L'Oratorio estivo 2017 オラトリオ ~ その3 苦悩と葛藤 地域への挑戦 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

上記はこの夏のオラトリオのアニマトーレの公式Tシャツとロゴ。

 

明日から一ヶ月、夏のオラトリオが始まる。オラトリオでのボランティア3年目。しかも責任者昇格! 苦笑 って偉い訳じゃありません。誰もいないから。涙

 

ミラノ大司教区には約1000ものパロッキア(教区教会)があるのだが、今年の夏のオラトリオの申込者は例年の10%を越え、40万人が参加すると言われている。3月にパパ様がミラノ司牧訪問された際、パロッキアに行こう!オラトリオに行こう!とおっしゃった影響もなしにはあらずだろうし、この長い夏休み、子供達は何かしらの夏のコースに参加したりするものだが、どれも有料で金額もピンキリ。市が行うものは、人数制限もあり、予約がすぐにいっぱいになってしまったりして、結局手軽なのが、地元のオラトリオ。カトリック信者だけを受け入れるのではなく、祈りの時間はあるものの宗教関係なく、誰でも受け入れる。

 

話は前後するが、パパ様がミラノ訪問された際、オラトリオへ行こう!という話題は、ある俳優も自分はオラトリオで成長したということ、オラトリオがいかに素晴らしいか、と言い、散々TVやネット、雑誌などで取り上げられたのだが、ある月曜日、私がオラトリオの担当の際、イタリア人のご婦人がいらして(しかし私が行く日曜日のミサにお見かけする方ではなかった)、「パパ様はオラトリオへ行こうと仰ったが、なぜ、このパロッキアはイタリア人の子供達が少ないのか?なぜポポラーレ(低所得者地域)の子供達、特にアラブ系を受け入れるのか?彼らは非常に躾がなっておらず、しまっているオラトリオに忍び込んでいるのも見たけれど、放っておいて良いのか?」などなど言ってきたのだ。確かに、それはすべて事実である。このサンシーロ地域は、人種、宗教の坩堝であり、貧富の差も激しい。我が家の子達も、このオラトリオにだけは来たくないと言ったし、実際次男は2年間夏のオラトリオに参加したが、いつも嫌な思いをすることがあって、行かない、辞める!と大騒ぎする。

 

これは、はっきり言って宗教の問題ではなく、家庭環境の問題であろう。経済的なものもあれば、家族の形の問題でもある。けれど、それを今言ったところで始まらない。彼らをいかに教育というと上から目線かもしれないが、心から受け入れてあげて、心を開かせ、共に生きること、協力しあうことの素晴らしさを教えるか...と言いたいところだが、あまりにも理想的すぎるな、美談すぎるな...と私自身、気が萎えてしまうというか、疑問と葛藤が残る。これは地域への挑戦、そして私自身への挑戦でもあるな...と思うのだ。

 

ところで、夏のオラトリオは申し込みに15ユーロかかるが、参加日は一週間5ユーロ。つまり1日1ユーロ。朝の8時から9時半くらいまでに行けばよく17時まで。食事は週3回、1食2.5ユーロ。週に2回、遠足とプールに行くが、随時少額ではあるが、お金がかかるので、参加、不参加は自由。少なくとも3日間、食事のある日は本来は宗教上、または健康上問題がある人のみ、持ち込みを許していたが、最近は経済的問題もあるので、持ち込みを許している。昨年までは、パロッキアに住み込みの男性が1度に10キロのパスタを準備していたが、彼も定年でいなくなってしまい、作る人が誰も見つからず、聖歌隊のメンバーでケータリングサービスをしている人のご好意で安く引き受けてもらった。以前は、おかわりは自由だったが、人によっては2杯はいいとしても、3杯も4杯も食べられてしまうと、やはり不公平感が出てきてしまう。なので、今年は、お金を払った人のみに提供し、くれぐれもお代わり無し!と言われているが、厳しいなあ...と思う。

 

友人のお子さんがアニマトーレをするオラトリオ(比較的移民は少ない)は400人の子供達を受け入れるというが、我がオラトリオはせいぜい150-180人くらい。それでも元々資金のないところに支払えない家庭も多く、それでも受け入れるわけだから、じゃあたりない分は実質上どうするの?という問題が出てくる。きっと担当司祭も悩んだのだろうが、”地域の心ある信者の方へ”という手紙が各家庭のポストに入っていた。

