子どもがひきこもり状態になったら、親はどう接したらよいか。このことを考えて、ひきこもり問題の連載を終えたいと思います。
私(鮮)が主張してきたことは、〝ひきこもるという営みには意味がある〟ということです。社会の〝網の目〟との接触を遮断して自己対話することが一定の時期、必要です。それを中途半端に切り上げれば、やはり中途半端に〝網の目〟に反応してしまい、苦しむ。中途半端な自分のまま〝網の目〟につながり続け、自己否定感がますます大きくなり、限度を超えてしまうからです。
それで、とにもかくにも、やむにやまれずひきこもったとして、ある経験者がこの状態について次のように言い表しています。
『ハウスはあるけど、ホームは無い』
(石崎森人さん。ひきこもりUX会議理事、「ひきポス」編集長)
『建物としての家=ハウスはあるが、温もりある居場所としての家=ホームは無い』ということだと思います。
どういうことだろうか。何故だろうか。
辛うじて雨露をしのぐことが出来、寝ることも食べることも出来る。けれども、できるだけ早く仕事に復帰せよ、いい年なんだから自立せよ、という〝仮住まい〟に置かれる。
子どもの時は、〝ホーム〟だった。けれども、〝いい年〟を境に変わってしまう。同じ建物=ハウスであっても、〝いい年〟以後は仕事への出撃基地で、自立を前提とした補給基地へと変わってしまう。つまり、娑婆の〝網の目〟=〔する・do〕の目に縛られるようになる。
「ひきこもることだって、あるさ」「時間がかかっても仕方ないさ」「お前はお前だから思うようにすればいい」……言うかどうかは別として、親の構えが〔する・do〕の縛りを緩めることは出来ます。その緩みが、本人のホーム欠落感を埋め、安定感をつくり出します。
結論は、そういうことですが、次回少し補足したいと思います。
(鮮)
