Zoom講演 〜 海外における信仰生活 『ミラノの日常』 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

もうかれこれ半年以上前に、依頼されていたズームによる講演会が今朝無事終了した。
 

 
ミラノ外国宣教会の日本管区長でおられるアンドレア師は、カトリック精神に基づいた教養講座・一般社団法人カトリック船橋学習センター・ガリラヤの理事長でもおられる。
 
彼が私に連絡してくる時は、ほとんどがお願いごと、と決まっているのだが(!爆)10月半ばに、電話をしていいか?とメッセージが来た。その時点で、何かあるな…とは思っていたが、電話の前置きもやたら長い!爆 これはまずい…「新規の講座で海外における信仰生活について話を聞けるといいな…と思うんですよね」、とおっしゃり(えっ依頼?誰に?)と思いつつ、間髪入れずに「では、適当な方を探してご紹介します!」と返答すると、「私はですね~、貴女にお願いしたいんですよ!」といわれ、そこで私も「じゃあ断れないじゃないですか!」というと、「当然です!」と交渉終了~。爆
 
いつもは「喜んで!」と受けるのだが、「今回はいや~、私は模範になるような信者じゃありませんし、1時間どころか30分だって話せませんよ…」とグダグダいうと、「大丈夫、大丈夫!問題ない!いつもの活動を話してくれればいいんです。それに皆話せませんとはじめは言われるけれど、話し始めたら止まらなくなるから、全然問題ないです!」という。あ…負けたな、と思った。爆
 
しかし、日本とイタリアでは時差があるので、できたら夏時間まで待ちましょう、となり、プログラムを見てみたら、私だけ他の講習よりも時間が遅く設定されており、改めて時差を配慮されたと感じた。
 
ところで、聴講者の多くの方々は2016年アンドレア師率いる「聖書と美術」のクラスでのイタリア周遊の旅に参加された方々だったようで、私もミラノでの観光にジョインさせていただいている。再会は嬉しいもの。
当日までまだ時間はある…と思っていたが、徐々に期日は迫り、ある時、我が家のPCは古すぎて使えない!と判明。仕方なく、新しいポータブルPCを買った。が、何せPCは苦手。しかも、人生初のパワーポイント。どうやって使うの?
 
また、ミラノでの信仰に触れるのならば、ミラノ独自のアンブロジアーノ典礼とローマ典礼との違いに触れないわけにはいかないだろう。ミラノにおられるミラノ宣教会の司祭に解説をお願いしようとしたら、ぽんとまとめられたイタリア語の表が送られてきた。えー、日本語で確認したかったのに…お忙しい司祭にこれ以上聞くことは憚れる!自分で簡単に翻訳をし、わからない、理解できない部分は自分のパロッキア(小教区教会)の司祭をミサ後に追いかけては、「5分ください!」と言って聞きまくった。苦笑 「何に必要なのだ?」と聞かれたので、日本の信者さんたちにお話をしたいんです、というと、「典礼の違いを勉強するとはいいことだ!」と言われた。知らないことを知るのは楽しいが、エクセルで表を作るのはつらかった!しかもパワポに貼ったら、形が崩れた。誰か助けてくれ!
 
そして、レジュメのベースを書いて友人に相談したら、それだとまともに話してたら7-8時間はかかるよ。これは第二弾、第三弾に続く…にするしかないね、と言われ、いやいやご冗談を!かなり減らし、画像をつけたが、それでも15ページになってしまった。シナリオに関しては7ページにも至った。
 
45分にまとめて質疑応答は無理かも?アンドレア師に話すと、「大丈夫、大丈夫!好きなだけ話してください!理事長が許可します!」またまた丸め込まれてしまった!爆
 
前置きが長くなったが、やはりイタリアを旅行しても住んでみないとわからないことがある。住んでいても、地元に根付かなければわかり得ないこともある。
 
始めにガリラヤの案内に「生活に基づいた信仰」と書いてしまったのだが、どうもその後違和感を感じた。ミラノは人種のるつぼであり、移民が多い。出稼ぎに来る外国人もいれば紛争や戦争で祖国から命からがらで逃げてきた移民たちも多い。最近のウクライナからの受け入れもそうだ。
 
ヨーロッパでの宗教離れは、ミラノも例外ではなく、そして移民による多宗教、多様化、しかし、信仰は薄れつつも、『信仰(行事)に基づいた日常の一般的生活リズム』があるのは、確かだ。
 
イタリアの年間の祝日を見れば一目瞭然。ほとんどの祝日がカトリックに関する史実や聖書の話に基づいている。宗教を学ぶのと信仰を持つことは全く別の話ではあるが、自分の存在意義を考えると、やはり信仰はなくてはならないものであり、私がイタリアにいることも、まさに神さまのご計画なのだと思えてくる。
 
私の回心は聖パウロのように劇的ではなかったが、罪深い自分が神様の前にはとても出られない、そういった思いをぬぐうのに、かなり時間がかかってしまった。
 
しかし、自分が神様の慈しみの真っただ中にいることを発見し、洗礼を受けないわけにはいないと気付いた時からすべてがトントン拍子となった。
 
何か目の前に起きる出来事が、なぜ私?と思うことも多いのだが、今回のアンドレア師のように「大丈夫!大丈夫!」と背中を軽く押され行動する喜び。
 
自分の中を見つめることは難しいが、人との関わり合いの中で見つめていくというのは、新しい発見もある。
 
忍耐・愛・新しい命(復活)という尊い価値をこれからも守り続けられるように。
 
講演前、1-2週間は、毎日2時3時まで原稿を書いては、翌日書き直し、PCの前で、時に仕事中寝落ちていることさえあった。
 
これで、思い存分ドラマが見れる!爆
 
今回この機会を与えられたこと、そして分かち合えた人々に感謝!