2020年の「敬老の日」の日は9月21日(月)だった。
敬老の日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを目的として、昭和23年(1948年)に祝日法として制定されたのが始まり。
子供の頃は「敬老の日」は9月15日とインプットされてきたが、平成15年(2003年)より「9月の第3月曜日」になった。ハッピーマンデーとなり、又昼が短くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれる「秋分の日」(実際は昼の方が少し長い)が今年は22日となり4連休となった。(結局日本にいても私にはあまり連休は関係ないが!)
さて、「老人」と言うのは、何歳から言うか?と言うと微妙だ。今時の60代、70代は若い。先週からリハビリのためフィットネス施設に通い出した母は、帰宅し開口一番、「お年寄りばかり」と言う。いやいや自分も十分お年寄りだから、と言ったのだが、それでも下は60代。上は90代まで。確かに年齢層はあつい。ちなみに、空手の全国大会は50歳以上が「シニア」世代。ジュニアシニア、ミドルシニア、グランドシニア....50にして「天命」を知るなんてないない...60にして「耳順」70にして「従心」。そう生きたいものだ。
ところで、医学の進歩により、人の寿命は延びたが、社会が命に対して「開かれて」いるわけではないだろう。高齢者の数は増えたが、彼らを受け入れ、その弱さと尊厳に対してしかるべき敬意と具体的配慮を示せるほど社会はまだまだ整えられていない。
若い人達には、老年期は避けるべき病気であるかのように感じ、高齢者を無視する人達もいる。誰も自分が年をとるとは想像も出来ないのだろう。今日の「若さ」は維持出来ない。
しかし、高齢者は無視してはならない財産だ。
高齢者にどう目を向けるかは、文化によっても異なるだろう。パパ様もよく仰っているが、高齢者の知恵を尊重できる文化は、進歩する文化と言えることだろう。高齢者に居場所がなく、問題を起こす要因として彼らを切り捨てる文化は、愛も優しさのかけらもなく、逆に将来が恐ろしい。だいたい、どんな親であろうとも自分の親を愛せない人が、他人を愛せるとは思えない。それと同じ。
昔の日々を思い出し、代々の歳月を顧みよ。
あなたの父に問えば、答えてくれる。
長老たちもあなたに話してくれる。
申命記 32・7
喜怒哀楽。人生で色々な体験を積み、その体験すべてが知恵になり生きる力になると思う。成功したことよりも、失敗したことの方が多くの知恵を与えてくれるのではないだろうか。だから老いてこそ人生は知恵の輝きを増す。
良く死ぬために良く生きる
それは若い頃からの生き方が重要で、いきなり変われるものではないだろう。全ての人間が年をとる。謙虚に生きたいものだ。

