を取り、人の病気や死に触れあう数も増えてきた。そのたびに思う。老いはさけられない道。だからこそ、どのように受け止め、老い行くための勇気を見つけるには、何が大切なのか。どのような心を培えばよいのか。
それはやはりしっかりと自分自身に向き合い、自分を知ることが求められるのだろう。
老人ホームを訪問するたびに、老いの葛藤と苦悩を思うが、自分の人生を素直に受けいれられる謙虚さを持っていたいと思う。
若いころの「時間」と体が思うように動かなくなってからの「時間」というのは、かなり違うのだろうと思う。父は晩年長生きはしたくないとよくこぼしていた。きっと葛藤の故の独り言だったのだろう。
今の時点、私は年々時間が足りなくなっている気がするが、無で走りすぎていることさえある。やはり「今」この瞬間を大切に生きること。それはいきなりできることではなく、毎日の積み重ねだ。
ところで、アメリカの神学者であるラインホールド・ニーバーの「ニーバーの祈り」には続きがあることを最近知った。
神よ、変えられないものを受け容れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知をお与えてください。
一日一日を生き、この時を常に喜びをもって受け容れ
困難は平穏への道として受け容れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、イエスがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け容れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされると信じています。
そして、この人生がささやかな幸福なものとなり、あなたのもとで永遠の幸福を得ることでしょう。
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知をお与えてください。
一日一日を生き、この時を常に喜びをもって受け容れ
困難は平穏への道として受け容れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、イエスがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け容れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされると信じています。
そして、この人生がささやかな幸福なものとなり、あなたのもとで永遠の幸福を得ることでしょう。
アーメン
やはり謙虚さか…。

