ひきこもりを考えるヒント・連載-19


  子どもが何かと出会って、「あ」と口を開く。鳥を見たのか、風に揺れる葉か、野良猫か、公園の水たまりか、「あ」と言って近寄っていく。小さな子どもほど、こうしたことがよくある。その時によって見たものに触れたり、追いかけたり、それで遊んだり、ジャブジャブしたり、転がしたり、いろんなことになったりする。そばにいる親が心配したり、止めさせたりしたくなることが往々にしてある。

 「あ」は、子どもの内部で何かがざわっとうごめいたことを表している。

 オーストラリアのドナ・ウィリアムズという女性が、幼少期の体験をつぶさに思い出して書いた本がある。それによれば・・・

 例えば髪の毛を梳かす〝クシ〟を見つける。「あ」と言って近寄り〝クシ〟手にする。ドナは、そのモノを光に透かしたり、爪でかき鳴らしたり、匂いをかいだり、そのうち自分の歯にあてて音をたてて楽しんだりする。

 この話だけでもうお分かりのように、ドナは〝クシ〟を〝クシ〟として扱うより、多面的に見る、触れる、味わう、聞く、嗅ぐ。本来のそのモノの役割を度外視して、自由にモノと交流している。

 自由にモノと交流する、直にモノと交流する、多面的に多彩にモノと交流する。そういう交流への希求が強い。なかなか飽きない。モノだけでない。風も、光も、水も、しぶきも、森羅万象が交流対象となるのだから、なまなかなことでない。

 〝なまなかなことでない〟と曖昧な書き方をしたが、要はドナのような子は御しがたい。手の内に入らない。〝いい子〟でいない。つまり、社会の〝網の目〟に入りきらない。あるいは、社会への参入が遅れる。

 おうお分かりだろうが、ドナは『発達障碍』として児童期を過ごした。この時期、〝躾け〟の困難さ故に親から虐待を受けていた。

 『発達障碍』は、社会の〝網の目〟への参入が遅れる。理由は、「あ」への希求が強いからだ。定型発達の子たちが、そこそこ「あ」を切り上げて社会の〝網の目〟に組み込まれていくのに対して、その切り上げがゆっくりなのだと思う。

 私は、これはただこういうことであって、「障害」ととらえるべきではないと考える。

 ただ、こういうことが言えるのではないか。〝クシ〟は〝クシ〟だとして、それを認知して、使用する時は〝クシ〟として使用し、使用しなければ通り過ぎる対象ではなく、「あ」の発動によって触覚・視覚・聴覚・味覚・嗅覚の五感が総動員されてまるごと把握される。

 その把握は、これまでにない独自の、新しい視点と表現を生み出す。こう考えられないだろうか。ただし、当面は、社会の〝網の目〟からの蔑視が続くのだろうが・・・。
 

 

社会の〝網の目〟でがちがちにしない。〝その人〟の固有さを大事にしたい。 (鮮)