理論(迹門)と実際(本門)。(少し理解しにくいかもしれませんが) | くにまさのブログ

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    (『新・人間革命』第6巻より編集)

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        〈若鷲〉 20

 

 (つづき)

 さて、不変真如の理の前に、『迹門(迹とは、影。月自体を本体とすれば、池に映った月影は迹)とあるのはなぜなのか。

 

 

 それは、法華経迹門に至って、初めて、諸法実相(宇宙のあらゆる現象が、ことごとく実相・真実の姿・南無妙法蓮華経の当体である)が明かされて、

 

 森羅万象ことごとく、一念三千、妙法蓮華経の当体であることが示され、さらに、二乗作仏(法華経以前の教えでは、仏と衆生の生命は断絶していて、

 

 特に声聞界、縁覚界の二乗は、エゴのため、永久に成仏できないとされていたが、法華経で初めて、成仏の道が開かれた)、女人成仏、悪人成仏が説かれたからです

 

 つまり、この法華経迹門には、一切衆生が、全宇宙が、妙法の当体であるという、絶対不変の真理が明かされているのです。

 

 だから『迹門」とあるのです。

 

 しかし、法華経の迹門で、一切衆生が仏であることが説かれ、自分が妙法の当体であり、仏性を具していることが理論的にわかったとしても、それだけでは、現実の苦悩を乗り越えていくことはできない。

 

 観念に過ぎません。理と事(実際)には天地との開きがある

 

 受講生は、初めは難解であると思われた御文も、伸一の講義を通し、次第に、明瞭に理解できるようになっていった。

 

 ところが、法華経の本門に入ると、釈尊自身が、いつ、どこで、どういう原因によって仏になったかという、本因、本果、本国土が明らかにされます。

 

 すなわち、一念三千{衆生の生命(一念)に現象世界(三千)のすべてが収まる}の法理が、実際の具体的な釈尊の振る舞いとして明かされることで、

 

 本門では、現実の成仏の方途が示されたわけです。

 

 したがって、隨縁真如の智の前に、『本門』の二字があるのです。

 (つづく)

 

 

 

 

 

 

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