ひきこもりを考える最終回(2)


 親は、
わが子をホームに迎えるべし  と思います。

  とは言っても、難しいことはお察しします。いい年したわが子が仕事もせずに家にいるなんて。世間体もあります。「自立せよ!」という気持ちが、活火山のマグマのように次から次へと溢れ出て来るでしょう。

 でも、本人もそのマグマに追われています。マグマから逃れて、静かに自己対話をしたいのに、逃れるための格闘で精一杯です。

 【滞在期・前半】が、この格闘に該当します。それが心置きなく出来れば、【滞在期・後半】へと移行すると思います。

 わが子がまだ小さかった時は、わが子をあたりまえのようにしてホームに迎えていたと思います。それは、〔する・do〕が小さくても、〔ある・be〕を感じていたからです。そこに戻ることから始めたらどうでしょう。

 食事を作って置いておく…(冷めちゃったけれど)…食べているなぁ、うれしいぞ
 廊下で久しぶりに出会う…(髪の毛ボサボサだけれど)…時間かかるんだなぁ、何があっても見守っているよ

 親は何もできない。小さな、ささいなことしかできない。

でも、親自身の不安をわが子にぶつけるよりもいいはずです。

 これにて連載を終わります。ご無礼いたしました。
(鮮)

ひきこもりを考える最終回(1)

 子どもがひきこもり状態になったら、親はどう接したらよいか。このことを考えて、ひきこもり問題の連載を終えたいと思います。

 私(鮮)が主張してきたことは、〝ひきこもるという営みには意味がある〟ということです。社会の〝網の目〟との接触を遮断して自己対話することが一定の時期、必要です。それを中途半端に切り上げれば、やはり中途半端に〝網の目〟に反応してしまい、苦しむ。中途半端な自分のまま〝網の目〟につながり続け、自己否定感がますます大きくなり、限度を超えてしまうからです。

 それで、とにもかくにも、やむにやまれずひきこもったとして、ある経験者がこの状態について次のように言い表しています。


『ハウスはあるけど、ホームは無い』

(石崎森人さん。ひきこもりUX会議理事、「ひきポス」編集長)

『建物としての家=ハウスはあるが、温もりある居場所としての家=ホームは無い』ということだと思います。

 どういうことだろうか。何故だろうか。

 辛うじて雨露をしのぐことが出来、寝ることも食べることも出来る。けれども、できるだけ早く仕事に復帰せよ、いい年なんだから自立せよ、という〝仮住まい〟に置かれる。

 子どもの時は、〝ホーム〟だった。けれども、〝いい年〟を境に変わってしまう。同じ建物=ハウスであっても、〝いい年〟以後は仕事への出撃基地で、自立を前提とした補給基地へと変わってしまう。つまり、娑婆の〝網の目〟=〔する・do〕の目に縛られるようになる。

 「ひきこもることだって、あるさ」「時間がかかっても仕方ないさ」「お前はお前だから思うようにすればいい」……言うかどうかは別として、親の構えが〔する・do〕の縛りを緩めることは出来ます。その緩みが、本人のホーム欠落感を埋め、安定感をつくり出します。

 結論は、そういうことですが、次回少し補足したいと思います。

(鮮)

 

ひきこもりを考えるヒント連載-20

 『ひきこもり白書2021』は、コロナ禍のなかでのひきこもり当事者の実情を調査しています。そこからいろいろなことが浮き彫りになっています。

🔸今の人と人との距離は、正直に言うと、とてもちょうど良いです。マスクで顔が見られないことも、外出のハードルを下げているみたいです。

🔸
視線恐怖や対人恐怖があるため、マスクが当たり前の社会は助かる。

🔸会えない、出かけられない、触れられないことの辛さを一般の人にも少し知ってもらえた気がする。好きでひきこもっている訳じゃないとひきこもりに対する理解が進んだ。なんでも経済優先の社会からとりあえず命が大事、安全に!!というメッセージに変わった。

🔸
不思議な話ですがコロナ禍で社会に変化が起きてから、以前より活発に動くようになりました。ひきこもっていても批判されにくい環境にあるからだと思います。「今はひきこもっていてもいいんだ」と思うようになると、安心感(?)を得たのか逆に外に出るようになりました。

🔸外に出て家族の目がないところで気晴らししたくてもコロナ禍では気がひけます。結果、家で「寝逃げ」する時間が増え、睡眠時間が乱れがちになってしまいました。

🔸
自分の貯金を食いつぶしている状態で、今後の見通しも立たず、精神的にも落ち込みつつある。とにかく不安。

🔸コロナのため毒親の仕事が減り、家にいる日が多くなり、もとからうまくいってない家族関係がますます悪化しました。家を出たいです。

🔸
ひきこもりの当事者仲間と、実際に会えたから元気になれたけど、それが無くなってしまい、再びひきこもり当時の感じに戻ってしまったようで、最初の数ヶ月は動けなかった。今は、とにかく外で当事者仲間と会えないのがつらい。

 書かれていることが、とてもよく分かります。メリットとデメリットがありますね。ひきこもりにはプロセスがあり、ここに書かれている内容は【滞在期・前半】なのか【滞在期・後半】なのかを、想像しながら読むことをおすすめします。「毒親」っていうのは、ちょっと大変ですね。 (鮮)
 

