光の灯火は、明るく輝いている。

 

明るく輝くものは、光の灯火とは限らない。

 

それそのものが輝いているとは限らない。

 

暗く深い闇の中で、光の灯火は輝いていることを観ることができる。

 

 

輝いているようにみえて、

 

何かの、誰かの輝きを反射しているものはたくさんある。

 

 

それはそれでいい。

 

 

ただ、輝いている光の灯火そのものが消えたとき、

 

反射している輝きも消えてしまう。

 

 

光の灯火を、自己の内に灯すとき、

 

どんな時にも輝くことになる。

 

 

輝きつづける限り、永遠に。

私たちは繊細に私たちの世界を、価値を知ることができる。

 

だが、その繊細なものも、触れて、感じて、考えて、伝えて、表現して…、

としなければ、知ることはない。

 

脳が認識をしてくれないと、「わかる」という状態にはなりにくい。

 

 

自分のことを知りたいのなら、

自分のことに繋がる情報を絞ること。

 

それはエネルギーを厳選すること。

 

 

憧れや、理想、好きという感情や思いはあっても、

 

あわないものはあわないし、あうもはあう。

 

 

それを知ることになる。

 

 

何もかも自分の想いの反映であることは、

最近の様々な書籍等で書かれている。

 

しかしながら、「想い」をどのように持ち、

その「想い」がどのように反映していくのか?

そうしたデザイン的な内容は、まだまだ目にすることは少ない。

 

それは、一つ、魂は芸術的なものと捉えられるからだろう。

それを言及することはたやすいことではない。

 

ただ、その美しさを観ることはできるだろう。

日常で。

用語的に、創造性や多様性という言葉が増えてきました。

 

が、実質的には、

平均的には、単調になっていたり、安易な真似だったり、形骸化だったりが、

増えてきている気がします。

 

言葉、もしくは、その先端のみがはやり、

精錬さや、探求、塾考や熟成・熟練、奥ゆかしさを含めたデザイン、

に、エネルギーを活用できなくなってきている気がします。

 

成功(上手くいく)という、単一的な情報を求めてしまっている感じがします。

 

 

自然 や 心 のような、調和的なカオスから生まれる美しさは、

技術向上していく世界では、貴重になっていくのかもしれないと、想うことが多い最近です。

この世界のことを知ることは、

自分の色んな部分をしることに繋がります。

 

知るというのは、知識として知るのではなく、

「どういった存在」なのかを、

様々な見方で知ることです。

 

もし、それを知れたのなら、

あたかもその部分(事象)を自分の一部のように扱うことができるでしょう。

 

知ることによって、自分自身との関係がわかるのです。