ミラノのサンシーロ地区は貧富の差が激しい。そして、言い方は悪いが、”ポポラーレ”と呼ばれる低所得者地域は人種の坩堝。宗教も様々。
公園はあちこちあるのに、なぜか移民の子供達は、我がパロッキア(教区教会)にやってくる。彼ら曰く、安心できるから、というけれど、本当かな....??? その割に、喧嘩は絶えず、ボールは盗まれるわ、バール荒らしも絶えない。(犯人は常に不明)
以前Itamaでボランティアをしていた当時は、地域に根付きたい、と思った。外国人(自分もここでは外国人だが)との人種融合を目指したが、オラトリオとのボランティアも重なり、重くなってきたのと、自分もイタリア語を勉強し直そうと思い、Itamaを離れたが、人種融合なんてそう簡単にできるものではない!と今更思う。綺麗事ではないということ。
それは、人種の問題とか、宗教とか文化背景も全くないわけではないが、分かち合おうと思っても、一方通行では仕方ない。そしてどんなにこちらが忍耐強く待ってもモラルの低さには絶え切れないものもある。
私をオラトリオに引っ張った、司祭が移動したことによって、どさくさに紛れてやめようか?と思っていたら、新任の司祭にまた押し倒された?涙。 まあできることだけをしよう。無理はしない。喜んでできないのならば、意味がない。と自分に言い聞かせて早3ヶ月。
司祭のやり方は、以前の司祭とは全く違う。信頼してくれている分もあると思うが、良くも悪くもかなり、丸投げ勘があり、なんだかな...と思う。それでも逐一司祭たちとは連絡を取り合い、その日の様子や自分が感じることを伝えてきているが、昨日オラトリオで久々喧嘩が起きた。
やはりポポラーレの子達だ。今回はエジプト人とイタリア人。どちらがどう、とか理由なんてない。彼らは常にぶつかり、殴り合いになる。こちらの中学生。12,3歳くらいだろうか?とにかく彼らの言葉は聞いていられない。悪いが家庭教育の低さを感じる。
すぐに走って行って、足を挟み一人の肩を鷲掴みにし、力づくで離した。周りは彼らを止めさせる雰囲気さえなく、二人を離しても敢えて片方をからかい怒らせようとしている。一度は落ち着いたものの、再び始まり、”バスターーーーーーーっ”(やめなさーい!)と怒鳴りながらダッシュしてまた力づくて一人の上半身を引っ張って離す。気づいたら右手の甲から血が流れていた。
もう、家に帰れ!戻ってくるな!と怒鳴っても、自分は帰らない。といって汚い言葉の連続。だから、そういう言葉をここでは聞きたくない。しつけのなってない子は帰りなさい。といったが、敷地内の遊具がある方へと皆消えていった。喧嘩してても帰らない。それでいてまた近くに寄り合う。どういうこっちゃ?
ところで、ミラノは17時半くらいになるともう真っ暗。その頃になって敷地内の電灯をつけるが、サッカーコートの電気は敢えてつけない。節電もあるが、明るいと彼らは帰らないからなるべく暗くしておく。また必要以上にボールに空気は入れない。以前は、パロッキアの分はもちろん、家からもってくる空気の抜けたボールにも空気を機械で入れてあげていたが、新任の司祭はそれはしなくてもいい、と言う。敢えてつけるボールが増えると盗まれる、と言う。悲しいかな、それが事実だ。わざとらしく外にボールを蹴る子がいて、出ちゃった、と言うが、外には必ず待機している仲間がおり、走って逃げる。何度もその光景を目にしている。それでも自分とは関係ない、と言われてしまえばそれまでだ。
昨日は、17時過ぎから小学3年生のカテキズモがあり、地下の待合室には保護者が数人いた。そこには卓球台やミニサッカーのゲームがあるが、そこにサッカーに飽きた子供達を入れようものなら大騒ぎされ、挙句の果てにそこでも喧嘩が始まる。なぜあの子達をオラトリオに入れるのだ?という保護者もいるし、何も言わなくとも思い切り嫌な顔をする人は多い。私も地下と地上は見舞われないので、昨日は子供達は地下の待合室には降りさせなかった。彼らのほとんどには、門限というのがないのだろう。暗くなっても遊び、1,2ユーロのお小遣いで買い食いをする。オラトリオを閉めても、帰宅までの帰路1キロもないだろうが、大勢で大騒ぎしながら帰っていくが、きっとどこかでまた寄り道をしているのだろう。
そして、昨日は結局3回喧嘩が起きて、全員外に出した。カテキズモも終わりさっさと敷地内の電気を消し18時半には門を閉めてしまった。司祭達はすでにクリスマスの祝福の家庭訪問が始まっているので、私一人で居残っていても何が起こるかわからない。
門の外に追い出されたパロッキアの外でも喧嘩をしていた。もう勝手にしてくれ!警察沙汰になってももう知らん!