ひきこもりを考えるヒント・連載-19


  子どもが何かと出会って、「あ」と口を開く。鳥を見たのか、風に揺れる葉か、野良猫か、公園の水たまりか、「あ」と言って近寄っていく。小さな子どもほど、こうしたことがよくある。その時によって見たものに触れたり、追いかけたり、それで遊んだり、ジャブジャブしたり、転がしたり、いろんなことになったりする。そばにいる親が心配したり、止めさせたりしたくなることが往々にしてある。

 「あ」は、子どもの内部で何かがざわっとうごめいたことを表している。

 オーストラリアのドナ・ウィリアムズという女性が、幼少期の体験をつぶさに思い出して書いた本がある。それによれば・・・

 例えば髪の毛を梳かす〝クシ〟を見つける。「あ」と言って近寄り〝クシ〟手にする。ドナは、そのモノを光に透かしたり、爪でかき鳴らしたり、匂いをかいだり、そのうち自分の歯にあてて音をたてて楽しんだりする。

 この話だけでもうお分かりのように、ドナは〝クシ〟を〝クシ〟として扱うより、多面的に見る、触れる、味わう、聞く、嗅ぐ。本来のそのモノの役割を度外視して、自由にモノと交流している。

 自由にモノと交流する、直にモノと交流する、多面的に多彩にモノと交流する。そういう交流への希求が強い。なかなか飽きない。モノだけでない。風も、光も、水も、しぶきも、森羅万象が交流対象となるのだから、なまなかなことでない。

 〝なまなかなことでない〟と曖昧な書き方をしたが、要はドナのような子は御しがたい。手の内に入らない。〝いい子〟でいない。つまり、社会の〝網の目〟に入りきらない。あるいは、社会への参入が遅れる。

 おうお分かりだろうが、ドナは『発達障碍』として児童期を過ごした。この時期、〝躾け〟の困難さ故に親から虐待を受けていた。

 『発達障碍』は、社会の〝網の目〟への参入が遅れる。理由は、「あ」への希求が強いからだ。定型発達の子たちが、そこそこ「あ」を切り上げて社会の〝網の目〟に組み込まれていくのに対して、その切り上げがゆっくりなのだと思う。

 私は、これはただこういうことであって、「障害」ととらえるべきではないと考える。

 ただ、こういうことが言えるのではないか。〝クシ〟は〝クシ〟だとして、それを認知して、使用する時は〝クシ〟として使用し、使用しなければ通り過ぎる対象ではなく、「あ」の発動によって触覚・視覚・聴覚・味覚・嗅覚の五感が総動員されてまるごと把握される。

 その把握は、これまでにない独自の、新しい視点と表現を生み出す。こう考えられないだろうか。ただし、当面は、社会の〝網の目〟からの蔑視が続くのだろうが・・・。
 

 

社会の〝網の目〟でがちがちにしない。〝その人〟の固有さを大事にしたい。 (鮮)
 

ひきこもりを考えるヒント連載-18


  ひきこもり支援団体がさまざまにあり、中には「居場所」の設定を支援の柱としてし、来所を呼びかけていることがあります。

 このような支援団体による「居場所」のあり方についての考え方を述べたいと思います。

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🔸『居場所』や『活動の場』を提供し、自立した日常生活と社会生活を営むためのきっかけづくりとなる支援を行います。(A市社会福祉協議会)
🔸ひきこもりに悩むご本人やご家族の方々が、誰にも相談できず地域社会から孤立してしまう状況の中、
社会とのつながりを回復するために、安心して過ごせる場所や、自らの役割を感じられる機会が必要であることから、安心感や共感性を大切にした居場所を設置・・・(NPO法人B)
🔸地域若者サポートステーションは、働くことに踏み出したい若者たちとじっくりと向き合い、本人やご家族の方々だけでは解決が難しい
「働き出す力」を引き出し、「職場定着するまで」を全面的にバックアップする・・・(厚労省・サポステ)
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  読んですぐに疑問を持ちます。
  『居場所』をどう捉えているか、とてもハッキリしています。


🔸「自立」できていないので『居場所』を提供する
🔸「社会とのつながりを回復する」ために『居場所』を提供する
🔸「『働き出す力』を引き出す」よう『居場所』を提供する


  『居場所』と捉えられている場所が、社会への「通路」としか見られていません。ひきこもることの意義を否定しているのでこういうことになるのでしょう。人工的な設定と、本人主導の『居場所』の区別が混乱しています。自立できていない、つながりがない、働く力がない、ない、ない尽くし。
 
 つまり、〔する・できる=do〕の物差しから発想する『居場所』です。

 ・・・ハイハイ、〔する・できる=do〕が小さくなっているあなた! 〔する・できる=do〕が途切れかかっているキミ! そんなところに閉じこもっていないでこっちへ来て一歩一歩進みましょう! ハイ、次はこのカリキュラムを進めようか。ゆっくりゆっくり。良いねぇ。〔する・できる=do〕がだんだん大きくなって来たよ~。・・・まるで、〔する・できる=do〕修復工場であるかのようです。

 当事者同士の触れ合いやピア・サポートを併設する支援団体もあるので、一概には言えませんが、「支援」の多くが〔する・できる=do〕の物差しに囚われています。【滞在期・前半】、【滞在期・後半】という、ひきこもりのプロセスへの見極めも配慮も存在していないのです。
 (鮮)