「ありがとう」と「当たり前」 〜 その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

学生時代、アルバイトをしていたラーメン屋さんのおじさんが最近亡くなられたと連絡が入った。

 

享年85歳。父と同じ生年月日で、誕生日であった2月26日に亡くなられたという。

 

以前からご主人は、糖尿病を患っており、いつからか人工透析を受けておられた。そして、脳梗塞にかかり、2年前の帰国中は転倒し骨折し寝たきりであった。脊柱管狭窄症で両足も痺れ歩けないと言っていた。学生時代お世話になっていた頃から、100キロ以上あっただろうおじさんが最後に会った時は57キロにまで痩せていた。だからと言って、おじさんと同い年である小柄なおばさんが一人で面倒を見るのは無理だろう。

 

学生時代、小学生と中学生だった息子くんたちの勉強をたまに見ていた。いつもお姉さん、お姉さんと呼ばれていたが、彼らもすでに40才代。時の流れを感じる。

 

おじさんと父が通院していた病院は一緒だったので、時に病院で会うこともあったそうだ。その度に、おじさんは母を励ましていたという。自分も病人であり、奥さんに看てもらっている身であったから、きっとおばさんに対する感謝の気持ちを逆に父の代弁として、母に伝えていたのだろう。父はもともと口が重く、感謝の言葉を口に出すタイプではなかったし...

 

そっか...亡くなられたか...。

 

人生とは、なんなのだろう、と思う。

 

「人生とは、何かを手に入れるための時間ではなく、愛するための時間なのです。」by 教皇フランシスコ

 

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おじさんは、既に人のために働くことはできなくなっていたが、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人の為に役に立てなくなっても、親切で柔和であった。

 

『老いの重荷は神の賜物。』ホルベルス神父は著書の中でおっしゃっていた。

 

以前も書いたが、「ありがとう」の反対語は「当たり前」。「有難(ありがた)い」つまりあることが難しい、稀であり、滅多にない事で、「奇跡」と言うことだ。

 

私達は毎日起こる出来事が、当たり前だと思って過ごしている。コロナ禍も長くなってくると、どうも麻痺してしまっている。しかし、コロナも回復しつつあるか...と思っていたら、今度は戦争。なんということか!

 

生きていることは、『奇跡』なのかもしれない。

 

おじさん、お疲れ様でした。永遠の安息をお祈りします。