知足と志 〜 その3 嘆きの母 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

オラトリオを離れて1ヶ月半。

 

私は、なぜオラトリオに行くのか考えていた。しかし、答えを出す前に、月曜日はすでに養老院のシスターPを訪ね始め、それも随分習慣化してきた。月木曜日の週2回。できたら週末も誰かと合流したりするが、私を待っていてくれるシスターがいてくれるのは嬉しいこと。

 

あれから司祭には、ミサで顔を合わせているし、個人的に頼まれごともして買い物に出かけたりはするものの、お互い一切オラトリオに関しては口に出さず。私の中では、オラトリオのお手伝いはもう終わった、と思っていた。

 

また、その後のオラトリオでは、私を襲ってきたアフリカ系少年の出入りの件は耳にしないが、普段遊びにきている中学生があまりにも問題で警察を一度呼んだと聞いた。また、隣接している教会系の学校に石を投げたり、オラトリオのメンバーが作った大きな動物のオブジェを壊し、とにかく次から次へと問題を起こし、出入り禁止になったり親が呼び出されたりしていると耳にした。

 

貧富の差が激しい地域で、申し訳ないが、彼らは低所得者地域の家庭の子たちで、ほとんどが移民。まあ、学校にも問題があり、中学生から何度も留年している生徒もかなりいる。

 

ところで、このところ、日曜日の朝のミサに出られず夕方のミサに出かけるのだが、帰りがけのスーパーへ行くと、早くもオラトリオを締めるため締め出された生徒たちは、道路に広がりサッカーをしながら移動し、通りがけのスーパーで買い食いをしているところに出会う。おごってくれる?と聞いてくる子供も多いが、スーパーの中を笑いながら、走って隠れるように移動する姿を見ると、「万引きか?!」と感じることもある。証拠がないから何も言えないが、スーパーをでれば歩道で爆竹を鳴らしまくる。本当に迷惑な子達だ。

 

そういえば先日、シスターPのところを訪ねに行こうとしたら同じトラムに、この夏一緒にボランティアをしたシスターGが乗っていた。挨拶をすると、「オラトリオの子供達を裏切るのか?」と言われた。裏切るとは人聞きが悪い...ただ、もう潮時と思い、事件はいいチャンスでもあった。喜びを感じられなければ、行く意味もないし、情けや我慢でいくものではない。そして司祭が困るのは目に見えていたが、それだけで行くのもおかしな話だと思えるようになった。

 

いきなり、先週、上記司祭から渡したいものがあるから来てくれ! と言われ、出かけてきた。すると中学生たちが皆いるではないか?金曜日は皆で一緒に宿題をし、おやつを食べ、レクリエーション、話し合いなどをして共に数時間過ごすそうだ。それでも今年はやる気のない子があまりにも多いらしい。

 

 その彼らが私宛に手紙を書いたといって呼び出されたのだ。封筒には十数人の名前が署名されていた。誰だかわからない子もいたが、大体は顔が目に浮かぶ。問題児ばかり...苦笑

 
 "BVA"とは我らパロッキア”Beata Vergine Addolorata" の略。「悲しみの聖処女マリア」となるが、まあ私はいつも「嘆きの母」と呼んでいる。(あっそれは私か?)
 
 
彼らからの手紙。私の存在に甘え、無礼な態度を謝るような内容。司祭にいわれた内容かい?!そして、帰ってきてほしいという内容だった。涙を誘う文章ではなるが、本当に彼らが書いたのか?というと疑問だ。疑ってはいけないが、普段の彼らからはあまりにも素直すぎる内容だ。うーん。いずれにしても、それは気が重いぞ!オラトリオには責任者は必要だが、各自の意識と責任者の責任者、つまり司祭の存在は大きい。それなくして、パートのおばさんならぬボランティアにすべて一任するのは間違っていると思うのだ。しかも、それについて話し合おうとしても聞いてくれない。1日3時間、週4日。私は月曜日担当だった。以前は4人いたが、今は2人抜け、司祭やボランティアの家族を巻き込んでいるようだ。この時期夕方3時間、外にいるのは非常にしんどい。ましてや寒さで足から身体中が冷える。膝の悪い私などつらいなんてもんじゃない。
 
キリスト者は、神からくる光を照らすこの世界の現実の中で具体的に働くよう呼ばれています。
以前パパ様はツイッターでそうおっしゃり、99%のジレンマを抱えつつも1%の喜びを求めて通っていたが、さすがにもう疲れてしまった。
 
「一筋縄ではいかない状況には、一筋縄ではいかない人が行くしかないの。」と養老院のシスターPに言われたが、そうですよね、と頷くと「それ、あなたのことよ。」と言われ苦笑したが、もう無理。
 
そもそも限られた人生の時間で、無限にある行動を全て行うことは出来ないし、世の中そうそう変えられるものではない。お金や物は人によって持っている量に差があるが、時間やエネルギーは各自本来平等。それを何に使うか?有効的に使うのは理想であるが、その内容は各自の自由。
 
自分の行動や行動の結果に対してなら「現状に満足しないで、より高いレベルを目指す」べきだし、行動するための資源に対してなら「今あるものに感謝して、それを有効活用する」ことを考えるべき。いずれにしても、自分にしかできないことを見つけたい。空手の修行に対しては、足り無い物•限界、に挑戦したいが、それ以外は、既に持っているものに目を向けて幸せを感じたいと思うのだ。間違っているだろうか?
 
喜ぶのは、形が整うからではなく、心から嬉しいから喜んでくれる人のところに行きたいと思う。「私」だからこそ、喜んでくれる人の元へ。「愛を生きる」これじゃないだろうか?
 
 

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