 

それには、この地域での移民問題、そして経済格差(イタリア人でも南イタリアからの移民が多く、職業的にもホワイトカラーというよりは、ブルーカラー、または失業中という人も多い)などなどが綴られており、オラトリオの子供達の将来のために協力を頼む、というものだった。だが、どれだけの人がそれに賛同したものかどうか...特に私の住む通りは、本来私の通うパロッキアが所属だが、隣のパロッキアに通う人がほとんど。長男が小学生時代に小学校をそのパロッキアの前にある学校にかえたため、クラスメートは皆カテキズモにそこへ行くからといって、彼も所属教会の変更届けを提出してそのパロッキアでカテキズモを受け、洗礼、初聖体、堅信を受けた。そのため、私もそのパロッキアにもちょくちょく顔をだしていたが、まず同じ地域でありながら、ぐっと雰囲気の違う通りにあり、やはり通う信者の生活層の違いは明らかだ。それで人間に差があるのか?と言ったら、話は違う。それ以前に、そう比較すること自体、カトリック信者として正しいことではない。けれど逆に、共同体としての横の付き合いが表面的のような、よそよそしさを感じるものがあった。そこでの夏のオラトリオは毎週、ピエモンテ週の山へキャンプへ行くだけで、パロッキアは閉まったまま。全体としてのオラトリオの活動はない。それでも富裕層であれば、別にオラトリオにこだわらず、プライベートの夏のコースへ子供を通うわせることは可能だ。

 

司祭の手紙の件に戻ると、夏のオラトリオを維持するための里子プログラム、また中学生のキャンプ、高校生以上のキャンプ、またパロッキアの暖房費支払い協力の嘆願書でもあった。高校生以上に関しては、7月にナポリのスラム街でのボランティア活動を行うための旅費及び維持費への協力依頼であった。さすがに私も収入があれば、多少は寄付ができるものの、自分が自由に使えるお金がないからそうそう寄付はできない。

 

それにしても、ここ数年オラトリオでボランティアをしてきて思うのは、助け合いはもちろん大切だ。ただ、助けられることに慣れてしまい、ずーっと与えられ続け、徐々に自立心を失っている人々も見かける。じゃあそこで劣等感が生まれているのか?というとそうでもなさそうだ。決して私は自分たちの方が優れているとは思っていない。思うはずがない。けれど、何か変だ。しかも、言動の悪い子供たちに会うと非常に心が乱されてしまう。私はここで何をしているのだろうか?とさえ思ってしまうのだ。

 

ボランティア仲間の中には、自営で働きながら、昼休みを利用し、急いで地元に戻ってきて手伝っていく人もいる。寄付、与えられるものは、お金だけではない。時間だってそうだ。時間は貧富の差なく、皆平等なのだから、その中で時間を作って誰かのために役立とうとする努力は立派だ。なので、私は、オラトリオに参加する保護者も何かしらの形で協力できないものなのか?とも思う。

 

責任者となり、夏のオラトリオをサポートする大人、保護者を取りまとめているが、蓋を開けてみないとどれくらいの子供たちがやってきて、しかもどんな子たちがやってくるのかわからないが、スタッフのドタキャン、手伝いできる曜日の変更なども多々あり、明日からどんな生活になるのかドキドキハラハラ。

 

また夜10時を過ぎて、知らない番号から私の携帯に電話が入った。いたずら電話、迷惑電話も多いため、嫌だな...と思って、しぶしぶ出ると、南米訛りのイタリア語だった。また、詐欺まがいの電話か!(先日無線タクシーを呼んだくせに私がこない!という南米なまりのクレームの電話があった。誰が、電話したって?私がしてないっていってるんだからしてるはずないでしょ!と激怒した。)と思うと、オラトリオを手伝いたいのだが、T子と直接話して!と司祭に言われて、この番号をもらった...という話だった。ボランティアのドタキャンのしわ寄せに頭を抱えていたので、救いの電話であった!

 

いやいや、明日は蓋を開けてみないと何がどうなるのかわからない。そしてこの地域が抱える問題は根が深い。私の苦悩と葛藤は続きそうだ...