(『新・人間革命』第6巻より編集)
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〈若鷲〉 27
メンバーの旺盛な求道心は、とどまることを知らなかった。
今度は上野雅也という、この春、慶応大学を出て本部の職員となり、聖教新聞社に勤めている受講生が尋ねた。
「『梵漢共時に南無妙法蓮華経というなり』とございましたが、現在はアメリカ人も、お題目は南無妙法蓮華経と唱えております。
これを将来、英語など、それぞれの国の言葉に翻訳し、題目として唱えていく必要はないのでしょうか」
彼の率直な疑問であったのであろう。
伸一は言下に答えた。
「南無妙法蓮華経は永久不変な法であり、究極の言葉です。それを翻訳し、題目として唱えていくことはありません。
南無妙法蓮華経の意味を学ぶために、御書をドイツではドイツ語に、イギリスでは英語に翻訳し、解釈することはよいが、唱える題目は、どこでも南無妙法蓮華経です。
題目は、瞬時に仏に通ずる世界共通の言葉なのです。
たとえば、梵語では、妙法蓮華経は「薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)』になるからといって、題目を”ナム・サダルマ・フンダリキャ・ソタラン”とするわけにはいきません。
音やリズムという問題があるからです。
たとえば音楽でも、それぞれの曲には独特の音律がある。ベートーベンの曲にしても、それは彼の己心の音律であり、民族や言語、文化の違いを超えて、心を打つものがある。
南無妙法蓮華経というのは、宇宙の法則、大宇宙の根源のリズムに合致しゆく音律であるといえる。
この題目の響きに、生命が感応していくのです。
題目とはそうした不思議なものなのです。
ところが、南無妙法蓮華経を、それぞれの国の言語に翻訳したりすれば、題目の音律が違ってしまう。
だから、これは変えるわけにはいかないんです」