(『新・人間革命』第6巻より編集)
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〈若鷲〉 26
伸一は、自分と受講生とは、ともに同志であり、同じ仏の使いであるととらえていた。
受講生は自分より年は若いが、上下の関係にあるとは考えていなかった。むしろ、彼は、皆を尊敬していたのである。
伸一は、発奮を促す意味から、時に厳しい指導をすることもあったが、ともに学び合い、触発し合うことを基本としていた。
それが伸一の、そして、学会の本来の人間観である。
また、彼は、メンバーが新たな疑問や問題に直面したならば、一人ひとりが、それを自らのテーマとして、責任をもって研究し、皆のために道を開くことを期待していたのである。
次に質問したのは、臼田昭という、東大の法学部の学生であった。
「先ほど、『経とは一切衆生の言語音声を経というなり』の箇所で、経というのは仏典だけをいうのではなく、宇宙のすべての言語、音声が経であり、
さらに広げていえば、動作、行動も経となると、講義してくださいました。
ということは、私たちが文章を書くことも、経であると考えてよろしいのでしょうか」
臼田は、学生部の理論誌『第三文明』の編集に携わっていた。その中で、彼は、広宣流布のための言論戦の、仏法上の意味を考えていたのであろう。
伸一は答えた。
「ものを書くことは、言語音声、言々句々の表れであるし、行動なのだから、もちろん経になります。
大聖人の御言葉である御書も経です。したがって、その仏法を多くの人びとに教えようとして、折伏の大精神をもって、文章を書いていくならば、『声仏事を成す』ということにもつながります。
思想も、哲学も、理念も、文によって表現される。言論は広宣流布の生命線といえる。
臼田君、君は言論界の王者となって、権力と戦い、民衆を守り抜いていくんだ。楽しみにしているよ」