ところで、この時期パロッキア内の大木は落葉の時期で、毎週毎週掃除をしてもすごいことになっている。周りが明るく、時間があるときに掃除をしているが、卓球で遊びたいといって来た子に今日はダメ!といってやらせないでいると、じゃあ掃除をする!といって私の掃き掃除を手伝い始めた。じゃあ、後でご褒美でもあげようかな?と思い、オラトリオのバールでチュッパチャプスを買ってくると、もう一人の子がきて掃除をし始めた。二人だったら、ポテトチップスにしようか?と思い、買い換えた。と思ったのもつかの間、彼らはすぐに飽きてしまった。掃除というよりも、ループ状になって地下におりる小道の芝生の部分にたまった枯葉を通路に落としただけで、散らかし放題、余計にひどくなった。ちょっと〜!最低限、数カ所に落ち葉をまとめるとか、なんとかできないの?というと、一人の子(のち、喧嘩をし始める一人)は行ってしまった。始めに始めた子も行ってしまおうとしたので、ご褒美あげようと思ったのに...と言うと現金なもので、再び掃除をし始め、袋にも詰め始めてくれた。決して綺麗、という類ではないが、責任は果たしてもらわないといけない。小さなポテトチップスのパックをご褒美といってあげると喜んでいた。
ところで、ヴァチカンでは先日11 月19日第1回「貧しい人のための世界祈願日」が行われた。
貧しいというのは、単に金銭的なことだけではない。自分の限界と罪の状態を認めることができる謙遜な心、幸福の条件としてお金や成功を求めない心でもある。
また、今日の社会で「貧困」を明確に定義することは難しいが、それでも貧困は、疎外や暴力、拷問、受刑者生活、戦争、自由と尊厳の欠如、無学、医療危機、失業、人身売買、亡命、強制移住などに苦しむ非常に多くの顔となって、毎日私たちに訴えている。
日曜日のローマ典礼のしおりを今日、聖書の会で読んだ。
箴言31:20
貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる
福者パウロ6世は「貧しい人を受け入れ、助けを差し伸べるために開かれる手は、幸いである」とおっしゃった。
話は戻るが、オラトリオでの喧嘩に巻き込まれ、やってられないよな...と思う。喧嘩を見てみないふりしている人は大勢いる。私もその方が楽なのではないか?とさえ思うこともある。
けれど、逆に神様は私に何を望んでおられるのか?と思うと、やはり傍観者ではいてはいけないと思う。すべきこと、できたことをしなかった罪は重い。
「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう(ヨハネの手紙1、3:18) やはりキリスト者に必要なのは虚しい言葉ではなく、具体的な行いであるはず。
「貧しい人たちの日」を記念し、教会と信者のあるべき姿を考えた。
http://ja.radiovaticana.va/news/2017/11/20/貧しい人のための世界祈願日:教皇参加の昼食会、バチカンで/1350051
https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12314040935.html
https://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12282953524.html