○屋久島は花崗岩の山であるから、森林限界を超えると、多くの奇岩が出現して、登山者の目を楽しませてくれる。何と言っても、その中で秀逸なのが上記の奇岩である。
○ちょうど、翁岳と栗生岳の鞍部に存在する。標高は1756叩5槐訓些戮忙蠅襪里法∈埜紊凌緇譴あるところの直ぐ上になる。宮之浦岳登山で最もきつい登りのところである。皆、休み休み登るから宮之浦岳に登った人であれば、多分多くの人の記憶に残っている奇岩である。
○ヤクザサの中に坐った茶坊主のようにも見えるし、最新式のロボットのようにも見える。いろいろな本でもその姿が紹介されているが、特に命名されているわけでもないようである。
○誰か先にすでに命名しているのかも知れないが、まだ万人の認めるところのものがない。敢えてこの奇岩に『如竹先生』と勝手に命名したい。
○泊如竹は屋久島安房の人。元亀元年(1570年)1月17日に、船大工泊太次右衛門・初亀夫妻の長男として生まれた。日蓮宗の僧として、安房本佛寺で祝髪し、日章と称し、京都本能寺に法華を学ぶ。また慶長10年(1605年)、薩摩国国分にあった正興寺で、南浦文之玄昌に儒学を学ぶ。後、伊勢藩主、藤堂高虎の侍僧となる。その後、琉球に赴き、中山王尚豊に仕え、三年後、薩摩に帰り、島津久元に仕える。正保元年(1644年)職を辞し、屋久島安房に帰る。私財をを投げ打って用水を作るなどしている。また、飢饉の時、如竹は寺の米をすべて供出したり、屋久杉を切り出して、島人の経済を潤すなどして、屋久聖人と呼ばれている。明暦元年(1655年)5月15日卒す。享年八六歳。
○屋久杉を切り出すことは、如竹以前にはなかったことだと言う。如竹が奨励して屋久杉を切り出したことから、近年、如竹のことを非難中傷する輩がいるけれども、それは全く筋違いも甚だしい。遅かれ早かれ、屋久杉が切り出されることは時代の趨勢であったことは、疑いのないことである。また、島の経済に屋久杉が大いに貢献したことも間違いのない事実である。「木を見て山を見ず」と言うけれども、部分だけ見ていては、全体はうかがい知ることは出来ない。如竹が屋久島に大いに貢献したこと自体は、間違いない。
○「麑藩名勝考」や「三国名勝図會」には、種子島・屋久島の記述自体が極めて少ないにもかかわらず、詳細な如竹伝を載せている。大儒如竹が江戸時代、如何に尊崇されていたかがよく分かる。
○くだんの奇岩は、『如竹先生岩』と命名するにふさわしい風貌と風格を有している。宮之浦岳登山を目指す人々にとって、屋久島奥岳で一番気になるところに存在している。周囲には、ヤクザサが生い茂り、『如竹』の名にも適当である。『如竹岩』でも良いかと思うが、それでは大儒如竹に礼を失することになる。やはり『如竹先生岩』であろう。
○江戸時代が終焉し、明治・大正・昭和・平成と時が流れ、儒学そのものが忘れ去られようとしている。屋久島の船大工の子に生まれた如竹はその生涯を儒学に捧げた聖人であることは疑いない。ただ単に彼は学者であるだけでなく、藤堂高虎・中山王尚豊・島津久元などに教授し、屋久島にも大いに貢献している、屋久島最大の人物である。そういう人物を顕彰するにふさわしい奇岩である。
○せっかく、こういうところに存在する奇岩であるからには、妙な名は似つかわしくない。『如竹先生岩』であれば、相応であると思えるのだがどんなものだろうか。