ブラジルのカルロス・ミラベリ(Carmine Carlos Mirabelli)(1889-1950)は、人類史上において最高の物理霊媒かもしれません。ただ、場所がブラジルだったので、なかなか世界に情報が広がりませんでした。しかも1975年に大々的に紹介されたときのこの写真が、物議を醸しだすのです。
浮いているように見えますよね。。。
この写真に関する話は最後にします。とりあえずはミラベリがどういう人だったかを紹介しましょう。
1911年、若いミラベリは靴作り見習いの職を首になりました。その理由は、彼の周囲で靴の箱がやたらに宙を飛ぶというものです。靴箱は時には、怖がって通りに逃げる彼の後を追ってきました。その結果彼は、精神に問題があるとみなされ、精神病院の前身のような施設に預けられることになりました。とは言えすぐに、彼は狂っているのでなく、確かに変な力を持っているとわかり、科学者たちが興味を示し始めたのです。
1919年9月、ミラベリの能力を調べるために、Academia de Estudos Psychicos Cesar Lombroso(心霊調査アカデミー セーザル・ロンブローソ)が設立されました。ここで調査された結果が、当時秘書だったRodolpho Mikulasch(ロドルフォ・ミクラッシュ)の編集の下、1926年に「霊媒ミラベリ」として出版されました。翌年、ドイツでシュレンク=ノッチングが、このまとめを出版しています。この本に証人として名が挙げられている中には、ブラジルの大統領、国務長官、2人の医学博士、72人の医者、12人のエンジニア、36人の弁護士、公職にある89人の人々、25人の軍人、52人の銀行家、128人の商人、22人の歯科医、および修道会のメンバーが含まれます。
調査は3つのグループに分かれて行なわれました。一番目のグループは口述の霊媒現象について調べ、189回の肯定的な(肯定的な結果を産み出した)交霊会を取り扱いました。二番目のグループが調査したのは自動筆記で、肯定的交霊会は85回、否定的(何の結果も生み出さなかった)交霊会は8回という結果になっています。三番目は物理心霊現象を調査し、63回の肯定的交霊会、47回の否定的交霊会を経験しました。肯定的交霊会のうち40回は日光の下で、23回は明るい室内光の中で行なわれ、霊媒は椅子に縛り上げられ、部屋の中は実験の前と後に十分にチェックされています。
この写真は、ミラベリが椅子に縛られているところです。
ここで、自動筆記で得られたドキュメントを紹介しましょう。
はて、何語なのでしょう?
知人たちに聞いてみたところ、ヘブライ語の可能性が強そうです。
こちらは、ペルシア語に詳しい人によると、近しい言語だと思われるとのことですが、あまりに崩れすぎていてわからないとも言っていました。ちなみに、下のポルトガル語は、ブラジル人でもなかなか読めませんでしたが、とりあえず、そこに何語なのかは書かれていないようです。
でも次のはわかります!
松元岩五郎さん。大正5年10月10日に中之島で亡くなったと読めますね。今の時代ならすぐ、SNSで実在の人物か調べられるのですが。もう一つ日本語を。
「拝啓、其ノ後皆々様には御要はありませんが、私方、皆、達者で暮らしておりますから…」
うう、達筆すぎてなかなか読めない。
でもこんな風に、日本語を行書体で書くだけでも、すごいと思ってしまいませんか?
