11月の下旬にオラトリオで中学生の喧嘩を止めるために、足を挟んで一人の肩を鷲掴みにし、力づくで離したが、あれが直接的な原因でないにしろ、騙し騙しやってきた膝の痛みが一気に悪化。引っ掻かれた手の甲の傷もだいぶ薄くなってきたが、今後オラトリオで何が起ころうと私はもう止めませんよ!と司祭に訴えた。
それでも喧嘩は起きる。痛みを忘れ走って行っては、力づくて押さえつける。「もうママ、行かないでよ!」と次男に言われた。なんであの子達のために行って嫌な思いをしなきゃいけないんだ?と自問自答。
今週の月曜日のオラトリオは幸か不幸か雨が降っていたので、サッカーのコートは閉めたままにしておいた。地下に卓球台やカルチェットと呼ばれるゲームがあるのだが、その奥の部屋で小学3年生たちがカテキズモをやっているので、彼らが降りて行くとうるさいなんてもんじゃない。
「問題ないよ」、と司祭は言う。「でもうるさいですよ。シスター(カテキスタ)達も嫌がりますし」、というと、「それは彼女達が慣れるべきだ」、と司祭が言う。司祭とはこの9月に入ってきたまだ40歳の若手(この世界では!)のイタリア人司祭。「それに、カテキズモに来ている保護者達も、あからさまに嫌な顔をしますし、とても待合室の雰囲気ではないです。」というと「オラトリオは全員に開かれたもの。躾のなっていない子がいれば、地域の人が育てるべきだ。子供をオラトリオやカテキズモに行かせている親ならば、そこに来ている子も注意してもいいはずだ。そうでしょ?」と言われた。理想はそうだ。だが数年通っているが、本来本当のこの地域のカテキズモを受けている子達が近寄ってこないのが現実。来ても、日本のお宮参りや七五三のように「儀式」の一つでしかなく、夏のオラトリオもほとんどが移民の外国人ばかり。
ミラノのオラトリオでボランティアをしている日本人信者を数人知っているが、こんなに体を張り、どなりまくり喜怒哀楽全てを出しているのは私だけだろう。苦笑
そう、オラトリオや教会は宗教関係なしに、誰にでも開かれた場所。人種差別はいけない。けれど、躾のなっていない子達は、教育すべきだが、人に対する礼儀とか尊敬など人間としての基本的なものが欠けた子達に、教えるのは本当に難しい。しかも幼児ではないのだ。しかも、気に入らないとすぐに暴力を振るう子も多い。どこでも構わず唾を吐く。たまったもんじゃない。
彼らは学校でもお荷物扱いされている子が多く、中学生であっても留年している子もかなりいて、卒業したらどうする気?とさえ、思う。教会が無料で行っている宿題を見てあげるクラス("dopo scuola")も、小・中学生、ほとんどがアラブ系をはじめ、外国人ばかり。それでもオラトリオで暴れる子達は、そこには来ていない。勉強には興味がないし、たとえ学校の授業についていけなくても構わないのだろう。
何れにしても、教会関係のボランティアは多いものの、オラトリオのボランティアは敬遠される。しかも我がオラトリオに関しては、特別かもしれない。柔じゃやってられないし、お年寄りにはまず無理。とはいえ、毎日日替わりにいるメンバーも私と同世代だが、子供達がだいぶ大きくなり、オラトリオのリーダーならともかく、我が家のようにオラトリオに来ていない家庭もあるわけだから、もっとオラトリオに来ている保護者を巻き込んで欲しいと思いつつ、放任家庭にそれを求めても無理なのだろう。
それでも、宿題を申し込みに来たイスラム教徒の母親が、掃除のボランティアをしたいと言ってきたことがある。無料な分だけ、何かの形でお返しをしたいと思ったのだろうか?そういう人たちもいるのは確か。諦めてはいけない。
上記喧嘩ばかりするので足を挟んで止めた一人のアントニオは、この数週間で私に心を開いてくるようになった。母親が彼に暴力を振るっているのは見たことがある。また、彼が暴れると大人のボランティアは怒りまくり、彼を外に追い出して数日出入り禁止にする。でもそれじゃ、意味がないというか、何も進歩がない。彼に声をかけ、卓球台の順番待ちでも喧嘩になるので、彼にペンと紙を与え、順番の管理をさせたらちょっと誇らしげに、周りを仕切っていた。あまりにも秩序がなく、本能的に動く彼らも世間に許されるのは、今がギリギリの年齢だろう。
ところで、火曜日、友人と食事中、司祭からSMMが携帯電話に入った。「緊急」という字が見えたが、すぐに読まなかった。どうせまた泥舟だ...それでも気になり読んでみると、火曜日のオラトリオ担当が体調不調で誰も見つからないから、4時に門をあけ6時までいて欲しい、ということだった。本来空手の稽古があれば、すぐに「NO」と答えたかもしれないが、今は療養中の身、時間はある。けれど、次男の稽古の前に、調整中の眼鏡が出来上がったという連絡が入ったので、それを取りに行きたかったので、結局1時間だけなら...ということで受けた。
門を開け、子供達が十数人サッカーのコートに入った途端、一人のイタリア人が大騒ぎをして地面にひっくり返って泣き出した。ちょっと大げさな子なので、またか!と思ったが、顔を殴られたというので、誰がやったか?というと15歳のエジプト人だった。すぐに彼をコートから出したが、それでも反抗され、一悶着あったが、運良く司祭が通りがかったので、助けてもらえた。
結局コートの中を十数人のエジプト人が占拠し、残ったイタリア人3人はコートの外に出てボールを蹴っていた。彼らのオラトリオなのにおかしくない?やはり納得がいかないが、結局イタリア人や本来のオラトリオの子達が諦めて出て行く羽目になる。勝手に出て行くからわるいのか?本当に頭が痛くなる。
その日はカテキズモは休みであったが、サッカーのコースがある。イタリアではオラトリオで少年サッカーやバレーボールの教室がただ同然で開かれており、監督、コーチなどもボランティア。監督は、夏に2度一緒にボランティアをした男性。かれは弁護士だが、休み時間に戻ってきては食事の配膳を手伝ってくれたし、サッカーも全体を見てはいるが、実際のコーチは20代前半の学生たちだが、その日はイタリア人の学生(医学生)はお休みで、エジプト人2人が小学生とそのあとに中学生を教えていた。へえ、この子、コーチだったんだ?と思った。
カテキズモの指導者には、エジプトのキリスト教(コプト)の高校生もリーダーとして参加している。なんでもあり?いやいや、あまりにも寛容で驚いた。笑
火曜日はたった1時間だけ外にいたが、その夜から足が痛くなり、やはりもうこの時期、特に寒い時間帯に外にいるのは療養中の身にとって無理だと思う。もう緊急でも行かないわ!
とはいえ、今日のパパ様のツイッターを読み、そうだよな...と思った。
>Il cristiano è chiamato a impegnarsi concretamente nelle realtà terrene, illuminandole con la luce che viene da Dio. キリスト者は、神からくる光を照らすこの世界の現実の中で具体的に働くよう呼ばれています。
口だけではなく、具体的に。これが大切。ただ、心がついていけず反省。使命は喜び、満足、そして仲間との調和と共に為せられないといけない。
声高に叫ぶことなく、人の言葉に耳を傾け、おだやかに話すこと。私達は常に謙遜で柔和な心を持たねばならない。(先日のパパ様のアンジェラス(天使の祈り))
こうして主の到来を待つ。つまりクリスマスを待つこの待降節の姿であると反省した。