この記事、ずっと前に下書きしたまま置いてあったんですが、前の記事のビデオの内容と重なるところが大きいので、このタイミングでアップしようと思います。

 

これは私自身が摂食障害を経験するなかで気づいたことです。

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ある時、思ったんです。
暴食は、私の親友だったんだ、と。それも、一番心を許せる、唯一無二の親友。

暴食している間は、私は寂しくないし、不安もないんです。だって、私のすべてを受け入れてくれる親友が一緒にいるんですから。
でも、食べるものがなくなり、噛むという行為もなくなると、親友はふ~っと目の前から居なくなってしまい、私は部屋に一人、ぽつんと残されてしまうのです。それが辛くて・・・だから、食べるのをやめられなかったんです。

私の暴食が一番ひどく、一番太っていた大学時代。時に少し気持ちが上向きになり、「よし、一歩踏み出してみよう!」と必死の思いで行動を起こすのですが、その先々には必ず、嘲笑や拒絶という高い壁が立ちはだかっていました。今の私がみれば、それでも行ける道がいくつもあるのですが、当時の私の目には見えませんでした。どこへ行っても行き止まりばかりで、私は孤独で孤独で死にそうでした。毎晩、「目が覚めなければいいのに・・」と思いながら布団に入り、眠りにつきました。

ふり返ってみれば、私は暴食という「親友」に支えられて、あの時期を、なんとか生きてこられたんだなぁ、と思います。


じゃあもし、その親友が、人間だったら・・・・・・・・・

例えば、ものすごく気を許せる親友がいて、いつもその親友とあらゆる価値観を共有していたとします。辛いときは、必ず傍にいてくれた親友。でもある時、その親友と共有していた考え方や生き方から脱却して、別の道を歩もうと決意します。
そして迎えた別れの日、・・・・その親友のことを忌み嫌ったり、憎んだり、しますか?
しないですよね?どっちかというと、「これからはあなたとは違う道を歩んでいくけれど、今まで本当にありがとう。支えてくれてありがとう。」 と、心の底から感謝しますよね?そして、感謝するからこそ、過去に終止符を打って前に進める。・・・・そうじゃないですか?


ならば、暴食という親友にも、感謝をすべきだと思ったんです。
「今まで支えてくれてありがとう。一番辛い時、ずっとそばにいてくれて、ありがとう。」 と。


もちろん、過食や暴食と違って、薬物依存行為には、法に触れるという側面があります。
「悪いことである」という、社会的な大前提があります。

ですが・・・・、過去の依存行為を過ちと捉え、憎み続けることは、過去というもう存在しない時間に、自分を縛りつけることになりはしないでしょうか?

 
「薬物からの離脱」、「薬物依存行為に終止符を打つ」という観点からは、
たとえ表立って言えなくても・・・、心の中でだけでも・・・、過去の親友である依存行為に「ありがとう」と感謝をすることが、必要不可欠だと思うのです。