今日は、日本は「敬老の日」であった。どうも三連休のところが多かったようだ。ここ数年、全く日本のカレンダーがわからなくなった。
両親をはじめ、両親世代の人に会うと、やはり人の振り見てなんとか...で、自分の老後について考えてしまう。特に、この夏両親に会い、かなり心身ともに老いたと思うし、それを受け入れるのに戸惑っているのかな...とさえ感じた。
私も子供たちに言われるのだけれど、ある年齢から徐々に聴力も落ちていくと思う。はっきりよく聞こえないから、もう一度言ってくださる?と言われれば、ゆっくり大きな声で繰り返すが、そうでないとどうしても普通でいてしまう。しかし、話がちぐはぐになったり、反応が今ひとつだったりすると、もしや聞こえなかっただろうか...と後になって気付いたりする。
老化は誰でもが向かう道。他人事ではないんだな。
『老いてこそ、人生は輝く』と曽野綾子さんは著書の中でおっしゃっている。
徐々に記憶力や体力が衰えてくると、こんなはずではなかったのに...と誰もが思うことだろう。物忘れが激しくなり、大病を煩わなくとも、とにかくあちこちが痛くなる。私もきっと気力だけでは乗り切れない時が早かれ遅かれやってくるのだと思う。「老い」というのは、不可抗力だと思い知らされるのだろう。
自分の運命を謙虚に受け入れたいと思いつつ、それってかなり勇気のいることだろう。イライラしている父。それをじっと耐えて支えている母。私が何か言ってしまえば、火に油を注ぐだけだろう。逆効果になるならば言わないほうがいい。葛藤の時だった。
理想かもしれないが、人間、心も体も柔軟でいたいものだとつくづく思う。ある意味、「人生なんでもありか?」くらい、開き直ることができたら、心を解放することもできるだろう。そういう意味じゃ両親は真面目すぎるのだな...と思う。
ところで、私は若い頃は、人や物事は「好き」か「嫌い(好きじゃない)」とはっきり分けていた。しかし、40代後半くらいからだろうか、どんな人も面白い。会えて良かった。どんな出来事も体験できてよかった、と思えるようになってきた。今じゃ50代からが面白い。なんでも面白おかしく思えてしまうのだ。時間の使い方も、退屈しない、何をしても楽しい、味わいのあるものに感じられる。26年前、イタリアに来た頃は、気が狂いそうに感じられた出来事も「イタリアあるある」物語できちんと、ある意味融通の利かない日本の生活が今や気持ち悪いというか、むず痒く感じられてしまう。困ったものだ...。
人生、たとえ不器用に生きようとも、失敗してもそれを楽しみながら、才覚を身につけ、老年だからこそ冒険し、どんなことでも面白がって生きたいと思うのだ。これぞ「老い楽人生」か?!
いつも思うが、どんなに辛い人生であっても、最後に生まれて来てよかった、と思うことができたなら、本望だ。死は生き方を表す。
「終わり良ければすべてよし」そういう人生を目指したい。