知足と志 〜 その2の1 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

 

前日の続き...。

 

なぜ私はオラトリオへ行くのか?辞める辞めないの答えを出さずに、司祭に直接会って話がしたいと連絡をした。日が迫ってくるうちに、私は何をしようとしているのだろう?と思った。きっぱりやめよう。言えるのか?また巻き込まれるのか?でも何が大切か見極めないと。じゃあ私にとってオラトリオとは何?...堂々巡りの日々。

 

先日「足るを知る」について書いたが、足るを知る生き方とは、志や思想や信仰などの基準に従って、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」と生き方を選択して、その中で幸せを見つけることではないのか、と親友に諭された。

 

また、カウンセラーのシスターPの元で吐き出してだいぶ楽になったのだけれど、「その司祭はだめよ、何も変わらない。話し合いって何を話すの?それに移民の子たちと分かち合うなんて無理。あまりにもベースが違いすぎる...」仲良くしましょう、分かち合いましょう、という聖職者たちに対し、歯切れのよい切り方だった。これぞ本音。これぞ事実。移民問題、そんなに綺麗事ではない。

 

ミラノの移民問題は重大だ。EUでは責任のなすり合いでしかならず、移民のピークは2015年だったというが、移民抑制に向けた国境管理の強化は今後も続く。国から命カラガラで逃げてくることも多い難民で、暖かく受け入れてあげるべきだ、という声も多く、私もそう思ってきたが、あまりにもおんぶに抱っこではないか?ということも少なくない。移民、難民受け入れは彼らの全てを受け入れること、というが、私もここでは外国人。思うのは、やはり「郷に入れば郷に従え」そこのしきたりに従う姿勢も大切だと思う。権利だけ主張し、義務を果たさないのは言語道断。

 

子供にしたって、イタリアで生まれたから言語に問題ないか?といったら大間違い。イタリア語が話せると言って授業についていけるかどうかは別問題だし、やはり家庭の協力も大切だ。

 

話は逸れたが私はオラトリオへ行く理由。過去に何度か「99%のジレンマと1%の喜び」を書いてきた。

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12348759867.html?frm=theme

 

オラトリオは全員に開かれたもの。宗教も人種も関係ない。来たい人は皆受け入れる。けれど、地域上、移民や他宗教の子供達が多く、悪いが、躾のなっていない子があまりにも多い。それでも99%がジレンマであっても1%の喜びが見つけられれば...と思ってきたが、今はその1%の喜びさえ見出せない。唯一フリーの月曜日の午後、ボランティアに出かけ、不機嫌で帰ることに意味はあるのだろうか?

 

ボランティアは無報酬。だからこそ、任意のものであるが、「してあげた」のではなく、「させて頂く」ものである。普段は自分のこと、仕事のこと、家族のことしか考えずに過ごしている日々の中で、何かを通して、人間は互いに支えあって生きることの喜びを「教えていただく」ことが必要だと思ってきた。しかし、それも幻想だったのか? 

 

一人では世界は救えない。でも小さな力がつながれば...と思いつつ、今限界を感じている。素直に全て司祭に話した。また男性なりアシスタントをつけてグループで子供達を見守ることはできないのか?と頼んだが、決してそれだけで解決する問題ではない、と司祭。

 

確かに、そうそう一筋縄でいかない子達だ。それプラス、たまにロムがやってきたり、アラブ人同士でも私たちにはよく理解できない問題(エジプト人同士だとイスラム教徒とコプティとの争い、同じイスラム教徒であってもエジプト人とモロッコ人との問題...)があるようだ。

 

今までは、もし私が辞めるといえば、そうでなくても人手不足でなり手も少ないこのオラトリオのボランティア。現在いる人に迷惑をかけないか?それだけが気がかりだったが、もう自分の中では限界だった。

 

意外にも司祭は「少しオラトリオから離れて自分の時間を見つけ、自分と向き合い、T子には自分の喜びを自分や家族のために注いでほしい」と言われた。自分の中でピーンとはっていたものがパチンと切れ号泣してしまった。

 

いいよ、ゆっくりすればいい。君には感謝本当に感謝している。司祭は”dai nostri ragazzi" 我々の(オラトリオ)子供たちより、と書かれたバラを私にプレゼントしてくれた。

 

月曜日は、カテキズモの子たちに会えないのは残念だが、少し精神衛生的にゆっくりしたいと思う。

 

ボランティアは「与え」「与えられる」。そして「癒し」「癒される」ものだと思う。そういったサービスを提供する側と受ける側とが、互いに同じ目の高さでの「心」のキャッチボールであるべき。すべてはそこから始まるのではないだろうか。

 

 

 

https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12413230968.html