「老い」における葛藤 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今月、知人が81歳で老人ホームでお亡くなりになれた。

その後、先月風邪をひきちょっと寝込んだら歩くのがしんどくなったという87歳の日本人シスターをお見舞いに行ってきたら、元気になり歩くスピードも元に戻っていた、と喜んだのも束の間、翌日転倒。大腿骨を骨折。その際、頭を打たれ出血。お見舞いに行くとすでに手術がすみ集中治療室に入っておられたが、それでも愚痴もこぼさず、先生も看護士さんたちもみないい人たちよ~、と感謝の言葉。

 

その前後に友人のお舅さんが97歳で帰天された。

81歳の父も風呂場で転倒。尾てい骨骨折。あちゃ....

 

ところで先日、ミラノより50キロほど離れた北北東に位置するレッコ湖近くにあるミラノ会(ミラノ外国宣教会)の老人及び病気の宣教師のためのホームを訪問してきた。そこには、40名の聖職者が入居されておりそのうち90歳以上は12名。以前日本に滞在されておられた宣教師も3名入居されている。お一人は病気のため、治療が終わればいずれ日本に戻られるが、お二人はすでに高齢で様々な問題を抱えておられる。

 

昨年パーキンソン症候群でご帰国された神父様は、リハビリの結果驚きの回復をされ、ごミサではお説教もされるようになった。またお一人の方は認知症なのだが、1年ぶりの日本語だったはずだが、非常に美しい日本語で、日本での45年に渡る宣教活動、そしてご本人の宣教師としての使命を何度も何度も繰り返され、宣教師魂を感じ胸が熱くなった。

 

また最近、ある知人のご婦人にwhatsAppにて上記老人ホーム訪問の状況も含めて近況報告を送ると、感謝の言葉とともに「ご両親様への思い、できることはして差し上げなさいね。でも逆にいかに子供に迷惑をかけずに生きていくか、友人と話していたのよ。」というお返事をいただいた。彼女は79歳の未亡人。我が家もやっと子供たちが高校、大学生になったもののまだまだ手もお金もかかる。けれど、彼らに迷惑をかけたくない、という思いの日が来るのだな,とふと思った。両親も必要以上のことは求めてこない。謙虚過ぎて、もっと頼ってくれれば良いのに、と思う日々。でもきっとそういうことなのだろう。ホームでお亡くなりになられた方も,亡くなられる4日前にお会いした際、前日親類に会い、今後の手続き云々すべて伝えたからもう安心。いつでも逝ける...とおっしゃっていた。訪問の帰り際、「また来ますね」というと、無理しないで。迷惑はかけたくないから、とよくおっしゃっていた言葉が蘇る。

 

やはり歳をとり、体が思うようにならなくっても、頭がしっかりしていると葛藤は大きいものだと思う。しかし、その逆に「英知」も与えられるものだと思う。

 

精神分析家のエリクソンは英知を、「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」であると言った。

 

人生の最晩年において、避けられない死というものと向き合う中で、その反対要素である生に対して、こだわりなく自然な態度で臨む。英知とは一般に、すぐれた知恵や深い知性のことを言うが、老賢者の持つものだろう。

 

私は50代の主婦とはいえ、まだまだ忙しく1日24時間では足りないぐらいだが、ある時期になるとたっぷりくらい時間を感じる日がくるのだろう。その時にどう感じ、どう考えるか。その時間をどう使うのか...

 

まだまだ先と思いつつ、月日の経つのは早いもの。その前にしておかないといけないこととはなんだろう?少なくともこだわりを捨て、謙虚に生きられるようになっておきたい。