ミラベリはブラジルに移民したイタリア人の両親のもとに生まれ、イタリア語とポルトガル語をごっちゃにして覚えてしまったみたいで、どちらも完璧には話せませんでした。その他に英語とドイツ語をほんの少しだけ話したそうですが、一旦トランス状態になると、ヨーロッパの言語はもちろんのこと、アジアの言語、ラテン語、古代ギリシャ語なども話し、筆記では象形文字も書いています。しかもときには、右と左の手で同時に、違う言語で書いたそうです。
こうした、本人が知らないはずの言語を話したり書いたりする以外に、物質化能力も傑出していました。故人の全身や一部を実体化する霊媒は他にもたくさんいましたが、ミラベリはそれを昼間の光や、明るい電気の中でできたのです。霊媒たちがどうして暗闇でないと現象を起こしにくいのかは、また別の機会に話しますが、とにかく明るい光の中でこうした現象を起こせるのはとてもすごいことなのです。
例えばミラベリは二度ニューヨークに行き、学者たちの前で、明るい光の中で物質化現象を見せています。MICHAEL NAHM(ミヒャエル・ナム)氏の「Selected Aspects of Carlos Mirabelli’s Mediumship(カルロス・ミラベリの厳選された霊媒記録)」という論文に下記の話が載っています。
交霊会は物理学者のSchelders(スケルダーズ?)博士の家で3時に、明るい光の中で行われ、彼の奥さんと、友人たち11人がそこにいました。-中略- ミラベリは椅子に座って出席者と言葉をかわしながら、彼が持ってきた小さな水晶の玉を時々覗き込み、5、10分くらい経つとトランス状態になりました。それから少しして、ミラベリの横に細い、煙のような柱が現れました。そしてすぐにそれは結集していき、破れた服を着た男の人が現れたのです。出てきた彼も、列席者も、お互いに気まずい思いになりましたが、主催者のJ. Johnson(ジョンソン)が、現れた彼に向かって名前と、どこの人なのかを聞きました。
彼はどうやってここに来たのかわからないと言いながら、名前はJohn Ronaldson(ジョン・ロナルドソン)、セントルイスで1875年2月23日に生まれ、その後はほとんどニューヨークで過ごしていたと語り始めました。彼はCarlington(カーリントン)という名の誰かを殺して刑務所に入ったと言います。そこでValentin Mewes(ヴァレンティン・ミュース)判事が、テーブルからコップをとって、その霊に向かって右手の指紋を残してくれるように言い、霊はそうしました。
出現した彼に、刑務所を出た後はどうしていたかを聞こうとしたとき、死んだように横たわっていたミラベリの身体が痙攣を起こすと、男の足が見えなくなり、その姿は宙に浮かび上がりました。そして煙のような柱で覆われると、数分間かけてすべてが消えていきました。2人の物理学者、Ercole(エアコル)博士とHutchinson(ハッチンソン)博士は、これは集団幻覚に違いないと言い出しましたが、Ronaldsonが現れ、消えていく様子はすべてcinematographic camera(昔の映画カメラ)に記録されていました。
Valentin Mewesはコップの指紋を写真に撮り、警察に犯罪記録を調べてくれるように頼みました。返事が来たのは14日後です。その指紋はセントルイスで1875年に生まれた、John Ronaldsonという人のものでした。彼は強盗の罪で1907年12月21日に刑務所行きが決まり、1911年、刑務所内で肺炎にかかって亡くなっていました。Ronaldsonの右手親指には傷があったのですが、その傷は交霊会において取られた指紋にも見て取れました。
このときの動画フィルムが世界のどこかにあるはずなのですが、すごく見てみたいです。これに限らずミラベリはあちこちで、驚異的な物質化現象を見せています。
ある朝9時に、20人の医師たちと7人の教授たちのいる前で少女の姿が物質化しました。出席していたGanymede de Souza(ガニメデ・デ・ソウザ)博士は、少女が2,3ヶ月前に亡くなった自分の娘で、埋葬されたときと同じ服装をしていることを認め、Octavio Viana(オクタヴィオ・ヴィアナ)大佐は彼女の手を取って脈拍を確認し、いくつかの質問をしたところ一貫した答えが返ってきました。その後36分の間、少女は存在し続け、写真も撮られました。そして最後に宙空に浮かび消え去ったのです。
「この時の写真を見たけれど、今どこにあるのか見つけられなかった」、と言いながら、Mirabelliに関する動画をYoutubeに上げている研究者がいますが、しっかり探してから収録してほしいものです!!!
