如竹先生岩 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○これまで、屋久島の宮之浦岳には何回か登っている。4、5回は登っているような感じがしたが、正確には、

  ・2008年5月25日~27日

  ・2008年10月13日~15日

  ・2021年11月2日~4日

の三回であることが判った。他にも、屋久島には職場旅行で二回、家人と屋久島を周回したこともあったので、都合、六回訪れていることになる。

○その宮之浦岳登山を最初にした2008年5月25日から27日の時に、翁岳と栗生岳の間に、『如竹先生岩』を見付け、勝手に『如竹先生岩』と命名した。その時のブログが、次になる。

  ・テーマ「山の博物誌」:ブログ『屋久島の如竹先生』

  屋久島の如竹先生 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○泊如竹先生は、屋久島安房の人である。屋久聖人と称されるほどの偉人である。以前、次のように案内している。

  ・泊如竹は屋久島安房の人。元亀元年(1570年)1月17日に、船大工

  泊太次右衛門・初亀夫妻の長男として生まれた。日蓮宗の僧として、安房

  本佛寺で祝髪し、日章と称し、京都本能寺に法華を学ぶ。また慶長10年

  (1605年)、薩摩国国分にあった正興寺で、南浦文之玄昌に儒学を学ぶ。

  後、伊勢藩主、藤堂高虎の侍僧となる。その後、琉球に赴き、中山王尚豊に

  仕え、三年後、薩摩に帰り、島津久元に仕える。正保元年(1644年)職を

  辞し、屋久島安房に帰る。私財をを投げ打って用水を作るなどしている。また、

  飢饉の時、如竹は寺の米をすべて供出したり、屋久杉を切り出して、島人の経済を

  潤すなどして、屋久聖人と呼ばれている。明暦元年(1655年)5月15日卒す。

  享年八六歳。

○『如竹先生岩』は立派な岩である。翁岳と栗生岳の間に立つ。その凛とした姿は、何とも恰好良い。尋常の岩では無い。だから、『如竹先生岩』と命名した。相変わらず、『如竹先生岩』は健在だった。それが嬉しいような、懐かしいような気分がした。

○2008年10月に宮之浦岳に登った際にも、次のブログを書いている。

  ・テーマ「山の博物誌」:ブログ『如竹先生岩健在』

  如竹先生岩健在 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○2021年11月に宮之浦岳に登った時には、次のブログに載せている。

  ・テーマ「山の博物誌」:ブログ『淀川小屋へ下山』

  淀川小屋へ下山 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○したがって、『如竹先生岩』には、今回で四回目のご対面になる。相変わらず、『如竹先生岩』は美しく、神々しい。立派な岩である。屋久聖人、泊如竹先生に相応しい岩である。