と言っても、物質化現象の写真が残っていないわけでは全然ありません。Eurico de Goes(ユリコ・デ・ゴエス)が1937年に出した「Prodígios da Biopsychica obtidos com o Médium Mirabelli(霊媒ミラベリのバイオグラフィー・プロフィール)」に載っているのですが、例えばこの写真の真ん中の人は、18世紀のイタリアの詩人ジュゼッペ・パリーニ (Giuseppe Parini)とのことです。ちなみに左はトランス状態のミラベリ、右はCarlos de Castro(カルロス・デ・カストロ)博士です。
なんか普通に人間で、ありがたみがないですよね。しかも、この人の残っている自画像とはかなり違うように見えるのです。。。
でも、興味深い写真もあります。
これはミラベリの、当時すでに亡くなっていた祖父パスクアール・ミラベリです。このときの詳しい様子は報告書に書かれていないのですが、天井に頭がつっかえているということは、おそらく浮いているのではないでしょうか。
このインド人らしき女性の写真も興味深いです。
当時、特に実験の機会でなくても、ミラベリの周りでは常に不思議なことが起きていました。このインド風の女性は、サンパウロのトゥクルビにある、ミラベリの農場で実体化しました。
そしてこの写真の後、彼女は浮かび上がって消えていくのです。
この写真は4mくらい浮かび上がったところだそうです。足元を写してくれないとわからないよ、と言いたいところですが、周りの景色との関係で、浮いているのがわかってもらえるではないでしょうか。
こうした物質化現象以外にも、自分自身または他の物のテレポーテーション、花瓶などを宙に浮かせるなどの能力を常に見せていたので、ミラベリの話は、アメリカ、ヨーロッパにも伝わってきました。1882年にイギリスでSPRという、心霊現象を調べる学者集団ができましたが、そのアメリカ版であるASPRから、Theodore Besterman(セオドア【シオドア、シアドア、テオドア】
・ベスターマン)という人が調査に来ました。しかし、この人の調査報告がかなりいい加減だったのです。
1934年1月、SPRのMay Walker(メイ・ウォーカー)がブラジルまで調査に来て、とても好意的な、今まで見た中で最高の念力を発する人だったというようなレポートを書きました。それを受けて、8月にベスターマンが調査に行くことになったのですが、この人は基本的にすべての超常現象を否定したい人でした。彼が滞在していた間、メインで調査したのはアポーツです。アポーツは物品引き寄せなどと言われますが、物品のテレポート、もしくは非物質化と物質化の現象です。そして実験、あるいは交霊会を重ねた結果、ベスターマンは自分が渡したコインと同じコインが返ってこなかったという理由で、コインのアポーツは当然トリックだし、その他もすべてトリックに違いないという調査報告を出したのです。
SPRもASPRも、基本は心霊に否定的な団体です。資料が溜まりに溜まった現代では、さすがに超常現象に肯定的になってきましたが、20世紀前半の頃は、トリックでない現象が存在し死後の世界はあると確信した会員たちはどんどん辞めていき、残った会員はすべてを否定したい人が大半でした。またASPRは当時、生きている人間に少しは超能力があるのかもしれない、という仮定から、超心理学の実験作業が本格的にスタートした頃でした。つまりASPRにとって、ミラベリのように非常識なほどパワフルな人は、存在してはいけないのです。
ベスターマンは、1926年に出版された「霊媒ミラベリ」に署名しているたくさんの人たちに、こんなのは信用できないということで、一切インタビューをしませんでした。また、ベスターマンもサインをしている交霊界記録の中に、例えば、コインがオルガ夫人の手から浮かび上がり、フライ氏の後ろのポケットまで飛んでいくのを、アルヴァロ氏が目撃したと書かれていますが、そうした事実をレポートでは全く引用していません。
さらにベスターマンは、Zabelle(ザベル)という霊が実体化したことを、レポートに書いていません。Guy Playfair(ガイ・プレイフェア)というイギリスのライターが当時の交霊会記録を調べたところ、次のようなことが書かれていました。ベスターマンが来てから最初の交霊会で、ミラベリが、ザベルという霊が来ていると言いながら、その霊の詳細を述べました。それを聞いたベスターマンは、ロンドンでもう亡くなった、同じ名前の女性を知っていると言い、もしいるのなら何か証拠を見せてほしいと言いました。するとテーブルの上の瓶がジャンプし始め、中には床に落ちるものもありました。ベスターマンはこの瓶の挙動をレポートしていますが、ザベルについてはレポートに何も書いていません。
2回目の交霊会でザベルは実体化し、写真も数枚撮られました。その席でザベルは、自分が確かに存在していることを示すために、ありとあらゆることをしたとのことです。
(ザベルの写真の一枚。オリジナルの写真はもちろん、もっと良い画質のはずです)
3回目の交霊会において、写真を調べたベスターマンは、自分の知っていたザベルという女性と酷似していると述べました。しかしザベルについて、彼は調査報告で何も書いていないのです!
ブラジルという国の霊媒であり、そして英語圏に伝わる情報は基本的にベスターマンのレポートだったため、ミラベリの名前は生前、それほど有名にはなりませんでした。その彼が改めて注目されるきっかけとなったのは、ミラベリの死後、ガイ・プレイフェアが、遺族や生き証人たちにインタビューし、交霊会記録を閲覧して書いた、「The Flying Cow」が出版された1975年です。この本はシドニー・モーニング・ヘラルドを始めとして、いくつかの新聞の書評で大きく扱われています。
(Things that go bump in Brazil - ブラジルで出没する怪奇、みたいなタイトルがついています)
この本に載っているのが、冒頭の、ミラベリが浮いている写真なのです。プレイフェアはこの写真について、その真偽はさだかではないとしています。そして1990年、アメリカの研究者Gordon Stein(ゴードン・シュタイン)が、SPRの資料から同一の写真を探し出しました。それが、ミラベリから直接、サイン入りでベスターマンに送られたというこの写真です。
この写真に関してシュタインは、足元にレタッチの跡を見つけたと書いています。
写真が荒くて見にくいですが、それでもよく見れば、確かにはしごらしきものをレタッチした跡が見えます。
これはいったいどういうことなのでしょう?
数々の報告から明らかに本物と思えるミラベリに、明らかに偽物と思われる写真がつきまとっているのです。しかもそれは、明らかに敵対しているベスターマンに、ミラベリ自身が手渡したものなのです。
実はこの写真、別バージョンが「Prodígios da Biopsychica obtidos com o Médium Mirabelli」の冒頭にも載っています。
ここでは電灯が点いていないように見え、フラッシュが当たっているような光が見えます。そして、Photoshopでベスターマンの写真と角度・倍率を合わせて比べてみると、この写真は若干下から、より見上げながら撮られていることがわかりました。
さて、少なくとも二種類は存在するこの写真。両方ともレタッチされたのでしょうか。そもそもミラベリは、そんな偽写真をなぜベスターマンに渡したのでしょう。そして、あれほどすべてを否定したかったベスターマンが、このレタッチの跡に気づかなかったのはなぜなのでしょう。
謎は深まるばかりです。プレイフェアはその後の版で、彼の本からこの写真を削除しました。
SPRの資料にある写真を、シュタインが加工したということは、考えられなくはありませんが、貴重な資料の閲覧中にそれをするのは至難の技でしょう。もしくは、空中浮揚の際に撮られた写真の一枚に否定派がレタッチの跡をつけ、それをミラベリに渡していた可能性もあります。しかし私は別の可能性も考えています。
人には誰でも、新たな現実を創り出す力があります。これは、超常現象に否定的な人たちでも同じです。そのためもしかしたら、プレイフェアが紹介した写真を見た多くの否定派が、この写真は絶対にフェイクに違いないと思い、それが実現してしまったのかもしれません。つまり、この写真はベスターマンに渡った時点では、レタッチの跡がなかったのです。このレタッチの跡は、写真に後から現れたと私は考えています。こうした考えは荒唐無稽でしょうか?
人類史上最高の物理霊媒の話はいかがでしたでしょう。次回は、人類史上最高の心理霊媒と、その調査に挑んだ男の話をお送りします。